第8話
当てもなく歩いた。
考えようとも、靄がかかったように思考が鈍い。歯車が錆びて回らなくなった時計の針の様だ。途方にくれ入ったカフェでコーヒーを啜るも苦いのか甘いのか。熱いのか冷たいのか。そもそもこれは本当にコーヒーなのか。それすら分かったような分からなかったような。曖昧な現実にふわりと存在していた。
約束の時間まで間はあった。しかし、いつの間にやら一時間過ぎ、二時間過ぎ。ついには三十分前。有料の液体と無料の液体。この二つの液体で長居をした店から僕はようやく動き出した。居座ったつもりはなかったが、店員の白い目と外景の変化が時の流れを物語っている。感覚がおかしい。脳がエラーを起こしている。これではいけない。店から出て自分で自分の頭を小突き「行くぞ」と呟く。なんとなく、滑稽に思えた。
遅れるのが嫌だったのでタクシーを使った。途中、財布の中身が心許ないのを思い出しキャッシュディスペンサーのある銀行を経由した。そのおかげで丁度いいタイミングで約束の場所。e'toileへと辿り着いた。店の前には廣瀬が立っている。僕は運転手に料金を払うと、足早に彼の元へと駆け寄った。
「久しぶりだな」
廣瀬は少し控えめに挨拶をしてきた。おそらく、僕が休職となった事に未だ責任を感じているのだろう。気にせずともいいとは言ったが、やかましいよりは幾分よかった。
「会社の方は相変わらずか?」
興味はなかったが話の取っ掛かりとしてそんな事を聞いてみる。廣瀬は「相変わらずだ」と答えようやく笑みを見せたがぎこちなく控えめであった。そしてそのまま「行こうか」と店の入り口を親指で指すので「そうだな」と言って二人で店内へと入っていった。
「いやいや苦労しました」
拓巳は開口一番笑顔で苦労を語った。webで確認できない店舗を徹底的に調べ上げ、非合法に営業をしている闇店舗の情報を調べ上げたのだという。その結果見つかったのが、彼の隣に座る藪という老人であった。
彼は裏稼業の後ろ盾なく風俗店を経営していたというパイオニアであり、一部の人間から熱烈にリスペクトされているカリスマ的存在との事であった。
僕は「どうも」と頭を下げ藪を見る。眼光鋭く油断ならない印象であるが、どこか温かい、愛嬌のある顔つき。藪は皺が刻まれた顔を崩しにっこりと笑った。好々爺という言葉がぴったりと当て嵌まる老練な笑顔。そして垂れた頬を上げ、話を始める。
「もう二十年くらい前になるかな。あの子、息子の為に稼がないと。なんて言っててな。可哀想な娘だったよ」
「二十年前……」
廣瀬と拓巳が顔を見合わせるも僕は続けるよう頼んだ。
藪は懐かしむように眼を細める。言葉は重く深い。世の不条理。否応なしに訪れる不幸。それらを噛み締め生きてきたのであろう。この老人は時の流れがそのまま肥やしになっている。そんな印象を受けた。
「こっちも商売だったからね。特別扱いもできんし、やめた方がいいなんて口が裂けても言えんかったが、まったく難儀な子だったよ。父親が捕まっちまって、自分の親族はなし。相手方の親さんに子供の面倒をみてもらってたらしいんだけども、自分が世話になるわけにはいかないって一人で暮らしてたそうだ」
「それで今は?」
そう聞くと「死んだよ」と一言。
「事故死らしい。救われないね」
「そうですか……最後に、本名を聞きたいのですが、覚えていらっしゃいますでしょうか」
「あぁ。珍しい苗字だったからね。覚えているよ。彼女の名前は、芦 百合。店の名前は、フルネームをくっつけたもんだって言ってたね」
芦 百合。その名前は僕の母親の名前である。母との記憶はなくとも名前だけは、名前だけはしっかりと刻まれている。隣で廣瀬は一瞬身を見開いて驚いたが「そうか……」と呟き店の床を見た。おおよその事は察したのであろう。
「分かりました。藪さんに、拓巳さん。わざわざありがとうございました」
僕は二人に頭を下げ、「行こう」と廣瀬の肩を叩き外へ出た。「これからどうする?」という問いに「用事がある」と言って別れ僕は名護ハイツへと向かったのであった。
景色は夏夜。昼間の熱が篭り蒸す。星は遠く光は小さい。街灯の灯りが寂しく照らす小道は静寂。さてとどうしたものか。
父親の言う通り大家に話を聞きたいところだが、生憎と住む場所を知らない。どれ。適当な部屋にノックをしてみよう。
階段を上がり203号室。以前来た時に中年の女がけたたましくドアを叩き鳴らしていた部屋である。借主の名は確か田中といったはずだ。恐る恐る拳を固め、薄いドアを撫でようとした瞬間。怒声。声の発生元は下。発生主は……何とまぁタイミングがいいことだ。以前僕を怒鳴り散らしたあの中年女である。
「次来たら警察呼ぶって言っただろ! 本気だよ!」
ドタバタと階段を駆け上がり、中年女は僕の目の前で鼻息を荒々しく吹かしている。
「……聞きたい事があります」
「私はあんたの声を聞きたくない!」
相変わらず取り付く島のない事だ。しかし、今回ばかりは無理にでも聞いてもらう必要がある。アシュリーの……母親の事を、僕は聞かなければならない。
「芦 百合の事を、ご存知ですか?」
「……」
「僕は……僕は彼女の息子。中です」
「中……中ちゃん! 嘘だろう!? いや、全然気づかなかった! まったく立派になってまぁ!」
先ほどとは打って変わって女は友好的な態度となり少々気持ち悪かったが、それは置いておこう。僕は彼女に「立ち話もなんだから」と、目の前にある一戸建てに案内され茶を出された。一息。喉を通る熱。あれこれ喋り立てる女の言葉を右から左。一段落。聞きたい事はただ一つ。
「母について、教えてください」
声は震えなかった。目はそれなかった。身体は強張らなかった。ただ、ただ。僕は母の事が、母の事が知りたかった。
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