40 天乙の召喚

「えっ!? 阿祇波毘売を滅する──!?」


 覚悟の込められた欧理の言葉。


 阿祇波毘売は封印しない……?

 滅するって、完全に消し去るってことだよね……?

 そのために、欧理は全ての力を振り絞って天将たちに霊力を送り続けているの────?


 このままじゃ、欧理がどうにかなっちゃう……っ!!


 けれど、次の瞬間、そんな私の危惧より先に恐ろしいことが起こった。


『我を滅するなど……神をも成せぬ所業を人間ごときが成せるわけがなかろう!!』


 一体どこにそんな力が残っていたのだろう。

 天空が囲い込む中からどす黒い怨気が燻り出て、銀の砂を酸化させるかのように黒く染め、パラパラと下へ落としていく。


「天空の銀砂が払い落とされてく……っ!」


 その刹那。


『人多きこの地に我の利あり。 一気に我が糧を集めん!』


 首に白虎を噛ませたままの阿祇波毘売が、両手から網を投げるがごとく、幾筋もの炎を放った!


「ああっっ! 火がっ!!」


 あちこちのビルの屋上から、黒煙や炎が上がり始める。


「あいつ、大量に人を殺して発生した怨気を取り込む気だ! 玄武っ、遣烈雨鎮静火炎れつうヲつかハシテかえんヲちんせいセシメヨ! 天空っ、遣水霧阻止射炎すいむヲつかハシテしゃえんヲそしセシメヨ! 急急如律令っ!!」


 気力も体力も限界に近いはずなのに、欧理はさらに天将に指示と力を送り出し、火炎攻撃を阻もうとする。


 建物から上がる煙や火の手に気づき出した人々の悲鳴がほうぼうで聞こえてきて、池袋の街が騒然となり始めた。


 鳴り響くサイレン音。

 焼け焦げる臭い。

 炎の発せられる音、水に消される音。

 印を結び、苦しげに口密を捧げ続ける欧理。


 それらに思考を奪われ、真っ白になった私の頭に、おどろおどろしいあの声が響く。


『おぬしらも我を怨むがいい。怨み死にて、我の糧となれ!!』


「危ないっっ!!」


 咄嗟に欧理に飛びかかり、どうっとコンクリートの床に倒れ込む。

 欧理に覆い被さる私の背後から、炎の矢の降り注ぐ音が、屋根を打つ土砂降りの雨音のように響いてくる。


「真瑠璃……っ! やめろっ」


 欧理が体勢をひっくり返そうと私の肩を押すけれど、私は全体重をかけて抵抗する。


「いいから天将に力を送り続けて! 私が欧理を守ってみせるっ!!」


 疲弊しきった欧理の力ではもはや私を押しのけることはできなくて、夏前のダイエットに挫折してよかった、なんてことをこんな状況の中ですら考えてしまう。


「オン トナトナマタマタカタカタカヤキリバ ウンウンバッターソワカ、オン トナトナマタマタカタカタカヤキリバ ウンウンバッターソワカ……」


 気がつくと、私は欧理を押し倒したまま、トシエばあちゃんのおまじないをひたすらに唱えていた。


 そこに聞こえてきたのは────


「欧理っ!! 真瑠璃ちゃんっ!!」


 やっと追いついた在人さんの声!


「ナウマク サンマンダ ボダナン ベイシラ マンダヤ ソワカ!!」


 在人さんの印と真言が結界の層を厚くして、降り注ぐ炎の矢を凌げるように。

 ほっとした私が身じろぎするとすぐさま欧理は立ち上がり、「在人、式盤を!!」と指示を出した。


「欧理、天将を追加するなら水乗火すいじょうか、水神の天后だけにしろ。でないとお前の体がもたない!」


 式盤を構えながらの在人さんの忠告に、刀印を結んだ欧理は首を左右に振った。


「いや……。このままじゃ埒が明かない。奴を滅するために、天乙てんおつを呼ぶ」


「天乙だって!? それだけはやめ──」


「十二天将が主将、天乙に請う、以我誓約浄滅悪鬼わガせいやくヲもっテあっきヲじょうめつセヨ、急急如律令!!」


 在人さんの制止を聞かずして、召喚呪を言い切る欧理。

 その呪に応じた式盤が金色に眩く輝き、天に昇るがごとく十二天将の主将、天乙が現れた。


『欧理……。ようやくわらわを呼ぶ気になってくれたのじゃな』


 天将がしゃべった!!


 その姿は、まさに天の乙女。

 楊貴妃もかくやあらん、光輝く霊気を纏う、神々しいまでに華やかな美姫びきだった。


 こんな可憐なが十二天将の主将チート!?

