21.閉じた空間
『私たちを裏切るのですか、古澤杏さん』
ノイズ混じりのその声に、私はびくりと体を震わせた。
そうだ。あの魔術から逃れることができても、この声から逃れることができるわけじゃない。それに、もしここでこの声を裏切ったら、みんなの命がどうなるのかわからない。
どうしよう、焦る私を伊吹が抱きしめる。まるで大丈夫、安心して、と言われているようだ。
「貴方がマスターを誑かしたのですね」
「た…っ」
誑かしたって言い方には語弊がある気がするんですけど!?
『…あなたはなぜ彼女に執着するんですか? あなたが本当に大切なのはアンジェリーナ・コラヴォルペだけでしょう』
「なぜ貴方がアンの事を知っているのかは知りませんが…今の私はマスターは彼女、古澤杏です。それだけで私が執着する理由は十分でしょう?」
アンって言うのはアンジェリーナって人のことだよね?
私の名前も杏だからちょっとややこしいな…まあ、伊吹は私の事を学校とかでしか杏って呼ばないけど。
『……』
声の主が黙り込んだ。そしてフッ…と笑った。
『…なるほど。つまりあなたは心替えをしたわけだ』
「…心替え?」
『そうでしょう? アンジェリーナから彼女に心替えをした。だから彼女に執着をするのでは?』
「心替えも何も、私に心などありませんが」
『本気でそう思っていると? 元人間だったあなたが』
「……」
伊吹の表情が険しいものへと変わった。きっと今の発言は伊吹の琴線に触れることだったのだろう。
『私たちならあなたを人間に戻してあげることが出来ます。あなたも中途半端な心を持て余しているでしょう。あなたを人間に戻す代わりに、彼女を私たちに渡して頂きます』
「……」
『どうでしょう? 悪い話ではないと思いますが』
私は伊吹と声の主の会話を聞きながら、じっと伊吹を見つめた。
伊吹はどういう選択をするのだろう。伊吹の表情は変わらなくて、伊吹の考えを読むことが私にはできない。
「……そんな嘘に私が騙されるとでも? そう思っているのなら、私も見くびられたものですね」
「え…?」
嘘…? 伊吹を人間に戻すことが出来るっていうのは嘘だった?
『…ふ、ふふ…嘘、ですか。時代は変わった。その変化によってあなたのその魔術を解くことが出来るようになった、とそんな風に考えることはできませんか?』
「確かに時代は変わったかもしれません。科学が魔術を追い越し、魔術を必要としない時代になったのでしょう。そんな時代の流れで、魔術はどんどん廃れていった。そんな中でアンの魔術を解くことをできる術を見つけられるとは思えませんね」
『魔術が廃れた。それは認めましょう。だけど、あなたの呪いを解く方法は確かに存在するのです。他ならぬ、アンジェリーナが遺した書物にそれが記されていました』
「アンが…?」
伊吹は僅かに目を見開き、考え込むように視線を横へ向けた。
えっと、つまり、伊吹を人間に戻す方法があるっていうのは嘘じゃなかったってことだよね?
「…例えそれが本当だとしても、私は別に人間に戻りたいとは思いません」
「え…?」
『……』
「今のマスターは見ていて危なっかしいので、その条件を飲むわけにはいきません。…それに、マスターのいない世界で人間に戻れても意味がありませんので」
「伊吹…」
伊吹の解答に胸が熱くなった。
私の想いはちゃんと伊吹に届いていたんだ。伊吹も私と同じように思ってくれている。そう信じられた。
『…なるほど、それがあなたの答え、ですか』
「そうです」
『とても、残念です…それがあなたの答えなら……―――無理やりにでも、奪うまで』
声の質が変わり、私はぞわっと鳥肌が立った。何かが起ころうとしている。そう、私にもわかるほど、この部屋の空気が変わった。
伊吹が私の手を掴む。私は伊吹を思わず見つめると、伊吹が険しい表情をして私を見つめていた。
「逃げますよ、マスター」
「で、でもみんながまだ…」
「他人の事を心配している場合ですか? …と言いたいところですが、貴女ならそう言うだろうと思っていましたので、そちらの方は対策を打ってあります。ですので、ここは気にせず逃げましょう」
「…うん、わかった」
伊吹の言葉を信じよう。大丈夫、伊吹なら信じられる。
私はしっかりと頷き、伊吹に先導されながら部屋を飛び出した。伊吹はしっかりと私の手を握り、私でもついていけるくらいの速度で走った。
部屋から出ると長い廊下が続いていた。先が見えないくらいの長さ。こんな所通ったっけ、と私は疑問に思ったが、よくよく考えて見れば私はここへは魔術で連れて来られたため、この屋敷内を通ってきたわけじゃなかった。だからここを通った覚えがなくても当然なのだ。
