第3話 トイレの個室にて 3

放課後、しぶしぶと屋上に向かったおりつを歓迎したのは、太陽が一日の最後を締めくくるように放つ強烈な西日だった。

思わず瞳を細めたおりつが辺りを見回すと、張り巡らされたフェンスの手前に、誰かがこちらに背を向け立っている事に気が付いた。

恐らくそれが藤来寧々だろう。

腰辺りまである黒く長い髪が風に揺られ、時折太陽の光を鏡のようにきらきらと反射させている。

景色でも眺めているのか、おりつが来た事にいっこうに気づく気配はない。

苛立ったおりつが、片手にしていた扉の戸をわざと音の立つように閉めてやると、くぐもった鈍い音が響き渡り、一瞬ではあるが寧々の肩がビクッと上下したようにみえた。


「ごめんなさい。気になる事があって考え事をしていました。遠くに見える山の事なんですけど、近くに見える山は緑色なのに、遠くの山は青く見えますよね。不思議でしょう?」


誰にともなくそう言った寧々は振り返り、頭を下げた。

揃った前髪から、すっと上がった眉毛がのぞき、まっすぐにおりつを見る茶色の瞳は知的な光をたたえている。

思ってもみなかった挨拶に、おりつは完全に毒気を抜かれてしまい、嫌味で返すどころではない。


「それは大気かなんかの影響って親父が言ってたよ。優等生のわりに知らない事もあるんだな」

「ふふ、いつも見ていたはずなのに、今まで疑問にも思いませんでした。山を見るという事を意識をしてなかったからでしょうか?不思議ですね」


寧々が近くにやって来ると、身長の差は歴然で、丁度、おりつの顎のあたりに彼女の頭がくることになる。おそのよりも少し低いくらいだろうか。

襟元から覗く肌は透き通るように白く、茶色く日に焼けているおりつとは大違いだ。


「それはそうと自己紹介が未だでしたよね。私は1年B組の藤来寧々。今日はわざわざ足を運んでいただきありがとうございます」

「知ってるだろうけど、あたしは1年D組のおりつ」


順序がめちゃくちゃだよなと思いながらも、一応名前は名乗るおりつ。

どんな相手だろうが、相手が名乗れば自分も名乗る。それが礼儀だとおりつは思っている。


「それで、あたしに用事って?まさか山の話をしに呼び出したわけじゃないよね?」

「山談義も非常に魅力的ですが止めておきましょう。もしおりつさんが望むのであれば、今花を咲かせても構いませんが・・・?」


どうもおりつは勘違いをしていたらしい。

世に言う優等生というのは、単刀直入に、簡潔に話をするものだと思っていたが、今、目の前にいる優等生はだいぶに違って、そのままにしておけば、いつまでも関係ない話をしているに違いない。


「えーっと、山の話には興味がないし、早いとこ本題に入ってくれないかな?あたしも暇じゃないんだよね」

「これは申し訳ありませんでした。すぐに話が逸れてしまうのが悪い癖だと両親にもよく注意をされるんです。この前なんて・・・あ、そうでしたね。そ、それでは単刀直入に申します。」


寧々は一呼吸置くと、キッとおりつを見据える。


「おりつさん、私と一緒にアルバイトをして貰えないでしょうか?」

「は・・・?」


二人の間を風が吹き抜け、訪れたのは静寂、そしてまた静寂。


「あ、アルバイトというのはですね、正社員ではなくパートタイムで働く・・・」

「いあ、そんな事は知ってるけどさ、そもそもなんであたしなわけ?今日が会うの初めてだよね。おかしくない?それにバイトなら一人でやればいいんじゃないの?」


おりつは寧々の事が全く理解できなかった。

急に呼び出され、山の話をされて、本題に入ったかと思ったら予想だにしないアルバイトの勧誘。わけの分からない事と苛立ちで、おりつの尻尾は左右に激しく揺れている。


「そうですよね。すみません。さすがに急でしたよね・・・」


目を背け、しゅんとした寧々を見たおりつは少し言い過ぎたかなとも思ったが、その僅か後にはそんな事はまるでなかったと思い直すはめになる。

お気づきかもしれませんが、と寧々は顔を上げる。その目に諦めの色は微塵もない。


「私って、ちょっととっつきにくいんです。ですが、そんな私でも数人の友人がいて、その中の一人、花里さん、彼女は図書委員をしていて、よくお勧めの本を紹介してくれます。おりつさんも読みたい本があったら彼女に尋ねるといいですよ」


生まれてこの方図書館に足を運んだことのないおりつだったが、特に反論はせずに寧々の話の先を促す。

きっと何か言ったところで、話が脱線していくだけだろうから。


「その花里さんが教えてくれたんです。ある時、校庭で野球をしているおりつさんを指さして、ほら、今打った人、あの人、おりつって言うんだけど、スポーツが得意で、よくクラブの助っ人に呼ばれてるんだ。って。私が言うのもなんですが、彼女、体を動かすのが得意ではないので、色々なスポーツをこなすおりつさんが気になったのかもしれませんね」


