プロローグ -3
「――その覚悟が、私にあるからやろなァ!」
大声疾呼。
美桜がプレイヤーカードを一息で裏返すと、現れたカードは【ハートの9】。
会場中の驚嘆が小波のように広がって、次の瞬間には、そのすべてが歓声に昇華した。
「うおッ、で、出たッ!」
「すごいぞ……これは奇跡だ!」
「あの
そんな取り巻きの一部の声を聞いて、美桜は内心でほくそ笑む。
(アホやなあ。幸運の女神とか、そんなんいるわけないっつーの)
美桜が勝てた要因は実に簡単。ゲームが始まる前にシューターの中身を知っていたからだ。
ディーラーが相手にするのは美桜だけではない。美桜とのゲームが始まる直前、別の客との対戦のためにディーラーがカードをシャッフルした瞬間を、美桜はディーラーから姿が見えない絶妙な位置から密かに観察していたのだ。
その観察で、――美桜はその類稀なる動体視力と記憶力を持って、トランプのカード五十二枚すべての重なり順を記憶する。
あとは、その五十二枚を使い切る前にテーブルに着き、記憶力を頼りにゲームをするだけだ。
もちろん、そんなのは完全なるマナー違反。そもそもプロのディーラーのシャッフルを見抜けるなんてこと自体が異常だが、それが美桜の天才たる由縁なのだろう。
しかし、この勝利はシャッフルの手捌きが遅いディーラーを見つけ、そして周囲の黒服に怪しまれないよう、手の中が見やすい角度をさりげなく探し続けた美桜の努力の賜物でもある。
そういう手管、すべてをひっくるめて実行に移せる美桜の執念こそが、この結果。
日々のアルバイトでこつこつ貯めた軍資金、美桜の全財産である十万円が、顔をしかめたディーラーの手によって四十八倍――480万円分のチップとして手元に戻ってきたとき、美桜は言いようのない快感が背筋をぞくぞくと駆け巡ったことを自覚した。
(あ……アカン。笑うなや自分。こんなのは、まだ序幕に過ぎんのや……ッ)
緩みそうになる頬の筋肉を堪えながら述懐する。
そう、これは序の口。文字どおりのプロローグに過ぎない。
たかが
「ブラボーな勝負でしたね、ミス」
そのとき、背後から掛けられた男の声に、美桜は冷静さを装ったまま振り返る。
周囲の客を掻き分けて現れたのは、黒いスーツを身に纏った屈強そうな黒人が四名。おそらくここのカジノのフロアスタッフ――いわゆる黒服だろう。美桜が視線を向けると、男の一人が怪しげに微笑みながら口を開いた。
「どうやら貴女の素晴らしい技量では、このノーマルなフロアは些か狭すぎるようだ。よろしければ、当カジノの特別なゲームで遊んでみてはいかがですか?」
来た……!
美桜は餌に魚が喰らい付いたことに内心で歓喜しつつも、表面上はきわめて冷静に、優雅な淑女を演じながら、その場からゆっくりと立ち上がった。
◇ ◇
グラン・カジノがハイリスク・ハイリターンだと評したが、それはあくまで一般客が利用するレベルのカジノからして見れば、ということだ。
先ほどの二万ドルという勝負は、世間一般の感覚からすればかなりの博打かもしれないが、いわゆるVIPと呼ばれる上流階級の人間にとっては大した額ではない。そもそもVIPのカジノに来る理由が、賭けで金を稼ぐことにあるという推論からして、一般人の妄想である。
連中にとっての二万ドルなど、遊び場へ入るための入場料程度の価値しかない。
「お客様は運が良い。そのゲーム、ちょうどこれから始まるところでしてね。招待客を締め切るかどうか迷っていたところで、貴女が私どもの目に留まったのでございます」
前後左右を黒服に囲まれて、美桜を乗せたエレベーターは地下へと向かう。
一般客が利用できないグラン・カジノのVIP専用通路から直に乗り込んだ白いエレベーターは、本物の金で縁取られた豪奢なつくりだが、一切の窓や階数表示がないため、浮遊感が想像以上に長く感じられた。まるで地獄の底へと落ちて行っているようだ。
「目に留まった……ね。私を見つけたのは、ひょっとして、このホテルのオーナーなんかな?」
美桜がそう訊くと、黒服の一人は白い歯を見せながら軽く笑った。
「いえ、当たらずとも遠からずですかね。オーナーのシルバー・アープ氏は多忙の身……自らお客様を選定することはありませんが、どのような方をお連れすべきかは伝え聞いております」
黒服の答えから察するに、これから始まる「特別なゲーム」とは、美桜のように選ばれた客だけが参加できるゲームらしい。おそらくはその大半をグラン・カジノの客から選別しているのだろう。
美桜は眼を伏せ、浮遊感に身を任せながら心の中で述懐した。
(スラム街の情報屋から聞いたとおりや。つまり、先ほどのバカラは連中にとっての簡単なテスト。これから始まる裏カジノへ参加できる資格があるかどうかを見極めるための――)
チン、と軽い音がして、ようやく地獄の底へと到着する。
エレベーターの扉が開いた先には、簡素なコンクリート造りの控え室。一緒に乗ってきた黒服とは別の黒服が、豪華絢爛な深紅の扉の前で仁王立ちしており、美桜がそこに近づくと、視線だけで人間を殺せるのではと思わんばかりの眼光で睨みつけてきた。
「さて、お客様。ここより先はチップを含めた一切の私物の持ち込みが禁止でございます。お召し物以外の私物は、こちらの籠にお入れください」
先ほどの黒服がそう言って持ってきたのは、ひと抱えくらいのバスケットだ。ゲームルームに携帯電話などが持ち込めないのはよくある話なので、美桜はいくつかの貴重品を籠の中に入れようとして――ふと、その言葉の違和感に気が付いた。
「え? チップも入れるの?」
「はい。これより先は、グラン・カジノとは別の遊技場です。上のチップは使えません」
「せやかて、チップないと賭けられないやん。せめて財布は持ってかんと……」
「いえ、キャッシュも不要です。ご安心ください。ギャンブルに必要なものは、すべて会場内に用意しております。ああ、それと……これにご署名を」
黒服が手渡したのは一枚の紙切れ。その題名は、英文で「誓約書」と書かれている。
その書類の条項を素早く斜め読みした美桜は、口端を吊り上げて嘆息した。
「――このゲームの一切の情報は外部に漏らさず、そして、このゲームで発生した負債はどんなことがあっても返済すべし、か。……なんやコレ、キナ臭い文書やなあ」
「いろいろと特別なゲームですので、ご勘弁を」
黒服が軽く頷く。と言っても、どうせ署名をしなければこの先には進めないのだろう。
今更、後に引けるわけでなし。
美桜は素早くサインをすると、黒服の胸に書類を押し付け、次いでトレンチコートを脱いでバスケットの中に放り込む。ここまで来れば、もう淑女を装う必要もない。
ワインレッドのリブセーター姿になった美桜は、高いヒールを鳴らして赤い扉の前に仁王立ちした。
「ギャンブラー共が待っとんのやろ? ほんなら、さっさと扉開けえや」
伏する猛獣のような美桜の声に、黒服たちは真顔を取り戻して扉に触れる。
両開きの扉は、ゆっくりと内側に。
眩い光が差し込む中、強欲と復讐の舞台の幕は切って落とされようとしていた。
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