第9話

 女は物憂げな表情を浮かべ口を噤む。

 大きく垂れ下がった目は伏せられ視線は彼方に向けられる。言い出しにくい。といった様子だ。

 しかしながらこちらもそれで終わらすわけにはいかない。「お願いしまし。他に頼れる人がいないんです」と頭を地につけ懇願すると、「分かりました」と重い口を開けたのであった。どうやらこの女は僕の記憶が抜け落ちていること承知しているらしく、「忘れていた方が、幸せだと思うけれど」と仰々しく前置きをして話を始める。


「今から二十年くらい前。おばあさんのとこに預けられてる中ちゃんが来るって、あの子喜んでいたよ。普段は、その……夜の商売をやっているらしくて陽の高い内はあまり見なかったんだけど、その日は朝から掃除や買い物なんかをしていてね。ずいぶんと張り切っていたよ」


 しみじみと昔の映像を思い返す女とは対照的に、僕は新たに記憶が生み出されていくような感覚であった。女の話を思い描けばピタリと映像が再生されていく。空白に色が付き、音が付き、匂いがついていくのである。頭に無理やり植え付けられている様で気持ちが悪い。僕は一度茶を飲んで落ち着き、話しの続きに耳を傾けた。


「それから昼過ぎかな。おばあさんが中ちゃんを連れてやってきたのは。丁度夏真っ盛りでね。この窓から、あんたがジュースを美味しそうに飲んでいたのが分かったよ」


 女が立ち上がりカーテンを開いて閉まっている窓を開けた。暗くて分かりにくいがそこからは確かに名護ハイツが見え、アシュリーが住んでいた204号室も視界に収める事ができる。「ここから、全部見えていたよ」と女は語った。


「玄関で挨拶だけしておばあさんは帰えろうと背を向けたんだ。私、あの人と話した事がなかったんだけど、あの人も善い人みたいでね。百合ちゃんに、よく家に来い。って勧めてくれていると聞いていたよ。それで、私はちょっと話してみたくなっちゃって外に出てみたんだけど、その時だったよ……部屋の前のフェンスが壊れて、あんたが落ちていくその瞬間だった。百合ちゃんが手を伸ばして、あんたを抱え込んでそのまま一緒に……」


 脳裏によぎる、景色。感覚。落下するまでの数秒。僕は母に抱かれ、そのままコンクリートの上に落ちた。だが、数分か、数秒か、ともかく意識はあった。目を開けてみれば赤色。痛みと血の感覚。母親の腕が強く僕を掴み身体が密に接している。伝わる鼓動と吐息が弱くなっていく。

 死。母は死ぬ。僕はそう直感した。痛みと苦しみの中。母の腕の中で、「僕も死なないと」と思った。それは、僕が道路に飛び出した時に現れたものと同じ感情であった。馬鹿な話だ。母が命を賭して助けたというのに。


「あんたが目を覚ましたのは二週間後の事だったよ。それまでに何回か病院に顔を出したんだけど、それがきっかけであんたのおばあさんと話すようになってね。あんたの父親の事で迷惑をかけるかもしれない。申し訳ない。って謝りっぱなしだったよ。それで、あんたが目覚めた後もたまに会うようになってね。あんたの記憶がないって話も聞いていたんだよ」


 話はそこで終わりのようだった。終わりではなかったとしても、僕の目的は達成された。もし一人ならば、気が狂うほど嘲っているところだ。アシュリーから与えられた痛みは僕自身の痛みでもあった。自殺願望は僕自笑の深層記憶に原因があった。三流の悲劇は一流の喜劇となる。まったく、自身の道化ぶりに嫌気がさす。

 しかし、そんな気持ちを堪え頭を戻さねばなるまい。女の話を聞いて僕にはもう一つやらねばならぬ事ができたからだ。それは……


「あの、叔母が死んだ事は……」


 女は瞬く間に表情を二転三転させ肩を落とす。


「すみません。ばば……祖母の交友関係が分からず、簡単に済ませてしまって……


「いえ……教えてくれて、ありがとう……」



 開けた窓から、風鈴の音が聞こえる。その音色は儚く、美しかった。女の嗚咽はチリンと響く風鈴と共に、夏の風となって彼方へと消えていった。




 女の家を出て少し。立ち止まりアシュリーの部屋を見た。心に空いていた穴が埋まっていくような気がした。


「よし。行こう」


 一声上げ、僕は歩く。亡き母に会うために。

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