目元に微かに笑みを浮かべると、寧々は図書館がある方に顔を向ける。

思ってもみなかった所で自分が注目されていた事を知り、悪い気はしないおりつだったが、あることに気が付いた。


「図書委員の花里さんの事は分かったけど、それとアルバイトと何か関係が?」

「はい。私考えたんです。色々なクラブの助っ人として呼ばれるのであれば、私の事も手助けしてくれるんじゃないかって」

「それであたしにバイトを一緒にしろって?」

「ええ。そうです。如何でしょう・・?」


世の中には大きく分けて二つのタイプの人間がいる。

考えたと言って本当に考えているタイプと、ただの思い付きを考えた事にしているタイプだ。それも大体が自分の都合のいい方向へ。この時の寧々は紛れもなく後者だろう。

おりつ自身、考えるのが得意ではなかったが、寧々に関しては、どこかぶっとんでいるんじゃないかと思ったほどだ。


「如何でしょうって・・・そもそも、どんな事をするかも知らないんだぜ?」

「そうですね。一言で言うのは難しいんですが、強いて言うのであれば悪いやつを捕まえるってとこじゃないでしょうか」


半ば呆れ塩梅で、耳の先をぽりぽりと掻いていたおりつの手が止まる。


「・・・悪いやつを捕まえる?もうさ、いい加減にしてくれない?悪いやつなら警察が捕まえるだろうし、そんなのは高校生の仕事じゃないだろ。あんたさ、あたしが耳付きだからってバカにしてるんじゃないか?」


寧々との頓珍漢なやりとりと、過去に耳や尻尾の事をバカにされた事も相まって、おりつは完全に頭に血が上ってしまい、一気にまくしたてた。


この世界、彼女達の世界には二つのタイプの人類がいる。それは前に述べたような考え方の違いではなく、外見についての事だ。

一つはごく一般的な外見をしている人類。そしてもう一つが、おりつや、おそのといった耳や尻尾の生えた人類、ここでは便宜上、猫型の人々と呼ぶようにしているが、にゃん類と呼んでも構わないし、特に呼び名は決められていない。

彼女たちの耳や尻尾、そのほかの細かな差異は、この世界では些細な事で、肌の色の違いや、髪の毛の色の違いと同程度と思ってもらって構わない。

その違いによって戦争が起きたことはないし、戦争が起きたにせよ、国と国の戦いであって、二種の人間がそれぞれに別れて戦った事はない。

同じ人類なのだから当然、人型と猫型の間には子も生まれ、ある時突然に人型の夫婦に猫型の子が生まれる場合もある。その逆もしかりだ。

ただ比較的(これは便利な言葉である)、人型の方が手先が器用な事、考え方の違いから、社会的地位が高い者が多い。

そして、唯一決定的な違いを上げるならば、その寿命の違いになるだろう。

人型は70歳から100歳までだが、猫型はおおよそ60歳で寿命がやってくる。

とはいえ、彼らはその事を嘆いたりはせず、むしろ先が決まっているのだから楽なもんさ、と明るい性格な者が多い。

ちなみに、おりつの言った耳付きという言葉は一種の差別用語で、裕福な人型の子供が猫型の子供をからかう時に使われる場合がある。自分たちにも耳があるのにも関わらずに、だ。

おりつも幼少期、そう言ってからかわれた経験があるのかもしれない。


「バカにしているだなんて・・・。私は、おりつさんの耳や尻尾を初めて見た時から、かわ・・素敵だなって思っていたんです」


まさかここで褒められると思っていなかったおりつは思わず口ごもる。


「そ、それはどうも・・・」


二人の間に若干の気まずい空気が流れる中、先に口を開いたのはおりつだった。


「で、その・・・バイトの時給ってのはどのくらいなんだ?」

「え、あ、そうですね。どちらかと言えば時給というより、内容に応じて、つまりは歩合制に近いと思います。一概には言えませんが、コンビニエンスストア等が提示する賃金よりは、ずっと高いんじゃないでしょうか」


ずっと高い、という言葉におりつは反応し、揺れていた尻尾はその動きを止める。

よくよく考えてみれば、今は丁度バイトもしていないし、時期的におりつの重要な食糧確保源でもある運動部からの助っ人要請もない。

何かしらの収入を欲しい所ではあったし、悪いやつらを捕まえるってのもなんだか面白そうだ。

きっと店の中をぐるぐる歩いて、万引きでも捕まえるのだろう。

おりつにしてみればよく考えた結果、分かった、と一人頷き、不安とも期待ともとれる表情を浮かべている寧々を見据える。


「そのアルバイト引き受けてやるよ。せっかく誘ってもらったのに断るのも悪いしな」


一度やると決めたら、それまでどんな態度を取っていたとしても気にしない。

それが、おりつ、いや猫型の人々に多い性格でもあるのだ。


「ありがとうございます。良かった・・・これで兄の・・・」

「兄の?寧々さん、兄貴がいるんだな。あたしはてっきり一人っ子かと思っていたよ」

「そ、そうなんです。もうすぐ兄の誕生日が近いので、何かプレゼントを贈りたかったんです。素敵でしょう?」

「うん。兄弟想いなのはいい事だよな。で、バイトはいつからやるんだ?あと集合場所とか」


そうですね、と一呼吸置いた寧々は、赤く染まり始めている空に目をやった。

強かった西日は今ではもう影を潜め、この地域特有の涼しい空気を含んだ風が二人の頬をなでる。


「まずは現場を見ていただくのが早いと思いますので、明日、学校が終わった後に藤城公園に集合という事でどうでしょうか?」

「オーケー。放課後、藤城公園ね。万引きの一人や二人すぐにとっ捕まえてやるぜ」


そう言うとおりつは意気揚々と右の拳と左の掌を合わせ、すでにやる気は十分といった様子である。


「万引き・・・?」


寧々は首をかしげていたが、おりつは彼女に目もくれずに扉へと駆け出していた。


「おそのを待たせてた事すっかり忘れたよ。寧々さん、また明日な!」

「は、はい!今日は本当にありがとう」


寧々の返事がおりつの耳に届いたかどうかはわからない。

返ってきたのは、慌てたおりつが階段を激しく下っていく音だけだ。

その音を見送る寧々の顔には、今度ははっきりと期待に満ちた表情が浮かんでいた。


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