第二話 インターミッション -その1

 ポーカー25の終了から一夜が明けて、午前九時。

 美桜が目を覚ますと、そこは天蓋付きのベッドの中だった。

 静寂の中、寝ぼけまなこを擦りながら頭を起こす。

 バスケットコートほどもあろうかという広いベッドルームは、全体が淡いクリーム色だ。背後の一面が背の高い掃き出し窓になっており、そこから眩いばかりの朝日が降り注いでいる。

 美桜は人生で一度も経験したことのない柔らかさのベッドから降り、一流セレブの象徴たる白いバスローブを胸元に引き寄せると、光が溢れる窓ガラスを押し開いて外へ出た。

 ベランダの石畳を素足で踏んだ途端、吹き抜けていく爽やかな偏西風。

 そこから見える、地上百メートルの眺望たるや。

「んーん、最高の気分!」

 晴れ渡る朝のラスベガスを見下ろしながら、美桜はうんと背伸びをした。


 ――ここは、ワイアットパレス別館二十五階の通称「エクステンド・スイートルーム」。

 世界中の名立たるVIPがラスベガスで至るべきひとつの到達点であり、裏カジノで勝ち抜いた少数の億万長者だけが宿泊することができる、最高級の副賞の具現だった。

「部屋はキレイで豪華やし、お風呂はジャグジーでマッサージ付き、昨晩のディナーも美味しかったあ……。こないに幸せでええんやろかなあ……」

 などと逡巡のような言葉を口にするが、緩み切った頬との整合性はまったくない。

 美桜はくるりと踵を返すと、瀟洒なベッドの中で波打つ純白のシーツを睨みつけて、

「特にこのベッドがダメや。コイツぁけしからん。人を堕落させるキサマなんて……こうや!」

 その中へと思いっきりダイブした。

 昨夜の疲労がまだ残っているらしい。ふわふわのベッドに顔を埋ずめていると、美桜の瞼は自動的に閉じ、頭の奥の霧が再び脳内に広がっていく幻想を感じた。

「はぁー、こらアカン。人生ダメになるう……。イマリン、ちー子、ゴメンなあ……」

 本当に昨夜の緊張感が嘘のようだ。

 たった三時間で稼いだ額は、二人合わせて約6億円。

 初期のチップ20枚分を差し引いても、3億6000万円が手元に残った計算になる。これを二人で山分けしたので、一人頭1億8000万円という途方もない金額が、美桜のポケットの中に銀貨のチップとして納まっていた。

 これだけお金があれば何でもできる。

 今までみたいに毎日モヤシなんて食べなくてもいいし、ちー子に好きなものだって買ってやれる。前から欲しかったあの服や、密かに憧れていたあのアクセサリーだって――、

「――って、ちっがーうッ!」

 美桜は思い切り毛布を蹴っ飛ばして跳ね起きた。

「私の目的は金やないやん! 妥当シルバー・アープやん! 復讐に燃える鬼が私やん!」

 危ない危ない、マジで目的忘れるところだった。高級ホテルの魔力恐るべし。

 美桜は一分で私服に着替え、九分で支度を整えると、勢い良くスイートルームを飛び出した。

 二十五階のエクステンド・フロアは廊下も豪奢だ。

 緩いカーブを描く廊下は広く、部屋の扉は右の壁にしか並んでいない。左の壁はすべてが全面ガラス張りとなっており、こちらからはワイアットパレスの中庭や別館、チャペルといったホテル内の施設が良く見渡せた。

 廊下の脇に寄せられたラウンジには座り心地のよさそうなソファが並び、コーヒーを嗜む宿泊客の姿もちらほらと見受けられたが、美桜はそれらをすべて無視して大股で廊下を進む。

(一応、ホテルの構造は事前にリサーチしとったからな。目的の場所は分かっとる)

 回廊を越え、エレベーターホールを通り過ぎた更なる奥に、その場所は現れた。

 スカイウォーク――俗に言う、連絡通路、というヤツだ。

 この連絡通路がある場所は地上二十五階。主に客室で構成される別館と、フロントやカジノホールがある本館とを空中で繋ぐ全長約二百メートルの円筒状の橋で、やはり床と骨組み以外のすべての壁がスケルトン素材のため、高所恐怖症にはいささか辛い形状となっている。

 連絡通路と呼ぶからには、この通路を通れば本館の高層階へ自由に行き来できるはずだと考えるのは当然かもしれないが、このワイアットパレスにおいては例外だった。

「――申し訳ありません、ミス。ここから先は、通常のお客様のご入場をご遠慮しております」

 美桜が連絡通路に近づくと、通路の手前で待機していた黒人の黒服が二人、いかつい身体を押し並べて立ち塞がる。この二人が連絡通路を守る番人であることは明らかだった。

「なんや、物々しいな。私はこの先、本館の最上階にいるというシルバー・アープ氏に一言ご挨拶申し上げたいだけなんやで。……なあ、通してくれへんのん?」

 試しに色仕掛けっぽい猫なで声を出してみるが、黒服の鉄面皮は微動だにしなかった。

「アープ氏の部屋を含め、本館の高層階へは許可なく近づくことはできません。アープ氏とお話をされたいのでしたら、次の晩餐会までお待ちください」

「ちっ……おのれらケチか」

 舌打ちを残してそこから離れる。

 あの二人を強行突破して連絡通路を通るのは無理そうだ。もっとも、この展開は最初から予想していたことではあるのだが。

 説明が遅れたが、このワイアットパレスは三つの高層建築物から成るグランドホテルだ。

 ワイアットパレスの顔とも言うべき地上三十階建ての本館を中央に据え、一般客宿泊用の別館と、VIP用の別館が左右を囲むような配置となっている。別館はそれぞれ本館よりも五階分低いため、その外壁の色も手伝ってか、黄金の山脈と揶揄する声も聞こえなくはない。

