第一話 ポーカー25 -その4

 美桜は一歩一歩、踏みしめるように階段を登る。

 向かうは台座の頂、勝負の座。

 数えるまでもない段差を登り切ると、急に開けた眼下の視界に、美桜は短い感嘆を上げた。

「おおう……これが、カジノテーブルからの景色か」

 たかだか三メートル程度の高さだが、場内が一望できるロケーションはそれなりの迫力だ。

 カジノテーブルはマホガニー材の平板にエメラルドグリーンのマットを張った逸品で、明らかに数百万円はするだろう値打ちもの。

 眩いばかりのスポットライトの強襲に、一瞬意識が遠くなった。

「はいはい、ゲームを始めますウサよ。両者とも席にお着きくださァい」

 テーブルの前で待っていたバーニーが、両腕を左右に広げて手招きをする。

 テーブルを挟んで向こう側に着席したのは、全身白づくめのマスクマンだ。美桜は男を一瞥すると、唇を真一文字に結んだまま席に着いた。

「それでは、第七回戦を始めるウサ。両者、チップ一枚のアンティをお願いします」

 バーニーが静かな声で言う。美桜はケースから一枚のチップを取り出し、照明を受けて光り輝くその銀色の重みを指先で確かめた。

 アンティとは最低賭け金のことで、同時にゲームへ参加したことを証明する手数料の意味でもある。これを出したら最後、もうゲームからは降りられない。

 たった一枚で、十万ドル。約1200万円の大博打。

 このチップ一枚は、「銀のまきば」何年分の運営資金になるだろうか。

 私は今、自分の人生の中で、一番高い無駄遣いをしようとしている――。

(ええい、なるようになれッ!)

