やる気スイッチ――別のある男の場合
「おめでとうございます。この度あなたは、あなたと同位並列の"エマタ・エナカ・ミゾノ"キャンペーンに当籤しました」
男が母親の財布から盗んできた軍資金を使い果たし、パチンコ屋から出ると、そこにはすらりとした美女が立っていた。
「えっ?」
すっとんきょうな声をあげる男に、女はスラスラと続ける。
「話せば長くなるのですが、簡単に申しますと、あなたの望みを何か一つだけ叶えることができます。もちろん、限度がありますけれど」
「いや……そーゆー、なんかの勧誘? いらねーよ。後で何か言ってくるんだろ? 絵とか、ツボとか買えとか」
こういう美人でひっかけて、喫茶店とか行ったら、待ってましたとばかりに後から人が来て勧誘とかされて逃げられなくされるんだよ。今時そんな手に――
苦虫を噛み潰したような顔をし、男が手を振って断ろうとすると、女は僅かに口角を上げて言った。
「そのようなことはございません。ただ、この場で何かの望みを言っていただく。
そうすれば、可能な範疇でしたらそれを叶えることができます。それを言っていただければ、それきりです」
メンドくせー女だな。なんか適当なこと言ってはぐらかして帰るか。今日はえらく負けがこんじまった。カネにするか。こんだけの女だったら一発ヤりてーもんだが、そーゆーのは後が怖いからな。
「じゃあ、カネくれよ。限度っていくらだ? 借りるんじゃねーぞ、もらうんだ」
「それでよろしいのでしたら。ただ、あなたの場合ですと、数日分の食費くらいでしょうか」
涼しい顔で言う女に、男は内心殴ってやろうかと思った。が、さすがにそれは犯罪だ。こんなことで捕まるのはバカらしい。なんとか思い止まった。
「なら、何ならいーんだよ!? わっかんねーんだよ、そんなアヤフヤなんじゃよ」
上半身を屈め、下から
「もちろんご相談には応じます。例えば、欲しいものばかりでなく、今ご自分に無いものを与える、といった望みでもかまいませんよ」
オレに無いものなんて、全部だよ。カネも女も、仕事も無い。毎日親のスネかじって、ダラダラと暮らしてる。何にもやる気が起きねーんだよな。
唇を噛みながら、拗ねた風に考える中、1つの言葉が心に留まった。
……そーいやオレ、ガキん時から何もやる気なんて起きなかったなあ……いっつもダルくて、今も仕事もしねーでダラダラしてるし……
考えるのも面倒になった男は、適当に答えることにした。
「オレ、なーんもやる気が起きねーんだよな。やる気くれよ、やる気」
でっきるわきゃねえだろ。そう思いながらヘラヘラと笑って言う男に、女は平然と答えた。
「わかりました。そういった望みは少なくありません」
「へっ?」
呆気にとられた男の手を取った女から、何か四角いものが渡された。
そこには、特に何があるでもない、ただのスイッチがそこにあった。
「最近ですと、こういったものが人気です。何かを思いながら、スイッチをオンにすれば、それに対するやる気が湧いてきます。逆に、疲れを感じたり、やめたくなればオフにしてください。やる気は失せます」
あんぐりと口を開けたままスイッチを見ていた男は、なんだこりゃと言おうと顔を上げた。すると、もうそこには女の姿は無かった。
◆
次の日、いつも通り昼過ぎに目を覚ました男は、食事を摂りに台所に向かった。
両親は仕事に行っており、料理をする気も無い。棚からカップ麺を取り出し、食べ終わると顔を洗い、暇つぶしにパチンコに行こうと、玄関でサンダルをつっかけた時だった。
いっけね。そういや昨日、全部スッちまったんだ――舌打ちをしながら、戻ろうとした視界の片隅に、小さなものが映った。
「これ、昨日の……」
スイッチだった。昨日帰って、玄関横の棚に置いたのだった。
「……ヘッ、こんなんでやる気が出りゃ、苦労しねーっての。仕事する気の一つでも出させてみろってーの」