私たちは無言で走った。だけど走れども走れども先は見えなく、まだまだ廊下は続いているようだった。
「このっ…廊下…は……っ! どこまでっ…続くの……!?」
「私が通って来たときはこんなに長くはありませんでしたが…どうやら、魔術が働いているようです」
伊吹のその言葉と同時に足が止まり、私は両ひざに手をついて荒くなった呼吸を整えた。
少しして呼吸が整うと、私は顔を上げて伊吹を見つめて聞く。
「魔術が働いているって?」
「そうですね…閉じ込められた、と言った方がわかりやすいでしょうか。普通の家と同じです。外から鍵を掛けられた状態なのです、この屋敷の空間そのものが」
「……ええっと…? 外から鍵を開けない限り出れないってこと?」
「そういうことです」
「じゃあ…私たち、ここから出れないの?」
「鍵が開かないのなら、壊せばいいんです。ただ、その鍵の在り処がわからないので壊しようもないのが現状ですが」
「鍵の在り処がわかれば出れるの?」
「通常ならば出ることは不可能です。ですが、
「…どういう意味…?」
「私は魔術で作られた存在…そして私を作った人物は天才と呼ばれた方です。その人物の力を私はほんの一部ですが、分け与えられています。ですから、通常なら不可能なことも可能になることもあるのです」
「……よくわからないけど…伊吹がそういうなら、信じる。とりあえず鍵を探さないといけないんだよね?」
「そういうことになりますね」
「じゃあ二手に分かれて…」
「却下します」
「なんで!?」
まだ言っている途中だったんですけど、私!?
「貴女を一人にすると何をしでかすかわかりませんし」
「……予測できない行動ばかりして悪うございましたね」
「それに、あの人物の目的は貴女です。貴女を一人にさせたら相手の思う壺です」
「あ…そっか」
最後の伊吹の言葉に私は納得する。
決して、自分でも何をしでかすかわからないからちょっと不安、と思っちゃったわけじゃない。
「…ちょろい…」
「なんか言った?」
「いえ、なにも」
ちょろいって聞こえた気がするけど聞こえなかったことにする。世の中には聞こえないふりをした方がいいことだってある。きっと今がその時なんだ。そう納得することに決めた。
「それで? どうやって鍵を探すの?」
「そうですね…恐らくはそう簡単にはわからないようになっているはずですし、何かしらの罠や貴女を捕えようと仕掛けてくるはず。闇雲に探すのは時間ばかり掛かって、こちらにとっては不利でしかありません。時間を掛ければ掛けるほど相手にとって有利となる」
「そうか…この廊下をずっと進んでいても何も変わらないし…かと言って戻るわけにもいかないし…そもそも廊下以外のとこに行けるの?」
「それは大丈夫だと思います。…マスターの言う通り、このまま廊下を歩いていても時間が経つばかり…手始めにそこの部屋に入ってみましょうか」
「部屋…?」
部屋なんてあっただろうか、と思いながら伊吹の指さす方を見る。しかしそこは何の変哲もない壁しかない。
…これのどこが部屋だと? 伊吹の目は大丈夫だろうか?
「私の目は正常ですので安心してください」
「な、なんで私の考えが…!?」
「思いっきり口に出てましたが」
「う、嘘…!?」」
「残念なことに本当です」
憐れむような目で伊吹に見られ、私は居た堪れなくなった。
前にもあったなあ…こんなやりとり。そんな昔のことじゃないのになんだか懐かしい。
私はわざらしくごほん、と咳払いをして伊吹を見た。
「…で、ここのどこに部屋があるの?」
「現在は魔術で何の変哲もない壁に見せかけていますが、ここにはドアがあります。魔術を破るので少し下がってください」
私は伊吹に言われた通りに少し後ろに下がる。
伊吹は何かを小さく呟き、壁に触れた。するとバリンとガラスが割れるような音がして、目の前にドアが現れた。
「ほ、本当にドアがあった…!」
「…さあ、中に入ってみましょう。ここに何か手がかりがあればいいのですが…」
伊吹はそう言って私のもとへ戻り、私の手を握った。
伊吹の手は私よりも大きくて、固い。それは人形だからなのか、男だからなのかはよくわからないけど。だけどとても頼りがいがあって、安心できる手だ。
体温なんてないはずの伊吹の手がなぜか温かく感じた。
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