第2話
「坊主でも連れてきたらいいのか?」
嫌味のようにそう言うとアシュリーは首を振り真面目な顔をして答えた。
「私、生前に五つになる子供がいたんです。記憶は失ってもそれだけは分かるんです」
「それで?」
「それで……その……私の子供に、お母さん。って呼んで貰えたら、何の悔いもなく成仏できる……気がするんです」
「それで?」
「ですので、あの、申し訳ないのですが、私の子供、探していただけませんか?」
まったく理不尽な話であった。見ず知らずの女の幽霊が不躾にも部屋に押し入ってきて自分の子供を探してくれなどとのたまうのだ。そんなものに「はい分かりました」と即答できる程僕の腹は座っていない。おまけにそいつは記憶がないときている。無茶な話だ。第一、こいつは僕の自殺を阻止した張本人ではないか。到底承知できるものか。
「断る。出て行け。他を当たれ」
「なぜですか! 救ったじゃないですか! あなたの命を! その恩義に応えるのが人の道だと私は思います!」
逆ギレである。恥知らずとはまさにこの事。これだから女というやつは……
「俺は死ぬ気だったんだ。それを阻止されたとあればありがた迷惑。いや、迷惑千万。協力する義理はないな」
吐き捨てるようにそういうとアシュリーは「そうですか」といって静かになった。思いの外聞き分けがいいなと少しばかり拍子抜けした瞬間。頭部に激痛。吐き気。喉が渇き声を出す事もままならない。しかし、水すら口にしたくない程の脱力。嘔吐したくとも身体が動かない。これは、この苦しみは……
「いかがですか? 死の苦しみは」
「……」
状況的に、アシュリーが僕に対して何らかの嫌がらせをしてきたのは明らかである。俗に言う祟りというものだろうか。ともかく苦しく、辛い。起き上がり文句の一つでも言いたいが、声を出す事もできない。異常が治まっても凄まじい不快感の余韻に脳が活動を拒んでいるのが分かる。
「今のは私が死ぬ間際に感じた苦痛なのですが、もし協力して頂けないのでしたら延々にこれを繰り返しますわ。自殺なんかさせません。私がお助けしますもの。あなたが苦しみ悶えて狂い死ぬまで、先程の苦痛を与え続けます。それでも、お助けいただけませんか?」
ふざけた話だ。何の権限があってかような仕打ちを受けねばならぬのか。とんでもない不条理である。まったく腹立たしい事この上ない。
「悪霊め……」
僕はアシュリーを睨みそう呟いた。しかし当の本人は全く気にした様子もなくクスクスと笑い宙にフワリと浮かんでいる。
「あら嫌ですわ。私は浮遊霊ですことよ」
ふふんと鼻を鳴らす姿はまるで西太后。有無を言わさぬ暴虐。断じて許せぬ。しかしながら打つ手はない。屈服。服従。屈辱。しばらくの間。そして閃き。
「手伝えと言ってもだな。貴様、記憶がないのであろう。どうしろというのだ」
そうだ。こいつには記憶がない。記憶がない人間。もとい幽霊の子供探しなどできるものか。
「あぁ。それなら大丈夫。私が住んでいたのは名護ハイツ204号室。あなたが愚かにも命を捨てようとした近くにある賃貸住宅ですわ」
都合のいい記憶喪失である。だいたい子供に会えたところで本当に成仏できるのだろうか。そもそもその子供幽霊の姿形が見えるのか。甚だ疑問だ。しかし、そんな事を言っても奴は「大丈夫ですわ」と根拠のない言葉を繰り返すであろう。なんとなくであるが、そんな気がするのだ。どの道やってみなければあの苦痛が僕を襲うわけであるから、嫌が応にも協力する姿勢は見せねばなるまい。
まぁ元より無為な生活を続けていたのだ。アシュリーの図々しい態度に一度は断ったが、死ぬまでの慰みには丁度いいだろう。死への旅が取り止めとなり、また以前と同じ様な鬱屈とした毎日を過ごすよりかは、馬鹿げた事であっても目的があるだけまだマシな気がした。自殺を阻止した張本人の為というのが気に入らないが……
「それでは、お願いいたしますね」
あれこれと思案している間にアシュリーは腰を据え目線を再びテレビに向けた。もはや万事解決といった様子である。ため息一つ。食欲もなく、酒を飲む気にもなれない。寝よう。僕はその日。おざなりに入浴を済ませて早い内に床についた。
朝。起床予定より一時間も早く目が醒める。昨晩早くに寝たのもあるのだが、ガチャガチャと煩い物音に睡魔が逃げて行ってしまったのだ。
半身を起こし、音の出所である台所を見るとアシュリーが調理をしている。出汁と白米の香りが胃を活性化させる。どうもよく寝るとよく腹が減るようだ。
「おはようございます。もう少しでできますので、待っていてください」
さすがは元母である。多少は気の利いたことをしてくれる。料理をするのは実に面倒な為ありがたい。僕は昨日の理不尽をすっかり忘れてちゃぶ台を用意した。そして数分。「お待たせしました」と運ばれる料理。卵焼き。納豆。味噌汁。品目はいつもと変わらぬのは冷蔵庫にそれしか入っていないので仕方がない。文句は言わぬ。ともかく食べよう。
「いただきます」
まずは卵焼き。辛い。香辛料の辛さではない。単純な塩分の暴力。醤油と塩が生み出す魔の刺激。堪らず米をかき込む。塩にぎりを食べている気分だ。次に味噌汁を啜ると間延びした味噌味の遠くに出汁の風味。二品とも明らかに調味料の分量を無視して調理されている。酷いできだ。仮にも母親業を担っていた人間がこれを出すか。嘆かわしい。
仕方なしに米に納豆をかける。本来であれば6対4の比率で頂きたいところであるが、この様な
すでに混ぜてある納豆を更に練る。それを光る米にかけ一口。押し寄せる違和感。何か妙なものを入れたなと一発で分かる不自然さ。甘い。砂糖だこれ。
「いかがですか?」
「ふざけるな」
微笑みかけるアシュリーに間髪を入れず不満をぶちまける。おかしい。なんだこの飯は。お前はいったい何人だ。
まくし立て攻め立てる。相手の感情など知ったことか。そもそも食材を無駄にするような料理は悪である。この女は禁忌を犯した。許し難き所業。捨ては置けぬ。直ちに断罪の刃を……
「……!」
頭痛! 吐き気! 乾き! おのれまたも……!
「女性の作った料理は、たとえ不味くとも美味しいと言うのがマナーでございますよ」
アシュリーにまだ良心があったのか例の責め苦は一瞬で終わった。しかし、それでも耐え難い激痛。出勤前にこれは堪える。
「……それはなしにしてくれ。洒落にならん」
「貴方が優しくしてくださるなら、私とてこんな脅迫じみた事は致しませんわ」
口を尖らせる女の表情は腹立たしかった。
ともかく僕は支度をしアパートを後にする。仕事終わりに、アシュリーが言っていた賃貸を見てみようと思った。
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