 連絡通路自体は一般客別館側にも存在するが、それはあくまで地べたでの話で、本館の高層階へ直接繋がる連絡通路があるのはVIP側だけである。

 そもそも宿泊をしないカジノ利用客が出入りできるのは本館五~七階のグラン・カジノまでで、その上にある高級レストランやコンサートホールには足の一歩も踏み入れられない。

 どこまでもVIPのためだけに偏ったホテルであるのが、このワイアットパレスの最たる特徴だった。

 しかし、そのVIPすら自由に足を踏み入れられない領域がある。

 それが本館二十五階以上の、高層階――このスカイウォークの先にある、天空の城だ。

(想像はしていたけど、やはり警備が厳重やな。VIP中のVIPしかアカンってことか)

 美桜は別館の廊下に戻り、思考の海を漂いながらゆっくりと壁伝いに周回する。

 以前カリフォルニアの情報屋から話を聞いたが、情報が掴めているのは並みのVIPが入れる二十四階までで、そこから上は元フロアスタッフに訊いても分からなかったそうだ。

 唯一判明しているのは、最上階のすべてを占用している唯一の部屋がホテルのオーナーであるウィリーバー・シルバー・アープの執務室であることと、美桜が向かうべき場所がそこである、という事実だけ――。

 湾曲するガラスの壁に片手を置き、その向こうに透けて映る黄金の塔の最上階を見遣る。ここからではまだあちらの窓も遠く、その中に憎き父親の姿も見つけることはできなかった。

(……さて、どうやってあそこまで行ったモンやろか)

 美桜が再び思案に耽ろうと頬に手を当てたとき、廊下の先で覚えのある声が聞こえた。


「やあやあ、美しいお嬢さん。私と一緒にブランチでもいかがですか?」


 やけに滑舌の良い、舞台演者のような声音だ。

 美桜は眉根を寄せながらそちらへ歩いていく。

「貴女とお会いできたのは、まさに奇跡。この幸せな時間を少しでも長く頂戴したく――」

 そこにいたのは、どこまでも白い衣装に身を包んだ男と、年端も行かない女の子。

 床に片方の膝を突き、幼女に手を差し伸べながら、歯の浮くような台詞を恥ずかしげもなく発している男の横顔を視認すると、美桜は声を上げながら二人の間に割って入った。

「おま、何やってんねんマスク男! 幼女略取は犯罪やぞ?」

「……ノーマンデーだ。いつになったら俺の名前を覚えるんだこの乳袋は」

 幼女に向けていた笑顔とは百八十度違う表情でこちらを睨む紫の仮面。幼女はぽかんと口を開けると、すぐに興味を失ったように走り去って、「ママー、へんなひとがいたー」と至極真っ当な評価を叫びながら廊下の向こうに消えていった。

「ああ、畜生。久方ぶりの運命の出会いだったというのに……よくも邪魔をしてくれたな、乳袋」

 床に着いたマントの埃を払いつつ、ノーマンデーが立ち上がる。美桜は呆れて頭を搔いた。

「そりゃ邪魔するやろ。何を幼女相手にナンパしとんねん。相手は十歳くらいやんか」

「美しい女性に年齢は関係ない。それに女性に声をかけるのは紳士の嗜みだ」

「いい歳こいてクソのような嗜みすんなや。そんなことより、ちょうど良かったわ。昨日のことでアンタに話があんねんよ」

「俺はない。じゃあな」

 くるりと踵を返し、遠ざかっていくノーマンデー。美桜は慌てて追いすがる。

「おいおい、ちょっと待てって。ええやろ別に話くらい。これでも私、アンタには感謝してるんよ。あの絶望的な状況で生き残れたのはアンタのおかげやし、それにチップだって……」

「いらん金とはいえ、貴様に儲けの半分をやったのは間違いだった。お前がここに存在していなければ、先ほどの可憐な少女とお友達になれたかもしれないのに……」

「まだ言うかこの変態が。第一、可憐な少女ならここにおるやん?」

 ドヤ顔で自慢の胸を張る美桜。

 ノーマンデーは横目で美桜の肢体をちらりと見ると、

「……けっ、贅肉が」

 あからさまにため息を吐き出して、再び歩き始めてしまった。

「ぜッ、贅肉はないやろ! これでも美少女で通ってるんやで、バイト先のパチンコ屋では!」

 地元のおっさん連中から言われたお世辞を後生大事にしているあたり、美桜もなかなかに残念系美少女ではあるのだが、そんなことに一分の興味も示さないノーマンデーは、代わりに窓ガラスの壁に手を突いて、太陽の下で金色に輝く本館の高層階を見上げた。

「俺はあちらに辿り着く算段を考えるので忙しいんだ。乳豚は乳豚らしく、あっちで残飯でも食ってろ」

「え……アンタも高層階に行く気なんか? シルバー・アープに会うために?」

 いろいろと酷いことを言われた気もするが、大事の前にあえて無視する。

 ノーマンデーは振り返ることなく、美桜の問いに答えた。

「そんなジジイに用はない。俺の目的は妹の救出だ。そのためだけにここへ来たんだ」

「妹? 救出って……ちょっとアンタ、場所変えて詳しく話を訊こか!」

「うおッ! ちょ、何しやがる!」

 美桜は強引にノーマンデーの腕を掴むと、ずるずると抵抗する間も与えず引っ張っていく。

 時刻はもうすぐ十時になろうとしていた。

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