第7話
「自棄でお酒を飲むのはそろそろお止めになってください」
すっかり癖になってしまった飲み歩きに出かけようとしたところ、アシュリーにそんな事を言われた。
「自棄ではない」そう返そうと思ったが、僕は嘘が上手くない。ばばあの死に心が沈んでいるのも事実。下手に隠すのは逆に格好が悪い。
「……どうにも、落ち着かんのだ。酒に狂い、誰かと馬鹿な話をしていないと気が沈む」
「でしたら、お父様にお会いになったらいかがでございますか? 積もる話もおありでしょう」
父親。ばばあが十蔵と言っていた男が僕のそれである。彼については殊更に思うところもなく、感じるものもない。恨みもなければ軽蔑もないし、愛情も親愛もない。ただ、僕の父親というだけで、それ以外は何もないのである。
「興味がないな。僕の父親に話をしたって、得るものは何もない」
「しかし、無駄なお金を使って無様に酔い潰れるよりは健全でございましょう?」
言葉に窮し肩をすくめる。確かに、今の僕は哀れだ。側から見たら随分と愚かで情けない醜態を晒しているであろう。酒に酔って女を抱いたところで満たされるものではなし。いい加減に立ち直りたいところではある。
そんな事を思案して僕が黙っているとアシュリーは「それに」とさらにまくし立てた。
「お金だって、そうはないのではありませんか? 駄目ですわ。一時的な快楽に溺れ貯蓄を怠れば、将来損をするのはあなたですよ? 私は知っていますわ。あなたが通帳を箪笥の二段目に隠している事を。恥ずかしくて見られたくないのでしょうが、今それを白日の下に晒し、いかに自分が愚かであるか証明して差し上げましょう。止めても無駄です。なぜなら私は幽霊なのですから。さぁさどれどれ残額は、一、十、百、千、万、十万、百……」
元来、僕は金を使わぬ体質であった。だいたい自殺する様な精神性の男である。何をしたって楽しくないのだ。おかげで無駄に金が貯まり、ばばあが残した財産とは別に八百万程の貯蓄額を有している。十八で勤め今年で八年。給金は少ないが、支出が少なく生活は質素。無駄金を使う事は控えていた。
「あなた、生きていて楽しいですか?」
「楽しくないから自殺をしたのだろう。未遂に終わったがな」
アシュリーはやれやれといった様子で通帳を眺めていた。すると突然妙な顔となり、再び口を開く。
「この通帳、苗字しか書いてないのですけれど、なぜですの?」
「それはフルネームた。僕の名前は芦 中。中でアタルと読む。アシナカとよく間違えられて、それがそのままあだ名になる事が多い。廣瀬の様にな」
アシュリーは急に静かになり、「そうですか」と呟き通帳を箪笥にしまった。彼女はどこか上の空。心ここに在らずといった様子で気味が悪い
「あし あたる……」
うわ言の様に僕の名を繰り返す様はまさに亡霊である。遊楽に行く気分はすっかり削がれ、今日は眠ることにした。その間もアシュリーはしきりに僕の名を連呼するものだから堪らなかった。
翌朝。アシュリーはいつもの通り飯を作り僕を叩き起こした。どうやら元に戻ったらしく快活明瞭。味付けもいくらからマシになり気分を害することもない。悪くない始まりだ。
「是非ともお父様とお会いになってください」
気分良く朝食を終え、暇をしているところにアシュリーはそう懇願してきた。その目には一種の覚悟が宿っており、重い。よく分からぬが、断り切れぬ想いがある。更に続けて彼女は言う。
「そして、お母様の事をお聞きになってくださいまし」
「……あまり興味はないんだがな。だがまぁ、いいだろう。ばばあの事も伝えなければならんしな。そのついでに母親の事も訊ねてやる」
アシュリーは「ありがとうございます」と深く頭を下げた。他人事だろうに、何がありがたいのかてんで分からなかったが、ともかく、僕は支度をして父親が収容されている刑務所へ向かった。
乗りたくもない電車に揺られ、タクシーを手配し一時間。県の刑務所はくたびれたコンクリートでできており威圧的である。子供時分に来た以来であるが、今でも苦手意識は払拭されていない。この雰囲気は、苦手だ。
