閑話1 人形は夢を見る


『ねえ、イブキ…ずっといっしょにいてくれる?』


 その台詞に迷わず頷いた。なぜならそれは自分の望みだったから。

 だから、なにを引き換えにしても叶えたいと思った。

 ―――それが例え、彼女を苦しめることになっても。


『ごめ…んなさい…ごめんなさい、イブキ…わたし、わたし…!』


 涙で頬を濡らし、歪んだ顔をして自分を見つめる彼女に、何も言葉を返せない。

 そんな顔をしないで欲しい。笑って欲しい。これは自分の選んだことなのだから、貴女が責任を感じる必要はないと、そう言いたかった。だけどそれすら叶わない。

 自分で望んだことだ。何を引き換えにしても叶えたいと、そう望んだ結果だ。それに悔いはない。だけど、彼女に言葉を伝えられないことが、想いを伝えられないことが、彼女を笑わせてあげらないことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。

 ―――どうか、泣かないで。

 そう祈ることしか、出来なかった。自分の望みの代償は、予想以上に大きなものだと、この時初めて知った。




*・・*・・*・・*・・*・・




 はっと目を覚ますと、だいぶ見慣れてきた天井が目に入る。

 怪しまれないように形式上だけ布団を使い、その中に入って寝たふりをする。それが日課だった。本来、寝る必要はないようにこの体は出来ている。それはそうだ、この体は人間のそれとはつくりが異なるのだから。

 それでも、眠ることはできる。彼女が起こすまで、深い眠りについていた。その間、夢など一切見なかったというのに、なぜ今になって夢を見るのか。

 …いや、あれは夢などではない。過去にあったことだ。それを振り返っているだけ。人間の見るような、あり得ないことが起こるようなそんな夢を見ることは出来ない。

 のそりと起き上がり、音を立てずに部屋を抜け出す。そして与えられた部屋のすぐ隣の部屋のドアを開き、そっと部屋に入る。

 そして部屋を注意深く見回し、ベッドですやすやと寝息を立てて寝ている杏のすぐそばまで歩いていき、立ったまま、杏を見下ろす。


 ごくごく普通の少女。特記すべき特殊な能力もなく、平穏に暮らしてきた少女。そんな彼女が、今の自分のマスターだ。

 なぜ彼女が自分を目覚ましたのか、理由はわかっている。ただ、彼女には言っていないだけで。だが、その理由を彼女に教えるつもりはない。きっと知って愉快な思いはしないだろうから。


 今のマスターはとても難しい。思ってもみなかったことで怒り、思ってもみなかったことを言う。自分の予想通りには動いてくれない。まったくもって行動が読めないのだ。

 だが、不思議なことにそれを嫌だとは感じない。面倒くさいとか、厄介だとは思っても、決して嫌ではないのだ。

 たぶん、自分は彼女のことが嫌いではないのだと思う。彼女は十分に守る価値のある人物だ。そう、今は認めている。

 現時点では特になにも起こっていない。彼女の身に危険が迫るようなこともなく、本当に平穏な日々を送っている。これがこのまま続けばいい、と思う。だが、そうは上手くいくはずがないことも、わかっていた。


「…貴女は、可哀想な人です。私を目覚めさしてしまったばかりに、危険な目に遭わなくてはならなくなる…」


 だからこそ、自分が彼女を守らなくてはならない。それが自分の《役目》なのだから。


「今度こそ、私は守らなくてはならない…」


 そう唱える自分の声がまるで呪詛のように聞こえる。

 いや、実際にそうなのだろう。これは呪詛だ。自分の身を縛るもの。以前は果たせなかったからこそ、今度こそ、と思うのだ。

 本当に守りたかった人物はもうこの世にはいない。だけど、その代わりなら目の前にいる。

 最近では不穏な気配を感じることが増えてきた。恐らく、近々なにかが起こるはずだ。

 その時には彼女に告げなければならない。彼女自身も知らない、彼女の事を。そして今度こそ、守り通すのだ。


「…マスター。どうか私に守らせてください」


 聞こえないと、聞いていないとわかっているのに言うのはずるいだろうか。

 もし彼女が起きていて、今の言葉を聞いたらなんて言うのだろう。

 「あんたに守って貰う必要はない」と言うだろうか。それとも「何言ってんの?」と顔を赤くして怒るだろうか。

 彼女の反応を見てみたい、と思う。だけどそれを行動に移すことはしない。これ以上、彼女に深入りをしてはいけないと、頭の奥で警告が鳴っている。この警告はいったいなんなのかはわからない。けれど無視してはいけないものだと本能的に感じている。無視したら“伊吹”という人格そのものが壊れてしまうような…そんな予感めいたものを感じるのだ。

 なんにせよ、自分がやることは変わらない。ただ、マスターを守る。それだけだ。


「貴女を守るのは私の役目です。誰にも譲らない。譲りはしない…」


 その決意を込めて呟き、そっと杏の部屋を出た。



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