母は突然やってくる

白川津 中々

第1話

 生きている意味などない。そう考え始めてどれだけの時間が経ったろうか。

 人生の何が不満というわけでもないが、殊更に楽しいというわけでもない。なにをしても付いて回る虚無。どうにも、虚しい。

 通勤。帰宅。買い出し。その都度渡る横断歩道は国道に掛かり、車の流れは激しく速い。スピーカーからは鳥の囀りを模した電子音声。それに合わせて脳髄に柔らかく響くメッセージ「飛び出せ!」


「ばかばかしい」


 自嘲気味に呟くも心音高く意識朦朧。死への恐怖と希望。相対する感情の果ての、無への回帰願望。最後に呟く言葉は決まっている。「生きていても意味がない」


 安いアパートに住み、安酒で気を紛らわせる日々。鬱屈。仕事が嫌なわけではないが、何となしに毎日休みたいと考えている。休みになったらなったで、寝て過ごすだけなのに。

 決して訪れぬ希望を待つのと、抜け出せない絶望に身を寄せるのはどちらが不幸か。考えるだけで不毛だ。酒を浴びて、そんな馬鹿な話を頭の中で思い描き始めるのを合図に僕は眠る。無益な問答こそ、睡眠への近道である。


 朝。煩わしい目覚まし。起き上がり簡素な朝食。白米。納豆。味噌汁。目玉焼き。毎日変わらぬ献立と味付け。義務的な食事に感動はない。餌に等しい食卓を手早く片付け支度。通勤。横断歩道「飛び出せ!」

 出社。仕事。昼食。退勤。横断歩道「飛び出せ!」

 帰宅。酒。妄想。睡眠。

 休日。睡眠。睡眠。睡眠。酒。睡眠。睡眠…………




 朝。いつもの通り。食事を処理し通勤。横断歩道「飛び出せ!」退勤。横断歩道「飛び出せ!」「飛び出せ!」「飛び出せ!」「飛び出せ!」


「あああああああああああ!」


 アスファルトを踏み締め駆ける。クラクションを鳴らすトラックの速度十分。身体の中から風が吹く感覚。軽い。足取り軽快。死への道のり。開放。開放!



 痛打。仰向けに寝ているのは分かる。空は黄昏茜色。風に混じる排ガス。背に感じる硬さは紛れもなくアスファルト。近く足音。


「死にたいのか!」


 叫びと同時に胸倉を掴まれ頬を殴られた。眼下にはいつもの横断歩道と、先ほど僕を殴った荒くれ者がトラックに乗り込む後ろ姿。ここは異世界でも何でもなく僕がいた世界。つまりは現実。道路間に設けられた安全地帯で茫然自失。タイミングは完璧だった。完璧に、跳ねられたはずだ。何が起こった? 考えるも、無意味。ため息一つ。帰路につく。足取りは、重い。


 帰宅。古いドアを開け玄関横の電気を点ける。広がるのはカビ臭い畳と万年床。そしてちゃぶ台。それだけ。の、はずであった。


「おかえりなさい」


 いつもの小さな住処に存在するはずのない、若い女。歳の頃は僕とそう変わりなさそうである。セミロングの黒髪に丸い目。顔立ちは可もなく不可もなく、身体つき中肉中背。この姿形に一致する知り合いは……皆無。僕は部屋に背を向け外に出て、もう一度部屋番号を確認した。ふむ。間違いはない。


 行うは指差し確認。「よし」とわざとらしく声を出し、再び部屋に入る。すると先ほどの女がだらしなく座りテレビを視聴していた。腹立たしい。


「おい。貴様は何者だ」


 語気を強めたが、慣れないせいか声が裏返ってしまった。情けない話だ。


「あら、随分な物言いじゃないですか。私、あなたの命の恩人ですのよ?」


 女の言葉に思わず「は?」と間の抜けた声が溢れる。


「あなた、トラックに轢かれるところだったじゃありませんか。それをお助けしたの、私です」


「……」


「どうかいたしましたか?」


「貴様のせいか!」


 僕は女に怒鳴りながら事の起こりを語った。すると女は「信じられませんわ!」と途端に怒りだし、青白い顔が般若のように不気味な風態を醸し出し僕は少し恐怖した。


「あなた! せっかく授かった命なのですよ! 駄目です! 反省して下さい!」


 女の言葉に辟易した。くだらないと思った。命なんてのは偶発的なものであり、勝手に生まれて勝手に消える。そんなものに、価値などあるものか。しかしそれを言葉に出してしまえばまたややこしくなる。ここはまず端的に、相手の正体を知っておこう。


「貴様の話はまぁ分かった。しかし、その貴様は何なんだ。なぜ僕の部屋にいる」


 僕の質問に対し、女はにこやかに笑って答えた。


「あぁ申し訳ありません。私は幽霊でございます。名前は、あ……しゆ……りー……アシュリー! アシュリーです!」


 何を馬鹿なと思ったが、確かに女は半透明であった。しかし、見るからに日本人である。アシュリーと言う名は、どうにも似合わぬ。


「申し訳ありません。私、ちょっと記憶が曖昧で……名前も不確かなんです」


「……まぁいい。それは分かった。納得しよう。して、なぜ僕の部屋に?」


 アシュリーと名乗る女は何やらもじもじとし言葉に窮したが、息を大きく吸い込み、意を決したように声を上げた。


「私を成仏させてくださいまし!」

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