 気合と共に腕を振り上げ、打ち降ろした銀色のチップは、エメラルドグリーンのマットの上へ。

 その瞬間、会場中の視線と天井のモニター越しの視線が、一気に美桜の元へと集中した。

「はいッ、両者アンティ出ましたね。ゲーム成立ウサ!」

 にこやかに笑うバーニー。まさに優良ディーラーの鏡のような笑顔で、赦されるならそのツラを張ッ倒してやりたいくらいだ。

「では両者、五枚のカードを伏せた状態でテーブル上へお出しください。ちなみに、一度出したら引っ込めるのはナシですよぅ?」

 バーニーに促され、美桜は手の中に隠していた五枚のカードをおずおずと提出する。

 一方のマスクマンは文字通りのポーカーフェイスだ。すばやく自身の五枚をテーブル上に並べると、なおも不安げな表情を浮かべる美桜へ視線を投げた。

「どうしたフロイライン。ずいぶんと物憂げな表情をするじゃないか。こういった博打は不慣れかい?」

 気障ったらしく言うマスクマンに、美桜は皮肉を込めた口調で答える。

「マドモアゼルの次はフロイラインか。バイリンガルもええ加減にせえよ。……第一アンタ、マスクの奥は東洋人の顔つきやんか。もしかして私と同じ日本人ちゃうのん?」

「日本? ハッ、俺様は世界を股に掛ける風来の紳士、ノーマンデーだぜ。そんなサムライとオタクとロリコンしかいない未開の地なんぞ、俺と関係あるはずないだろう」

 一笑に付してプラプラと手を振る。ノーマンデー、というのが男の名前なのか。

 日本に対する明らかな偏見とクソみたいな偽名を名乗ったマスクマンを尻目に、バーニーは口を開いた。

「次はBETタイムウサ。まずはァ……先にカードを提示したお嬢さんから、BETをどうぞ」

 美桜はちらりとテーブルの上に視線を廻らせ、思考する。

 選択できるBETは三種類。

 現状の賭け金のままで同意する【チェック】と、

 チップを追加して賭け金を吊り上げる【レイズ】、

 そしてアンティだけを犠牲に勝負を降りる【ドロップ】だ。

 テーブルの両端には、既に二枚の十万ドルチップが光っている。この勝負はまだ初戦なのだ――いたずらに挑発的なBETを選択して、大きく賭ける必然性はまったくない。

「チェック、や」

 美桜はチップの頭を指でトンと叩き、チェックの意思をマスクマンに示した。

「では、仮面のお兄さんの番ウサね。さあ、BETをどうぞ?」

 男は仮面の奥で一瞬だけ黙考。しかしすぐに顔を上げると、思いがけない行動に出た。

「――レイズ。プラス二枚で、三枚勝負だ」

「はあッ?」

 美桜が思わず立ち上がって叫ぶ。

 階下の客たちも、その大声になんだなんだと騒ぎ出した。

「れ……レイズやて? 三枚勝負? さ、三十万ドルもいきなり賭ける気か!」

「どうした、嫌ならドロップしても良いんだぞ。今ならチップの損は一枚だ、傷も浅かろう」

「ぐ……ッ!」

 美桜は奥歯を噛み締める。

 ノーマンデーの表情は極めて平静だ。両腕を胸の前で組み、薄い笑みを口端に浮かべたまま、マスクの奥から美桜の瞳を覗き込んでいる。

 美桜はひとつ、大きく息を吐いて、ケースの中から二枚の銀貨を取り出した。

「こ、同額勝負コールや。……舐めんなよマスク野郎。女かて度胸やねんぞ」

「その割には、指が震えているように見えるがな」

 ――当たり前だ。3600万円も賭けておいて、震えないほうがどうかしている。

 喉の奥から飛び出しそうな言葉を堪えて、美桜は二枚のチップをテーブルの上に追加した。

 これで、場のチップは計六枚。

 勝ったほうが7200万円の総取りである。

「両者、よろしいウサね? ではこれで、BET終了でございます」

 バーニーが恭しく頭を下げる。初っ端からの大勝負に、美桜の冷や汗は止まらない。そんな相手の不安げな態度を前にして、マスクマンの表情はますます余裕綽々に染まるようだった。

 ――だが、これでいい。

 美桜は、自分の正直な気持ちを利用した迫真の演技に、内心でほくそ笑んだ。

(やっぱ、舐めとんのはキサマのほうやで、マスク野郎。私の眼の良さを知らんのが運のツキや)

 あのときノーマンデーの誘いに乗ったのは、ただ気が向いたから――というわけではない。

 美桜には、このマスクマンになら勝てる確信があったのだ。

 台座の傍で必勝法を考え、壇上に登る客たちを注意深く観察していた……そのときから。

(この白づくめは、第三回戦で登壇した客の片割れや。テーブルに着いて、カードを出そうとした瞬間を、私はナナメ下からんやで……この眼でな!)

 おそらく、マントで隠せば周囲から見えないとでも思っていたのだろう。

 第三回戦に挑むこのマスクマンだけが、他の客と比べて、明らかにガードが緩かったのだ。

(第三回戦でコイツが出したのは、クラブのA、K、Q、J、10――つまりロイヤルストレートフラッシュや。裏を返せば、今コイツが持っとるのはRSFが一組、SFが二組、2Pが一組。この状況なら、私との対戦に最後のRSFを使うのはまず有り得へん!)

 なぜなら、今RSFを使い切ってしまえば、手元に残るのはSFと2Pだけになるからだ。

 SFと2Pは非常に勝率の低い役だ。まだゲームが始まって間もないというのに、最強の手札を使い切ってしまうのは愚策以外の何物でもない。周囲のRSF所持率が下がるまで、最低でも一組はRSFを温存しておくのが最低限のセオリーなのである。

 ゆえに、この対局でマスクマンが提示した五枚のカードは、RSFでは有り得ない。

 では、マスクマンは一体何の役を出したのか?

(チップ三枚吹っかけてきたんや。決まっとる。……ブラフ狙いの2Pや!)

 吹っかけてきたということは、相手をビビらせてドロップさせるのが目的だろう。

 であれば、わざわざ中堅どころのSFを出す必要はない。必然的に、2Pを使うのが自然の流れとなる。

(コイツは初戦で一勝しとる。しかも、そんときも3枚賭けの大博打や。だから今回も調子に乗って3枚賭けとるし、ここで3枚負けてもそこまで痛くない。2Pで負けるなら尚更や。ポーカーフェイスなんぞしとっても、私には通用せぇへんで!)

 勝ちを確信し、頭の中で高らかなガッツポーズを決める美桜。

 そんな美桜の心中を知ってか知らずか、不意にニヤケ面を止めたマスクマンは、少しだけ眼を細めて美桜の顔を観察し始めた。

「な、なんや急に。人のことジロジロ見て」

「どうも乳臭いと思ったら……なんだ、未成年者マイナーズか」

「チ……って、ドコ見とんねんオマエ! エロ犯罪者が!」

 ばばっ、と慌てて胸元を両手で覆う美桜。しかしマスクマンは、そんな態度も意に介せず、

「その度胸は認めてやらんこともないが、ここではその傲岸不遜が命取りだぜ」

「は? 今更何言ってんの、このエロマスクが」

 どうせブラフが見破られたことによる、悔し紛れのハッタリだろう。

 カードはもう提示された。今から何を訴えようとも、覆水は盆に帰らない。

「さァさァ、それではお立会い! ドラムロール・スタート!」

 バーニーの声と共に、軽快なドラムロール。

 美桜は勝ちを確信し、勢い良くカードを裏返してストレートフラッシュを提示する――!