だらしなく口元を歪ませながら、スイッチをオンにする。
その瞬間、男が人生で一度も感じたことの無い衝動が湧き出てきた。
「……おっ、おっ、お!?」
初めての感覚が体中を駆け巡る。それに戸惑いながらも、男は使命感にも似た高揚感に包まれていた。それが、男が人生で初めて感じた"やる気"というものだった。
そこからは早かった。飛び出るように外へ出た。向かった先は近所のコンビニ。確かあそこは、バイトの募集をしていたはずだ。
店に入るやいなや、男は店長を呼んだ。レジにいた、ハゲ頭で五十を過ぎたくらいの、疲れきった顔をした店長は、アルバイトの希望を伝えた男を一瞥すると、その顔のまま、「じゃあ明日、3時頃に履歴書、持ってきてくれるかな? 面接するから。あと、一応ヒゲは剃って……」と言った。
男の顔は、何日も剃っていない無精ヒゲに覆われていた。男は手で自分の顔を撫でると、ウッス、と短く言って店を出た。
いてもたってもいられなかった。しかし、高校を卒業してからというもの、一度として職に就いたことの無い男は、履歴書の書き方も知らなかった。
夕方になり、パートから帰ってきた母親に、待ちかねていた男は履歴書の書き方を聞いた。突然のことに母親は、何を悪い冗談を……と、諦めを隠そうともしない顔で、ため息をつきながら言った。
「ちがうんだって、オフクロ! なんかオレ、マジでやる気出てきたんだってば! 今日、そこのコンビニ行ってきてよ、あした面接するんだよ!」
にわかにやる気を出した男に、母親は怪訝な顔をしつつも、どうせ長続きするわけも無いと思いながら、やれやれと棚から履歴書を出した。
しかし、男は初めて書くどころか、見たのも初めてなので、書き方の見当などとんとつかない。呆れる母親に教えてもらいながら、汚い字で履歴書を埋めた。
風呂に入って身奇麗にし、そのまま男は証明写真を撮ってきた。写真で見た自分は、心なしか今までよりだいぶ生気が出ているように見えた。
翌日、初めての面接に緊張こそすれ、結果はその場で決まった。
「時間帯はいつでもOKね。じゃあ、早速だけど明日の深夜から入ってもらえる?」
あまりに急に決まったので男は拍子抜けしたが、ウッス、と答え、その日は帰路についた。人生で初めての仕事に期待と不安を覚えつつ、その晩、ぐっすりと眠った。
夜11時。親に「時間より先に行くもんだ」と言われた男は、10分前に店に着き、相変わらず疲れきった顔をした店長から制服を支給され、一番基本となる、前出しや期限チェックといった仕事を教えられた。どれも単調で、以前の男なら面倒だと逃げ出していただろう。しかし、そんな気はさらさら起きず、男はせっせと働いた。
翌朝の7時になり、次のシフト店員が入ってきた。交代を告げられた男は、ヨロシャッス、と挨拶をし、着替えると帰路についた。
初めての仕事。立ちっぱなし。徹夜。どれもとても疲れるものだったが、何より、深夜になると客はほとんど来ない。この間が退屈極まりなかった。もう一人いた先輩バイトは無愛想な男だったが、友人もおらず、何を話せばいいかもわからない男にとって、その二つは幸いとも言えたが。
男はクタクタになって家に着くと、玄関で靴を脱ぎながら気づいた。
そういや、このスイッチ、ここ三日ばっかずっと入れっぱなしだったな……疲れたら切りゃいいんだったよな。そうでもしなきゃ、ずっとこの調子じゃ死んじまうよ。
男はスイッチを切ると、自身も全身のスイッチが切れたかのように、布団に入って泥のように眠った。
翌日、昼過ぎに起きると、そこにはこれまでと同じ倦怠感だけがあった。何もやる気が起きない。昨日まであれだけあったやる気が、ウソのように消え失せていた。
「あー……働くってダリぃ……もう行きたくねー……」
再び布団に突っ伏し、そのまま二度寝した。
