第3話
朝の職場は賑やかである。
始業前だというのにあれやこれやと働く人々。金の出ない仕事を進んでやるくせに残業はしたくないと言う彼らの行動原理が分からない。
しかし、そんな態度を露骨に出せば針の筵。たちまち村八分。村社会的社内環境において尊厳と権利の主張は認められない。みんなで仲良く奴隷生活が隠れた社訓である。故に僕も優雅にコーヒーなど飲むわけにもいかず、必要のない書類整理や環境整備に精を出す。心は無。
しかしながら今日はそれでも時間があまってしまった。手持ち無沙汰。どうにも居心地が悪い。仕方なしに忙しなく動く同僚の元へ行き彼に助力しようと声をかけた。
「廣瀬。手伝うぞ」
「あぁ。すまんな芦中。助かる」
僕は廣瀬を手伝い無益な朝をなんとか終わらすことができた。
「そういえば三科の奴が鬱で自殺したらしい。お前が来る前に上役が来て労働環境の見直しが必要だとか部長に息巻いていたよ」
「ならばこの朝の時間をなくすべきだな」
「まったくだ」
廣瀬はうんざりしたようにため息を吐いた。半強制的に無償労働をさせられるのは一般的に見て異常である。誰もがそれを知りながら、誰もなにも言えないでいる。難儀なものだ。誰が死んだか知らないが、自殺するくらいならいっそ全てぶちまけてしまえばよかったのに。
始業の合図が鳴る。「今晩どうだ?」という廣瀬の誘いを体良く断り、僕はようやく本業務に就く事ができた。彼の行く先はどうせキャバクラに風俗だ。女が嫌いなわけではないが、好きなわけでもない。好きでもないものに時間を費やすのは嫌いだ。だから行きたくない。しかしそう思うと、脅迫されているとはいえ好きでもない女の頼みを聞くことも徒労である気がしてきた。憂鬱になる。止めよう。仕事に差し支える。そうして一日が過ぎ、残業もなしに仕事を終わらせアフターファイブ。酒も女もない場所に、酔狂でやってきたわけである。
名護ハイツと銘打たれた賃貸住宅。作りは古く粗末。僕の住む部屋といい勝負である。そして階段を上がり204号室。表札はない。試しにノックをしてみても無反応。旦那がいる事を期待していたがまだ帰っていないのか勤務時間が異なるのか、はたまた別境していたのか引っ越したのか。ともかく無駄骨に虚しさが込み上げる。肩をすくめ仕方なしに帰ろうとしたその瞬間。下方から「なんだあんたは!」と激しいどなり声が聞こえた。
不意を突かれ沈んでいた肩が飛び上がる。すると「聞いているのか!」と再び怒号。見ると目を吊り上げた中年女が僕を睨みつけているではないか。呆気にとられ白痴の如く押し黙り中年女を凝視していると、彼女は小僧が歩くような足音を轟かせ階段を上がり僕の目の前にやってきて舌打ちを飛ばし叫んだ。
「あんたは何だ! この部屋に何の用だ!」
「……ここに住んでいる、あるいは住んでいた人間について聞きたい」
「知らないよ! 帰れ! 次来たら警察呼ぶからね!」
中年女は悪態を吐き出すだけ吐き出すと隣の部屋の前まで移動し、けたたましくドアを叩いて「田中さん! 家賃振り込まれてないよ!」と猿叫の如く声を震わせる。取り付く島もない。仕方なしと諦め、今度こそ僕は踵を返し帰宅の途についた。
「というわけで情報は得られなかった」
「そうでございますか……」
僕は帰宅早々今日の出来事をアシュリーに話した。憎たらしい相手だが、彼女の落胆した顔は同情を誘った。思えば子供と過ごした記憶すらないわけである。哀れといえば、哀れだ。
「して、次はどのような手を?」
「は?」
「一策が無駄に終われば二策。それも駄目なら三策。一度の失敗で全てを諦めるのは愚か者の思考ですわ。さぁ。次の策を考えてくださいまし」
絶句。悪夢。
先程の感情が消し飛ぶ言葉。確かに僕は目的がある方がマシだと思った。しかし、それはあくまで達成できる目処があればの話である。何の足がかりもない人探しなどできるものか。馬鹿馬鹿しい。
「あなた、今馬鹿馬鹿しいと思いましたね?」
「……幽霊ってのは心も読めるのか?」
「まさか。カマをかけただけでございます」
アシュリーの冷たい言葉に一瞬あの苦痛が来ると身構えたが異変はなし。彼女は「ともかく、お願い致します」とちゃぶ台に料理を並べ他。やはり美味くはなかったが、朝よりは幾らかマシなできであった。
翌日。出社し無益な作業を無心でこなすもやはり早くに終わる。周りの人間はなぜやる事があるのか。それが分からない。
「廣瀬」
「あぁ助かる」
おざなりに声をかけおざなりな感謝をされる。益体のないことだ。あれやこれやと処理し雑な時間潰しをするも今日はまだ始業まで長い。意味もなく不要な書類を断裁しゴミ箱を賑やかす。気分はまるで窓際社員である。不毛。
進まぬ時間の針を見ながらハサミをを鳴らす。すると目に不自然な輝きを放つ名刺を見つけた。
[キャバクラwaltz キャロライン]
ご丁寧に『今日はありがとうございました。楽しかったです』と感情の伝わらぬ言葉が記されている。
「あぁすまん。昨日行った店の子の名刺だ。捨てといてくれ」
そんな物を職場に持ち込むなと叱責してやりたかったが、一つ閃めきそんな気持ちは吹き飛んでしまった。
「聞きたいんだが、この女は日本人か?」
廣瀬は訝しげながら頷いた。
「よし廣瀬。今日は貴様の趣味に付き合ってやる」
その瞬間。彼の顔には喜びの花が咲きえびす顔。「いやいや」と声を弾ませ僕の手を握り激しく上下させる。
「何だお前珍しい。いいともいいとも。存分に案内しようじゃないか。おあつらえ向きに明日は休日。時間は無制限だ!」
社内の男は大体が所帯持な為、廣瀬の趣味に付き合うものはいない。その為いつも寂しげに退社していく彼の姿を度々見てはいたが、そうまで人と夜遊びをしたいものかと呆れながら疑問に思った。
「ところで、アシュリーという源氏名に覚えはないか?」
「? 知らない名だが、なんだ追いかけてるのか? やめとけやめとけ。嫌われるだけだぞ。夜の女の寿命は短いんだ。野暮は働くもんじゃない」
偉そうに舌を動かす廣瀬に「違う」とだけ答え僕は仕事に入った。業務が始まる五分前。夜の話をするには些か周りの目が気になる時間である。
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