やる気スイッチ――ある男の場合
男が自宅兼工場で仕事を終え、コンビニに行こうと玄関を開けた時だった。
「おめでとうございます。この度あなたは、あなたと同位並列の"エマタ・エナカ・ミゾノ"キャンペーンに当籤しました」
「あぁ……っ!?」
待ち構えていたように玄関先にいた、パリッと糊の効いた背広姿の青年の突然の言葉に、あっけにとられた男は咥え煙草を落とした。
「つきましては、あなたの位に応じた望みを叶えさせていただきます。あまり大きな望みは叶えられませんが……」
「あんだァ? ニイちゃん、新手の詐欺か? そんなテにゃあ乗らねーぞ。帰れよ」
男は落ちた煙草を拾い、しっしっとやりながら男の横を通り過ぎようとした。
「まあお待ちください。詐欺といった類ではありません。あなたは、先程もお伝えしました通り、位に応じた望みが叶う機会を得たのです。ご安心ください。後で通知や勧誘が来たり、といった類はございません。望みを叶える。それだけです」
「うるせーな。ケーサツ……」
そこまで言ったところで、男は考えた。望み、望みと言うが、無理なことを言えば黙って引き下がるだろう。バカ正直に信じる気はさらさら無いが、せっかくだ。この優男をからかってやれ――
「じゃあ、オイ。カネだ。一生遊んで暮らせるくらいのカネを出してみろよ!」
「お金ですか。お金をお望みでしたら、あなたの位ですと、一晩飲み明かせるくらいの金額がお出しできます」
「なんだとぉ!? テメエッ!」
男は青年の胸ぐらを掴み、青筋を立てた。自分の位が、カネにすると一晩の飲み代程度。その言葉が、男のプライドを傷つけると同時に、しがない町工場――それも、夫婦二人だけの下請け零細もいいところ――の、社長兼工員の男の劣等感を突いた。
「まあまあ、落ち着いてください。何もおカネばかりでなくとも、他にもあるはずです。例えば、これがあれば役に立つような物……ですとか」
青年は怯えたふうもなく、それまでと変わらない様子で平然と言う。逆に、その落ち着きが却って男の興奮を抑えることとなった。
こんな優男にナメられてたまるか――男は大きく鼻から息を吹き出すと、その手を放し、青年に言った。
「カネがダメならよ、オメエは何を出してくれんだよ!? おおっ!?」
「出せるものでしたら何でも出せますが、具体的に言ってくださいませんことには、何とも。先程も申しましたように、ご自分に役に立つものですとか」
「自分に、役に立つ……?」
男は考えた。自分に役に立つものとは何なのか。
カネは一晩の飲み代しか出ないと言う。ならば、他もその程度のものだろう。
ならば、
「そうだ、俺はこの工場をやってるんだが、どうにもうまくいかねえ……借金ダルマで身動きもつかねえ! ヤケ酒でもあおるしかねえってんだチクショウ!!」
「でしたら、そのぶんお仕事に精を出されては?」
冷静に言う青年の言葉に、男はハッと気づくものがあった。
「そうだ……そうだよ、じゃあオメエ、俺にやる気を出させてみろ! そーだよ! 仕事も毎日毎日、元請けからムチャな注文押し付けられて、ひいこら働いても赤字続きでよぉ! やる気があったら何でもできるっつーじゃねーかよぉ! だけどよぉ、そんなふうによぉ! 人間、スイッチみてぇに切り替えらんねーんだよ!!」
その言葉は、半分は本当だった。もう半分の嘘は、男には、毎日延々と同じ部品を作り続けることが苦痛で、ほとんどを妻まかせにしていることだった。
「ははあ、なるほど。私どもからやる気を与えることはできませんが……でしたら、こういうものはいかがでしょう?」
青年はポケットから、手のひらに収まるサイズのスイッチを取り出した。
「なんだあ、こりゃあ……」
「はい、私からの提案なのですが、"やる気スイッチ"とでも言いましょうか。これをオンにしますと、あなたのやる気が出ます。オフにすれば、それが切れます」
すっと差し出されたそれを、つい男は受け取り、まじまじと見た。
それはどこからどう見ても、ホームセンターに単品で売っているような、何の変哲も無いスイッチだった。
「てンめえ……!!」
ナメやがって、と、激昂して殴りかかろうと顔を上げると、もうそこに青年の姿は無かった。
「……クソッ!!」
スイッチを握り締め、ドラム缶を蹴り飛ばし、自宅へと足を戻した。
そして腹いせに、妻を殴り、蹴り倒した。
男が目を覚ましたのは、昼過ぎだった。
昨日イライラして、ヤケ酒をあおり、そこからの記憶は無い。二日酔いで、頭がひどくガンガンする。
水、水――台所の流しへ行き、蛇口から出る水をそのままがぶがぶと飲み、シャワーを浴びるでもなく、作業着に着替えるために自室へと戻った。
すると、座卓の上にあるスイッチが目にとまった。
(こりゃあ、昨日の優男が出してきやがった……)
スイッチを手にとり、ゴミ箱に投げ捨ててやろうかと思ったが、ふと好奇心が男に芽生えた。
(こんなスイッチでやる気が起きるってんならよう、苦労しねえっての。仕事を頑張る、仕事を頑張る……ってか? くだらねえ……)
男は自嘲気味に、スイッチを押した。
その瞬間だった。男の中に、いてもたってもいられないほどの仕事に対する意欲が、間欠泉のように噴き出した。
「……そうだっ……仕事だよっ、仕事! 俺ぁ、仕事しなけりゃならねえっ!!」
バタバタと作業着に着替えると、やにわに工場へと飛び出した。
その日、男は不眠不休で働いた。これまでは、面倒極まりなかった仕事――ただ延々と、同じ部品を作り続ける――が、自分でも信じられないほど熱心に打ち込めた。
これまで、ただぐうたらとし、赤貧続きだった日々を取り戻すかのように、その日はしゃにむに働いた。
その尋常でない様子に、夫に一切の望みを棄てていた妻はその日はただただ呆然とし、仕事の手伝いをしていたが、爛々として働く様に異様ささえおぼえ、おずおずと夫に声をかけた。
「あの、あなた、もうこんな時間ですよ……? 仕事に打ち込むのもいいけれど、私もそろそろお腹が……」
「あん!?」
見ると、時計はとうに21時を回っていた。その段になり、やっと男は空腹と疲れに気づいた。
(こんなに頑張ったのは久しぶりだ――あのスイッチ、本当に効き目があったのか?)