やがて、やかましく言う母親の声で目を覚ました。ババア、帰ってきやがったか。仕事に行く気など無い男は無視しようとしたが、やかましく言われるのも面倒だ。
不承不承風呂に入り、心底面倒臭くも仕事に行く段になり、男は玄関に置いてあるスイッチを押した。たちまちやる気が満ち溢れ、その日もはつらつと仕事をこなし、帰り、眠った。
そんな毎日が、ひと月ほど続いた。
やる気だけはあったので、仕事の覚えも、周囲からの覚えもよかった。これまでの遅れを取り戻すかのように、仕事に行く時だけは妙にやる気がある男を、最初は訝しんでいた両親も、慣れない仕事で疲れているのだろう。働いてくれるようで良かったと、いつしか安心して送り出すようになっていた。
そして、初めての給料日を迎えた男は、バイトが終わり、口座に振り込まれていた金額を見てほころんだ。自分が汗水たらして働いて得たカネが、こんなにありがたいとは、初めて知った。こんなに嬉しいものだったのか。
そのままカネを全額おろして財布に入れ、疲れ果てた男はそのまま家に帰り、いつも通りスイッチを切り、眠った。
翌日は休日だった。せっかくカネが入ったことだし、パチンコでも行くか――そこまで思ったところで、男はピタリと止まった。
待てよ? あのスイッチはやる気を出すんだよな? なら別に仕事だけじゃなくて、他のこともだよな……?
ニヤリと笑い、「パチンコが当たりますように!!」と気合いを入れ、スイッチを押した男は、そのままパチンコ屋へと向かった。
夜になり、帰ってきた男をリビングで迎えた父親は開口一番に言った。
「おい、お前、給料が入ったんだろう。自分の小遣いだけは残していいから、あとは家に入れろよ」
それを聞いた男は、まったく理解できない様子で言った。
「はぁ!? 何言ってんだよオヤジ! オレが稼いだカネだぞ!? 全部オレのもんだろーが!!」
「何言ってんだ! お前、まさか本気で言ってんじゃないだろうな!?」
今まで自分働いてカネを稼いだことがないばかりか、衣食住は親頼り。遊ぶカネもそうだった男には、家にカネを入れるということが理解できなかった。
そして何より、男の財布にあった給料の全額は、見事にパチンコで溶けていた。
スイッチにより、確かにパチンコをやる気は出た。しかし、あくまで"やる気を出す"スイッチであり、別にパチンコが当たるようなものではない。しかしそのやる気だけは、全額を溶かすのには十分すぎた。
その晩、男は両親と大ゲンカをし、ひとしきり暴れ散らした後、「当たらねーじゃねーか! このクソスイッチが!!」と、見当違いな怒りをスイッチに向け、それを床に叩きつけ、そのまま布団に潜り込んだ。
翌日、目を覚ました男は、あの後母親が片付けたのであろうリビングで日中をダラダラと過ごし、夕方になってパートから帰ってきた母親がブツブツと言う文句を聞き流し、アルバイトに行く時間を待った。
家を出る時間になり、いつも通り出ないやる気をスイッチで無理矢理出そうとし、玄関のスイッチを押そうとした時だった。
スイッチが、無い。
昨日までそこにあったスイッチが、無い。慌てて首を振り、周りを見るが、どこにも見当たらない。
そうだ。昨日、ムカついて叩きつけて――
「おいっ! ババアッ! ここにあったスイッチはどーしたんだよっ!?」
怒鳴る男に一瞥をくれた母親は、ため息をつきながら言った。
「さあてね。床に転がってたような気もするけど、昨日アンタとおとうさんがメチャクチャにしたから、掃除した時に一緒に捨てちゃったんだろうね」
男はその場にへなへなと崩れ落ちた。生来、1度も自分からやる気を出したことの無い男は、自分でやる気を出す方法を露も知らなかった。
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