愛想のいい刑務官の受付の下手続きを済ませ数十分。案内される面会室。ドラマ等で馴染みのあるアクリルの壁越しに話す例の部屋。硬い椅子に座っていると、惚ける間も無く父親が刑務官に連れられてやって来た。昔に見たときよりも瘠せこけ、当たり前だが歳をとっている。
「何年ぶりだよ。今更用もないだろうに」
そう憎まれ口を叩く顔は笑顔であった。嬉しいのか虚勢なのか判断しかねたが、しょぼくれているよりはまだいいと思った。だが、僕が「ばばあが死んだ」と伝えると途端に真面目な顔になり「そうか」と一言。しばし沈黙が続き、「そりゃあ、死ぬわな」と自らに言い聞かせる様、わざとらしく頷いて見せるのであった。
「で、それだけか」
ぶっきらぼうにそう言うとふんぞり返って僕を見据える。ずいぶんと威圧的な態度だ。まったく太々しい。
「ばばあが、母親の事を知りたいならあんたに聞け。と」
「それで」
「教えろよ。今どこにいるんだあの人は」
父はすっと目を閉じため息。沈黙の後ゆっくりと瞼を開け「知りたいのか」と僕を睨んだ。
「知りたくないなら聞かんだろう」
「……まったく可愛げのない。誰に似たんだ」
そう言うと肩を落としまた沈黙。今度は少しばかり長い。だが刑務官の咳払いに観念したのか渋々と口を開いた。
「死んだよ。だいぶ前にな。俺が務所に入ってからの事だ。詳しくは知らん」
「……そうか」
「しかし、ばばあから聞いてはいたが、本当に覚えていないのか?」
不意な一言に、僕は訝しんだ。覚えていない? 何の話だか、皆目見当がつかない。
「まぁいいさ。知りたいなら、あいつが住んでた部屋の管理人に聞くんだな。仲がいいと言っていた。何か知ってるだろう」
「僕は母親の住んでいた場所を知らないぞ」
「確か……名護ハイツの204号室だ」
刹那。鳥肌がたった。名護ハイツ204号室。僕はそこを知っている。僕はそこに行っている。そこは……そこは!
「あし……ゆり……」
不意に漏れる言葉。頭の中が、目紛しく回る。回る。回る。しばし呆然。「おい」という父親の声に我へと帰る。気が付けば汗が滴り身体が冷える。「どうした」と聞かれ「何でもない」と答えたが、どうにも、いけない。落ち着かない。そんな時に丁度「時間だ」と刑務官が張りのある声で父親に知らせる。その父親は「分かったよ」と言って立ち上がった。
「ところで、出所はいつなんだ?」
メリハリがつき少しばかり落ち着いたので最後にそう聞いたところ、父は「じきさ」と小馬鹿にした様な笑みを浮かべ檻の中へ戻って行った。それを見送り、僕もコンクリートから脱出する。空は澄み、風が吹く。「娑婆の空気は美味い」と、刑期を終えた受刑者が呟く気持ちが分かった。
さて。このまま例の賃貸住宅に向かっても良かったが、面会中にマナーモードの携帯電話に着信があった事を思い出したので何気なしに確認してみる。相手は廣瀬であった。少し悩んだが、僕は掛け直す事にした。思えば、すぐに真実を知るのが怖かったのかも知れない。
「もしもし」
営業時間内であるが、電話はすぐに繋がった。
「芦中。尋人……か、どうかは分からんが、アシュリーって女を知っている人間が見つかったそうだぞ」
「そうか。俺も今、丁度正体が分かったところだよ」
「本当か!? 俺も拓巳さんから連絡を貰っただけだからよく分からんが……どうする? 今日の十六時に拓巳さんの店で待ち合わせをしないかと提案されたが……」
「いや、話を聞くよ。じゃあな」
おざなりに通話を終わらせ、僕は歩いた。風が、生暖かい。高鳴る心音。落ち着け……落ち着け……僕は、少しずつ記憶を思い出していったが、どう頑張っても、五歳から前の事を思い出す事が出来なかった。
風が、風が吹いている。早く、早く、早く……
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