ちょっと待ってろ、と妻に言い、自室でスイッチを手に取り、切ってみた。
その瞬間、先程まで男の中にみなぎっていたやる気が、一瞬のうちに消え失せた。
(おいおい……こりゃあ、本物じゃねえか!?)
驚きと興奮に、わなわなと打ち震えながら、男はスイッチを握り締めた。
その夜の夕食は、相変わらず簡素だったが、久しぶりに美味く感じられた。
以来、男はそのスイッチを使い、見違えるほど勤勉になった。
6時には起床し、すぐさま仕事への意欲を念じながらスイッチを入れ、朝食を済ませたら、すぐに仕事に取り掛かる。仕事に打ち込むあまり時間も忘れてしまうので、昼前と夕食前には必ず声をかけるよう妻に伝え、その時はスイッチを切る。食事を済ませたら、またスイッチを入れ、仕事に打ち込み、遅くなりすぎる前に声をかけさせ、泥のように眠る――
そんな日々が数ヶ月も続いた頃には、元受からの評判も良くなり、生活にも少しは余裕が出てきた。そして、規則正しい生活を続けていた男は、以前とは性根がだいぶ変わっていた。酒はあまり飲まなくなり、妻への暴力もほとんど無くなった。
ある日、いつものように起床し、男はスイッチを手にとった。
(今週は元受からのカネが手に入るからな。いっちょ、死ぬ気でやってやろうか!!)
口角を吊り上げ、男は強くスイッチを押し、いつも通り仕事へと向かった。
その日もせっせと、いや、普段よりよく働く男に、昼食を告げる妻の声が聞こえた。
「おう、ちょっと待ってろ!」
いそいそと自室に戻り、スイッチを切ろうとしたが、スイッチはいくら押しても戻らない。
(おい、なんでだ!? まさか、壊れちまったのか!?)
慌てて分解して修理しようとしたが、スイッチにはネジの一本どころか、継ぎ目さえ無かった。
「あなたあ、用意ができたわよう」
背後から妻の声が聞こえる。スイッチはピクリともしない。しかし、仕事に対するやる気は一向に衰えない。
(そうだ……こんなことしてる場合じゃねえっ!!)
妻に、「メシはいらねえ! お前だけ食ってろ!」と言い捨て、男は再び仕事へと戻った。仕事に打ち込み打ち込み、晩になり、妻が夕食の時間を告げても、男は仕事の手を止めることは無かった。
鬼気迫る様子に、妻は呆然としつつも、今までのように怒りにふれ、手を挙げられてもいけない――「先に寝ますからね」と言い、妻は独りで床についた。
翌日、目を覚ました妻の耳に真っ先に入ったのは、工場から作業をする音だった。
(まさかあの人、もう働いて――?)
着替えもせず向かった先の工場で妻が目にしたのは、血走った目で仕事に取り組む男の姿だった。横に積んである箱には、受注以上の部品がぎっしりと詰まっていた。
「あなた、もうこんなにいらないじゃないの!? やりすぎよ。体を壊すわ!!」
驚いて近づいた妻を振り払い、男は怒鳴った。
「うるせえっ! 俺の仕事の邪魔をするんじゃねえっ!!」
鬼気迫る夫の語調にすくんだ妻は、暴力の恐怖から逃れるべく立ち去り、2人分の朝食を作り、独りで食べた。
工場に戻ったが、男は一心不乱に、延々と仕事に打ち込んでいる。受注ぶんなどとうに超え、これ以上作ったらむしろ赤字になる。妻は慌てふためき、男にすがった。
「あなた、やりすぎよっ! こんなに作ってどうするの!? それに、昨日から全然寝ても食べてもいないし……」
「邪魔するなっ!!」
充血し、クマができた野獣のような目で妻をにらみつけ、男は妻を払いのけた。
がごん。
倒れた先から鈍い音がし、妻はそこからずるずるとくずおれた。
数日後、連絡が無いことに腹を立て、部品を取りに来た元請け業者が、2人の遺体を発見した。
死因は、妻は脳挫傷。男は、妻が死んだ数日後に、栄養失調と過労死。
傍らには、受注の何倍もの部品が、山と積まれていた。
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