 在人さんはどうしてこの天乙の召喚を止めさせようとしたんだろう。


 そんな疑問を抱きつつ立ち上がると、欧理は胸ポケットから一枚の式紙を取り出した。

 あれは、小石川植物園で欧理がじっと見つめていた式紙だ。


「ここに誓約符もある。お前の力を俺に貸してくれ」


「欧理っ! やめろっ!!」


 欧理が差し出したその式紙を、在人さんが奪うより先に天乙が受け取った。


『うふふ。これでやっと欧理とひとつになれるのじゃな。妾は嬉しい……』


 頬を染めてはにかむ美少女の眼差しは、完全に恋する乙女のそれだ。

 なんだろ、炎の矢がいまだ降り注ぐ危機的状況の中での、このモヤモヤ感……。


「恋人はいないって言ってたくせに……っ」


 思わず零れた言葉だったけれど、在人さんは顔を強ばらせたまま私に告げる。


「恋人なんて、そんないいもんじゃない。天乙は、自分の中に欧理の魂を取り込みたがっているんだ。神仏の加護を天将の力に変えられる欧理の能力が欲しくてね」


「魂を取り込む!? それってまさか──」


「そう。欧理は自分の魂を交換条件に、天乙に阿祇波毘売を倒すように依頼しているんだ。天乙に魂を取り込まれたら、欧理は現世うつしよの生どころか、死後常つ夜に住まうこともなく永遠に天乙の一部となる。欧理がそこまでして阿祇波毘売を倒そうとしていたなんて────!!」


 紅茶色の瞳に涙を滲ませる在人さん。

 漆黒オニキスの瞳を真っ直ぐ天乙に向ける欧理。


「この誓約符には “阿祇波毘売を滅せらるれば” と書いてある。俺を取り込む前に、まずは奴を倒すのが条件だ」


『わかった。愛する欧理のためじゃ。造作もない』


 天乙は華やかに微笑むと、ドレスのように優雅なドレープを蓄えた唐装漢服を翻し、くるりと回った。

 ふんわりとした風が生まれ、炎の矢を刹那に消滅させていく。


 そのまま天乙は空へと浮かび、まるで女友達に駆け寄るような気軽さで阿祇波毘売へと向かっていった。


「欧理っ! 今すぐ天乙を呼び戻せっ!!」

「欧理が取り込まれちゃうなんて、そんなのやだ!! 魂を賭けてまで阿祇波毘売を倒さなくても、封印できればそれでいいじゃない!」


「無理だ。もう遅い」


 空を見上げて天乙を見送る欧理に、在人さんと二人で詰め寄ると、欧理は前髪の奥からじっと私たちを見つめた。


 その瞳に宿すのは、もはや揺るぎない覚悟のみ。


「阿祇波毘売を封印せずに滅することは、美空みくを死なせた時から決めていたことだ。奴を封印をしても、またいつか必ず現世うつしよへと出てくるだろう。その時にはまた弓削の陰陽師に怨みを抱き、美空のような犠牲が出ないとも限らない。俺たちの後に、俺たちみたいな苦しみや悲しみまで受け継がせるわけにはいかないんだ」


「欧理────っ」


 欧理がそこまで考えていたなんて知らなかった。

 在人さんや私に内緒で、自分の魂を引き換えにする覚悟まで持っていたなんて……。


 絶句する私の横で、在人さんはなおも食い下がる。


「僕たちはおじいさんから阿祇波毘売の再封印を託されはしたが、滅せよとは一度だって言われたことないじゃないか。後継への対策は、僕たちが責任をもてば何とでもなる。頼むから欧理の命を犠牲にしないでくれ!」


 在人さんの言葉は最後には半ば懇願になっていた。

 美空さんに続いて欧理まで失うことになったら、在人さんは再び深い悲しみに囚われてしまうんじゃないだろうか。


 漆黒の瞳が私に向けられる。

 一瞬の揺らぎが見てとれる。

 けれど、欧理は私の心を読むかのように真っ直ぐに私を見据えてこう告げた。


「大丈夫だ。真瑠璃がいれば、在人はきっとまた立ち直れる」


 猫目を細めて淡く微笑むと、在人さんに視線を移す。


「在人、真瑠璃を頼む」


 短くそう言うと、阿祇波毘売の正面に対峙した天乙に向かって叫んだ。


「改めて天乙に請う、以捧我魂浄滅悪鬼わガたましいヲささグヲもっテあっきヲじょうめつセヨ、急急如律令!!」

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