「イッツ、ショー・ダウン!」

 ドン、という効果音が鳴り響き。

 マスクマンが裏返したカードを見たとき、美桜は予定通りに絶叫した。

「よっしゃああ! SFと2Pで私の勝ち――

 ――じゃないッッ?」

 美桜がテーブルに両手を叩きつけて、眼を見開く。

 マスクマンがひっくり返したカードの絵柄は、

 それぞれスペードのA・K・Q・J・10。

 つまり――ロイヤルストレートフラッシュである。

「SF対RSFで、仮面のお兄さんの勝利ウサーっ! それでは、チップは全額お兄さんの元に移動しまァす!」

 美桜の目の前で三十万ドルのチップが取り上げられ、その3枚はマスクマンの手元に。

 マスクマンは立ち上がると、3枚の銀貨を観衆に見せ付けるようにしてその手を掲げた。

「う、うおおぉ! あのマスク野郎、二連勝しやがったぜ!」

「初戦もプラス3枚の勝ちだったよな? ってことは、これでプラス6枚か!」

 動揺と驚嘆の声が、小波のように会場中に広がっていく。

 そんな会場中の視線を集める男の背中を、美桜はこれ以上ない苦悶の表情で睨み付けていた。

「そんな……バカな! ありえへん! 序盤でRSFを使い切るなんて、正気の沙汰やない!」

「おいおい、フロイライン。誰がRSFを使い切った――なんて言ったんだ?」

 マスクマンが振り返る。シャンデリアの光を背に受けて、その顔がますます愉悦に染まった。

「それは……わ、私は見たんや! アンタの初戦がRSFだったのを。だから――」

「もしかしてお前が見たというRSFってのは、こいつのことか?」

 マスクマンは、タキシードの内ポケットから、五枚のカードを抜き出してみせる。

 そのカードに刻まれていた刻印は、クラブのA、K、Q、J、10――。

 美桜は大きく眼を見開いた。

「な、なんでッ? そのカードは、もう使い切ったはず――」

「俺のRSFが見えたって? それは事実と異なるな。正確には、んだ」

 マスクマンはカードを持ったまま、その手をくるりと一回転する。そして次にカードの表を美桜に見せたとき、そのカードの絵柄はクラブの9・8・7・6・5に変わっていた。

「俺の格好を見て気付かなかったか? 俺の本職はマジシャンでね。こうやってカードをすり変えるのは得意技なんだよ。だから、お前みたいな覗き見女はいいカモになるってわけだ」

「く……、嵌めやがった……ッ!」

 美桜は突いていた両腕から力を失い、テーブルの上に突っ伏した。

 このマスクマンは初戦のとき、美桜だけにRSFを見せることで、美桜に「RSFを消費した」と信じ込ませた。残りのRSFの数が一組だと誤認させたのだ。

 ゆえに結果はご覧のとおり。そう考えれば、マスクマンが美桜に対戦を申し込んだのも、偶然ではなかったということになる。

(こいつ、はじめッから私をカモにしようと……ウソやろ、この私を……ッ!)

 とんでもない屈辱。

 3600万円を失った喪失感と合わせて、腸が煮え返らないわけがない。

「も……もう一度やッ、マスク男! 今度は絶対負けへん! 絶対に取り戻したるッ!」

 恥も外聞もかなぐり捨てて、プライドの塊の美桜が顔を上げて叫ぶ。しかし、マスクマンは涼しい顔で、

「やだね。他を当たりな」

 くるりと踵を返し、階段へと向き直った。美桜は思わず立ち上がる。

「ふざけんな、逃げる気かキサマあッ!」

「同じ相手とは連続で対戦できないのがルールだろう。カモは一度食べたら出涸らししか残らないものなんだよ。……第一、俺はお前みたいな下品な乳袋ちちぶくろには興味がないしな」

「ちッ、ちちち、乳袋やとッ? 待てやゴラあ、クソ仮面!」

 顔を真っ赤にして、あらん限りの力で罵声を吐く美桜。

 マスクマンは一度だけマントを翻して振り返り、紫色のマスクの位置を左手の中指で調節しながら、改めて口元を歪めるのだった。

「もう一度言っとくぞ、乳袋。俺の名前はノーマンデーだ。覚えておけ」

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