うそっこの孫
「おめでとうございます。この度あなたは、あなたと同位並列の"エマタ・エナカ・ミゾノ"キャンペーンに当籤しました」
ある年の末、アパートの一室のチャイムが鳴り、ドアを開けた老婆を待っていたのは、二十代前半ほどの青年だった。
「はあ、そうですか」
老婆は要領を得ない風にゆっくりと頷き、人の良さを感じさせる口調で言った。
「まあ、そこじゃ寒いでしょう。おあがんなさいな。こたつもあるし……」
促されるままに青年は一礼して部屋に上がり、こたつに足を入れた。
「お茶でいいかねえ。あいにく、これしかなくって」
言いながらもお茶を入れる老婆に、青年は「おかまいなく」と言ったが、聞こえていないのかそのままお茶が出された。
「で……ええと、私が何に当たったのかねえ?」
お茶をすすりながら言う老婆に、青年は表情を変えないまま言った。
「"エマタ・エナカ・ミゾノ"キャンペーンです。できる限りのことでしたら、何でも一つ望みを叶えます」
「はあはあ、そうですか。でもねえ……もうこのトシになると、これといった望みもねえ……」
そのまま老婆は、ぽつりぽつりと話し始めた。
自分がこのアパートの大家であること。今年になって、ここから二人の借家人が逮捕され、一人が退去してしまい、ケチもついてしまったために、めっきり収入が減ってしまったこと。夫には先立たれ、息子夫婦とももう何年も会っていないこと――
「ああ、ごめんねえ、すっかり長話ししちゃって。それで、望みなんだけれどねえ、話しながら考えていたんだけれどねえ、あなた、ちょうど私の孫くらいのトシに見えるんだけれど……今日一日だけでいいから、私の孫がわりになってくれないかねえ」
「その程度でしたら十分叶えられます。しかし、いいのですか? あなたでしたら、もっとご満足いただけるような望みを叶えられますが――」
男を制するように、老婆は首を横に振りながら言った。
「ううん、いいんだよ。どうせ今さらだしねえ。それでいいよ」
「そうおっしゃるのでしたら、その望み、叶えさせていただきます」
「ありがとう。……でも、孫がわりと言っても、どうしたものかねえ。もう十年以上会っていないし、最近の子は、何が楽しいのかもわからないねえ」
老婆は、ううん、と首をひねり、しばらくの間考えあぐねていたが、ゆっくりと顔を上げると、「とりあえず、外に出てみようか」と言い、古びたコートを着た。
「出たはいいけれど、どうしたものかねえ」
ゆっくりと歩きながら、その横を行く青年に言うでもなく、老婆は漏らした。
「あなたみたいな若い人は、何を喜ぶかわからないし。何かをしてあげられるお金も持っていないしねえ。退屈だろうねえ」
「いえ、そんなことは」
「そうかい? そういえば、お昼がまだだったねえ。あんまりいいものは食べさせてあげられないけれど、この先に喫茶店があるから、そこに行こうかねえ」
「はい」
その喫茶店は、だいぶ古びたものだった。天井や壁は経年と煙草のヤニで黄ばみ、インテリアもおおよそおしゃれとは言い難い、何十年も前からそのままのようなものだった。
「ここはねえ、おじいさんが生きていた時、よく一緒に来たんだよ。まだ若かった頃からだから、もう半世紀ほどにもなるかねえ」
「そうですか」
サンドイッチをゆっくりと食べながら言う老婆に合わせるように、青年も同じようにゆっくりとコーヒーをすすりながら相槌を打っていた。
食事を終えると、二人はどこに行くでもなく、町を歩いていた。
時おり思い出したようにゆっくりと喋る老婆に、青年が短い相槌を打つ。ただ、そんな時間が過ぎていった。
夕暮れになり、寒さが増してきた頃、身を縮こまらせながら老婆が言った。
「冷えてきたねえ。だいぶ歩いてくたびれちゃったし、そろそろ帰ろうかねえ」
「わかりました」
そう言って、青年は老婆の前にしゃがんだ。
「どうしたんだい?」
「くたびれたそうですので、おぶります。寒くなったようですし、早めに帰った方がよいかと思います」
「そうかい、悪いねえ。ごめんねえ、付き合せちゃって」
「かまいません。今日は、あなたの孫ですから」
背中におぶさった老婆を、青年は軽々と持ち上げた。
帰り道、老婆は思い出話をぽつぽつと、絶え間なく語っていた。
「ああ、ちょっと待って。ここで一度、おろしてもらえるかねえ」
「はい」
足を止めた先には、コンビニがあった。ちょっと待っていて、と言い、店に入った老婆が少しして出てくると、その手には毛糸の手袋があった。
「寒くなっちゃったから、あなたも手が冷たいでしょう。もっと早くに気づいてあげればよかったねえ。ごめんねえ」
申し訳なさそうに言う老婆に、青年はそこで初めて表情を出した。それは、老婆のそれ以上に申し訳なさそうな顔だった。
「いえ、すみません。我々は、何か形に残るようなものをいただくわけにはいかないのです。お気持ちは誠にありがたいのですが……」
それを聞いた老婆は頭を垂れ、自分に言い聞かせるように言った。
「そうだねえ、若い人の好みには合わなかったかねえ……ごめんねえ」
「いえ、そういうわけではありません。受け取って、つけることはできるのですが、いただいて帰ることができないのです。ですから――ありがとうございます。こちらこそ、ご気分を害してしまったようで申し訳ありません」
青年はぺこりと頭を下げると、その手袋を手に取り、奥までしっかりとはめた。
「それでは、帰りましょう」
再び老婆を背中に乗せ、帰路へとついた。
その晩は、老婆の作った煮物と味噌汁が振舞われた。質素なもので、老婆は始終、「こんなものでごめんねえ、若い人は、もっと違うものが食べたいだろうにねえ」と言っていたが、青年は「おいしいです」と箸を進めていた。
食後、洗い物は青年がした。老婆は「私がやるから」と言ったが、青年は「孫ですから」とだけ言い、手際よく洗い物を済ませた。
そのまま風呂掃除をし、入浴を済ませた後、青年は老婆の肩を揉んだ。老婆は「気持ちいいねえ。息子が子どもの頃、よくこうやって揉んでくれたねえ」と、独り言のようにつぶやいていた。
「おじいさんが使っていたお布団だけれど……」
ちゃぶ台を片付け、青年用に、押し入れの奥から出した、長年使っていなかったと見える潰れた布団を敷くと、老婆は自分の布団に入りながら言った。
「本当に、横で寝てくれるのかい?」
「はい。今日一日、あなたの孫ですから」
「そうかい、そうかい。今日はありがとうねえ。付き合ってもらっちゃって」
「いえ。孫ですから」
「そうかい、ありがとう。なんだか、本当の孫みたいに楽しかったよ。はしゃぎすぎたのかねえ。久しぶりに歩いて疲れちゃったし、先に寝させてもらうよ。それじゃあ、おやすみ……」
電気を寝たまま消せるよう、長く伸ばした蛍光灯の紐を引いた。
「おやすみなさい、お祖母さん」
暗闇の中で、青年の声がした。
翌朝老婆が目覚めると、そこに青年の姿は無く、布団も元通りしまわれていた。
「夢だったのかねえ」
老婆の枕元には、毛糸の手袋がきっちりと揃えられて置かれていた。
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