プロローグ -2

「――はあッ? ラスベガスへ行くう?」

「前から言うとったやんか。イヤやなあ」

 食卓の上に置かれた学校案内のパンフレットは、どこもかしこも英語で書かれていてまるで読めない。それでも少し前に話題に昇った内容を思い出して、修道服姿のシスター・伊万里いまりは紺色の頭巾の上から自分の眉間を指でぐりぐりした。

「まさか……あの、カリフォルニアの大学とかいうヤツか? それ、冗談やったんちゃうのん?」

「ちゃいます。交換留学やってば。もう出発は明日なんやで?」

 ホレ、と美桜が部屋の隅に寄せられた旅行かばんを指差すと、とたんに伊万里はわぁっと騒ぎ出して、

「こ、ここ、この孤児院の年長であるウチに相談も無くッ! お姉ちゃんは許しまへんで!」

「院長のOKはもろたって。ホント心配性やなあイマリンは。……つーても、もう遅いけど」

 美桜は苦笑しながら、長い黒髪を掻き上げた。

 この施設――教会に併設された『銀のまきば』は、日本の片隅にある小さな私営の孤児院だ。

 十八歳以下の少年少女と米国人院長のドミニク・ユーストン、そして唯一のシスターである各務かがみ伊万里が暮らす建物は、美桜が入所した十五年前からまったく変わらないボロさ加減。内装こそ淡色の壁紙でそれなりに見せてはいるが、窓や扉の立て付けまでごまかせるものではなく、二人が向かい合って座っている食卓のテーブルだって、あちこちシミとヒビだらけだ。

 それでもしばらくの見納めとなる――と、美桜が慈しむように思い出の染み込んだテーブルを指でなぞっていたとき、何かに気付いた伊万里が真剣な表情で美桜を見つめた。

「ラスベガスって……アンタまさか、父親に会いに行くんとちゃうやろな?」

 父親――その名が出た途端、優しかった美桜の視線は冷たい冷笑へと変化する。

「それ、愚問やね。何のためにカルテックなんぞ留学先に選んだ思てんの?」

 カリフォルニア工科大学カルテックは隣州ながら、ネバダ州ラスベガス市と260マイルしか離れていない立地条件だ。バスでも四、五時間で行ける距離。

 伊万里は改めて、はあ、と深いため息を吐いた。

「その大学、近いって理由だけで行けるよーなレベルのトコじゃにゃあと思うんやけど……ま、アンタならやるわな。アンタは、この孤児院始まって以来の天才やし」

「そやね。……全部、この日のためや。必死に勉強して、奨学生になって、留学制度のある大学探して……全部、アイツの面を拝むためだけにしてきたことやもん」

 達観したような物言いながら、強い意思の宿る美桜の瞳。

 彼女のこの、儚くも強い憎悪の瞳の正体を、伊万里は良く知っている。

 ――美桜がこの孤児院へ連れて来られたのは三歳の頃。

 唯一の家族であった母が亡くなり、すべての身寄りを失った彼女をドミニク院長が引き取ったのが始まりだった。

 美桜はいわゆる愛人の子で、父親である人物に母子共々棄てられたのだそうだ。

 元々身体の弱かった美桜の母は、美桜を産んですぐに病に伏せ、そのまま三年の月日を苦しんで亡くなった。

 その間に父親はただの一度も見舞いに来ず、入院費も負担せず――それどころか、母という愛人がいることも、その娘がいることも世間に公表しなかったのだ。

 その男は、世界でも名立たる大富豪だ。社会的地位を守りたいがための隠蔽だったのだろう。

 母があんなにも苦しんでいたにも拘らず、私がこんなにも苦しんでいたにも関わらず。

 その巨万の富の一滴も注ぎもせずに、母のことを見殺しにしたのだ。

 そんなことは許されない。人として、許されることでは決してない。

 奴にその罪過を認めさせ、母の墓前で許しを請わせること――それが美桜の望みだった。

 その男の名前は、ウィリーバー。

 日系二世、ウィリーバー・シルバー・アープ。

 それは、ラスベガス・カジノホテルの最高峰、ワイアットパレスの現オーナーの名前である。

「……で? 父親に連絡したんか? 会ってどうすんねや?」

 矢継ぎ早に飛んできた伊万里の問いに、燻った想いを胸の奥へと仕舞いながら美桜は答える。

「電話やメールなんて、届くわけないやんか。相手は超有名人の一流セレブやで? ましてや私らの存在を隠しとる奴が簡単に会おうものなら、それこそアホ丸出しや」

「やったら、ワイアットパレス行っても無駄ちゃうのん?」

「いやいや、それがね。裏技で会う方法があんのよ」

 美桜は伊万里の耳に唇を寄せて、ひそひそとコソコソ話。話が進むにつれ、伊万里の眉間のしわは険しくなり、最後は飛び上がってあとじさった。

「うッ、裏カジノやてッ? それって、スペシャルヤバいやつなんちゃうん!」

「ヤバいからええんやない。法に反していれば、それこそ逃げられる心配ないやん」

 美桜がきししっと楽しそうに笑う。一見すると才色兼備のお嬢様然とした駿河美桜だが、その正体が冷徹と非情を好む嗜虐性小悪魔であることを知る人間は意外に少ない。

 そして、己の目標のためならどんな手段も、あらゆる努力も厭わない人間であることも。

「……みおねーちゃん、あめりか行ってまうん?」

 気が付くと、寝室の扉から一人の少女が顔を出して、美桜の眼を覗き込んでいた。孤児院で預かっている孤児の一人で、美桜に特に懐いていた最年少の子だ。

 美桜は椅子から降りて少女と視線の高さを合わせると、無理やり作った笑顔を浮かべて彼女の頭に手を置いた。

「ごめんなちー子。あっちに行っても、電話やメール、ぎょうさんするからな」

「……ねーちゃん、ひとりで、こわくない?」

 美桜の顔が一瞬凍りつく。

 その一瞬こそが、美桜の本当の心情だったのだろう。

 しかし、その優しさを棄ててなお、遂げなければならない想いがある。

 唇を噛んだ美桜はもう一度少女の頭をくしゃりと撫でてから、ゆっくりと立ち上がった。

「大丈夫や。私は、このために今日まで生きてきたんや。……これがやれなきゃ、嘘やんか」

 すべては、かつて父親だった者に逢うために。

 母と私の人生を見殺しにした、十七年間に決着をつけるために――。

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