やる気スイッチ――ある女の場合
女がアルバイトから帰り、アパートの鍵を回したその時だった。
「おめでとうございます。この度あなたは、あなたと同位並列の"エマタ・エナカ・ミゾノ"キャンペーンに当籤しました」
「はあ!?」
見れば、女の横にはニコニコと笑みを浮かべる杖をついた老婆がいた。
(誰だよこのババア。ワケわかんねーこと言って。ボケてんのかよ)
深夜、コンビニのアルバイトから帰った女は老婆に一瞥もくれず、ノブを回そうとした。その途端、女の腕を老婆ががっしと掴んだ。
「まあまあ、そうおっしゃらず。大した願いは叶えられませんが、お望みとあらば、どんな望みでも叶えてさしあげます」
老婆は、腕をつかんだままその笑顔を変えずに言った。
(なんだよ、このババア……ボケてんのか!?)
時間は既に、日付が変わっている。そんな時間に、こんな古ぼけたアパートに老婆が立っていることが異常だ。掴まれた腕に尋常でない怖気を感じた女は、ぶるるっと震え、わずかに尿を漏らした。
「望みって何だよバアさん! アンタ何を叶えてくれるっつーんだよ!?」
「はい。あなたの身の丈に合うことなら何でも」
相変わらずニコニコと笑いながら老婆は言った。しかし、その掴んだ腕は微動だにしなかった。
(何だよこのババア……! マジでヤベェんじゃ……)
ざあっ、と血の気が引きながらも、妙な冷静さが女にはあった。
そうだ。このババア、きっとボケてんだよ。何か適当なこと言ったら帰るだろ――
「……ね、ねーえ、おばあちゃん?」
「はい?」
女は努めて優しげに言った。
「私、毎日かったるいのね? それ、楽にしてくんないかなーあ?」
実際女は疲れていた。昼から夜まで、時には深夜帯にネジ込まれたりするコンビニでのアルバイト。
それはよくある話だろう。しかし、こらえ性の無い女には地獄のような毎日だった。
労務者風の客に手を握られるならまだしも、同じシフトの男からの懲りない誘い。
店長からの無理なシフトの願い――という強制――に。
藁にもすがる、なんて期待してはいない。どうせこのババアを今しのげればいい。
とにかく面倒なことは確かだ。適当に受け流すことにした。
「はい、はい、それでしたら、いいものがありますよ」
そう言って、老婆はポケットから、ホームセンターで売っているようなスイッチを取り出した。
「これは"やる気スイッチ"と言って、近頃よく出回っておりまして……結構人気ですので、我々の界隈では、これがもっぱらの……」
「はいはい、ありがと、おばあちゃんっ!」
老婆の言葉を遮り、そのスイッチをひったくるやいなや、部屋に飛び込んだ。
その晩、コンビニ弁当を食べ、シャワーを浴び、そのまま寝た。
窓からさす陽光で目をさます。時間など知らない。寝る。起きる。バイト。帰る。寝る。その繰り返しだ。
寝ぼけ眼で歯を磨き、顔を洗う。朝食は、店で買って帰ったコンビニ弁当。
以前は、期限切れで廃棄する弁当を店員はもらえたらしいと聞く。しかし今は、衛生だ何だとかで店員でさえもらえない。ちくしょう、前はよかったんだなあ。そう何度思ったか知れない。コンビニ弁当をもしゃもしゃと食べる度、そう思う。
ちくしょう、みんな死ねよ。電話番号渡してきやがったキモいオッサン。エロ本をフツーの雑誌に挟んできたオッサン。こっちはわかるし、慣れてるっつーの。みんな死ねよ。ああウザい。死ね死ね死ね。
怒りが高まっていくと共に、ガバガバと弁当をかき込んでいく。
そこに、食事の概念はもう無かった。何度も繰り返した
「っしゃーせー……ざぁーす……」
機械的にレジを通す。もちろん、感情など無い。
いつも死人のような顔をした、頭の禿げ上がった店長も、もはや叱りなどしない。この店には、人手が足りないのだから。だから自分がフリーターをいいことに、深夜勤務もネジ込まれる。
そして給料日が来た。
ほんのわずかな収入。しかしこの日だけは、自分へのご褒美をもうけていた。
店の安い発泡酒を買い、店で余った焼き鳥を頂戴する。もちろん窃盗になるのだろうが、店長のいないところでやっているし、廃棄品のひとつやふたつ、バレやしない。いつものように、立膝をつきながら一杯やっていた。
その時視界の片隅に、あるものが目に留まった。
「あんだァ? スイッチぃ……!?」
アルコールにあまり強くなく、発泡酒の半分も空ければ酔ってくる。とろんとした目で、四つん這いになって進みながらそれを手に取り、まじまじと見た。
「ああ! こないだのあのババアの……! こぉんなモンでぇ、やる気が出たらぁ、苦労しないっつの!」
アルコールが回って揺らめく視界の中、首を揺らしながらスイッチを弄んだ。
「よっしゃーぁ、やる気ぃー、出ろぉ! やる気ぃー、出ろぉってのぉ……! チッ、出るわきゃないかぁ……」
酔った状態の中、スイッチを入れ、そのまま眠りに落ちた。
翌朝、女は起きた瞬間、これまでに体験したことのないほどのやる気を感じた。
「……おっ、おおっ!? ヤベェ、マジがんばれそう! スゲー! なんで!? メッチャ元気あるし!!」
体中に、これまでにない活力が溢れていた。自分でも信じられないようなウキウキとした気分で出勤し、その日の仕事では、かつてない明るさを出し、その変貌ぶりに店長をはじめ、常連のお客でさえ驚くほどだった。
やる気スイッチを活用しだしてからというもの、毎日が楽しくなっていった。
そんな日々が続き、満面に出てきた明るさや活力に、元来の器量の良さも手伝って、女はお客のひとりから告白され、交際するようになった。
しかし、幸せは、長くは続かなかった。
お客からの評判も段々に良くなり、少なからず、女目当てに来るお客も出てきた。
そうなると面白くないのは、交際相手だった。
元来が狭量な男で、自身の甲斐性が無い割には、女に色々と要求する。次第に女も、男から心が離れていった。
そんな時である。男の浮気が発覚した。
「あの野郎、ブッ殺してやる!!」
いきり立った女が蹴り倒したテーブルから、スイッチが転がり落ちた。
コテン、コテンと転がりながら、オンとオフをカチカチと切り替えていたスイッチは、オンの状態で止まった。
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