36 阿祇波毘売の出現


「首塚の方向から、どす黒い煙のような霊気が立ち昇ってる……!」


「御霊鬼が……いよいよ封印を解いたんだ」


 その時は近いと覚悟していたはずだった。

 それでも、これだけ離れていても感じる凄絶な怨気と、立っているのがやっとなくらいに圧倒される霊気に、呟いた欧理の声はいつにもまして掠れていた。


「式占によると阿祇波毘売は首塚の西、千鳥ヶ淵方面へと進むはずだ。九字紋の戦線 “者” と “皆” の交点に向かって急ぐんだ!」


 いつになく緊迫した在人さんの声に弾かれ、私たちは慌ただしく装備を整えると先週陰陽寮から手配されたばかりのバイクにまたがり発進した。


 ゴスロリドレスのままヘルメットをかぶり、欧理の後ろにタンデムした私は、彼の背中にしがみつきながら延々と立ち昇るどす黒い霊気の流れを見極める。


「煙が四方に拡散を始めてる! 少しずつ、人の形に似た輪郭を持ち始めてる──」


 私の実況を受け、欧理がハンドルのアクセルを回してスピードを上げた。

 後ろを走る在人さんのバイクのエンジン音がさらに高く唸る。


 出発直前に確認したスマホのニュースでは、先ほど都内で震度3の地震があったとだけ報じられていた。

 御霊鬼の存在は世間一般には知らされていないし、あの黒煙が見えている人なんて実際ほとんどいないだろう。

 都心に集まる忙しい人々は、地震があったことなんてまるで気にしていない様子で通りを歩き、電車に乗り、自動車を走らせている。

 欧理と在人さんの運転する二台のバイクは、ぐずぐずと滞りがちな車の流れを縫うように通り抜け、千鳥ヶ淵を目指した。


 やがて、裂けるように分かれた煙のひとかたまりが、私たちの目指す方角の上空へ伸びてきた。


「こっちへ向かってくる煙の形が変わってく……髪をなびかせて空を飛ぶ女の人みたい」


「よし、真瑠璃、しっかり掴まれっ!」


 欧理の言葉に応え、彼の体に回す腕にぐっと力を込める。

 幅五メートルほどの帯状に張られた戦線が、うっすらと赤い空気を纏って片側二車線の内堀通りを横切っているのが見えてきた。

 バイクはその中へと突っ込んで一旦飛び出ると、左へ曲がって靖国通りへ。

 道路の前方が再び戦線と重なり、さらにその先にもう一本の戦線と垂直に交差する場所が見えてきた。


「ここが “者” と “皆” の戦線の交点だ!」


 道路脇に停車したバイクから飛び降りた欧理が歩道上にあるその交点へと駆け寄った。

 私もヘルメットを外し、その後を追って中へと踏み込む。


 祈祷担当の陰陽師達が作り出した、都内を格子状に区切る九つの戦線。

“臨” “兵” “闘” “者” “皆” “陣” “裂” “在” “前” のうち、“者” と “皆” の二本が交わる交点は、戦線の纏う特有の熱気を伴った赤い空気が重なり合い、息が詰まるほどの霊気が感じられた。


 五メートル四方のその交点に在人さんも入ってきて、三人でどす黒い怨気の覆う空を見上げる。


「真瑠璃ちゃん、阿祇波毘売は今どんな形を成してる?」


 在人さんの質問に正確に答えようと、蠢き続ける煙の形を見極める。


「人っぽい形にはなっているけれど、それ以上の明確な輪郭はまだ持ってません。依然黒煙みたいに揺らめいていて……そっちの上空を覆い被さるみたいに広がりつつあります!」


 私が道路を隔てた向かい側を指さすと、在人さんが青ざめた。


「靖国神社か……。阿祇波毘売は、靖国に祀られている戦没者の霊気を吸収しようとしているに違いない。今すぐ阻止しなければ!」


「青龍! 白虎! 朱雀! 玄武! 勾陳! 帝台! 文王! 三台! 玉女!」


 その言葉に応じた欧理が、破邪の九字を結び出す。


「欧理、靖国の上空に天将を遣わせるんだ! 白虎を呼べ!」


 もどかしげにリュックを背中から下ろし、式盤を取り出しながら叫ぶ在人さんの指示に、欧理はすぐさま不動明王の印を結びながら召喚呪を唱えた。


「十二天将が一、白虎に請う、以剣牙壊裂邪気けんがヲもっテじゃきヲかいれつセヨ、急急如律令!」


 在人さんの構えた式盤から出てきたのは、人よりも二回りは大きなホワイトタイガー。

 銀色の縞をもつ白虎は飛び出てきた勢い、鋭い爪でアスファルトを蹴り、空へ向かって躍り出た。


 数十メートル先、靖国神社から澱んだ霊気を吸収し始めた巨大な黒煙の中に突っ込むと、燕のように空を飛ぶ白虎の軌跡が霊気を切り裂いていく。


 けれど、形を持たない黒煙は切り裂かれてもすぐにその空白を埋め、靖国から濃灰色の霊気を取り込み続ける。

 澱みながら濃度を増していく阿祇波毘売が、とうとう白虎を包み込んだ。


 黒煙の中でもがく白虎が霧散すると、欧理が小さく舌打ちした。


「白虎が消えたな。この程度の攻撃じゃ効かないか」


「それでもいい。まずは奴の注意をこちらに向けるのが重要だ。封印チームの対応が遅れてる御霊鬼達は、すでに実害を出し始めてるみたいだ」


 画面に表示されるニュースのヘッドラインを素早くった在人さんが、苦い顔でスマホをポケットに突っ込んだ。


「怨呪結界を予め解いたおかげで今すぐ甚大な被害は出ないだろうが、それでもこうして現世へ出てきたからには転覆を諦めたわけではなさそうだ。一般国民に危害が及ぶ前に封じ込めなければ──」


 在人さんがそこまで言った時、黒煙の中心が渦巻いたかと思うと、中から巨大な顔が浮かび上がってきた。


「黒煙から顔が……っ!」


「ナウマク サンマンダ バサラ ダン カン!」


 私の言葉に在人さんと欧理が反射的に不動明王の印を結んで真言を唱え、護身結界を張り始めた。


 煙が形づくる顔は彫りの深い女性のようで、落ちくぼんだ眼をこちらにぎろりと向けている。




「彼女が阿祇波毘売────」




 黄泉比良坂で遭遇した御霊鬼、後鳥羽院は大きさこそ並外れてはいたけれど、姿かたちは人間の輪郭を明確に持っていた。

 けれども、靖国神社の上空を覆う阿祇波毘売の黒煙は時折人間のような形を見せるものの、その形をとどめることなく揺らめき続けている。

 あるいは、人間の姿を核にして、分厚い怨気と霊気を纏っていると見るのが正しいのかもしれない。


『弓削の陰陽師……。不視の呪縛に捕らわれておるにもかかわらず、よう我の前に姿を現したな』


 万人の声を一つに合わせたような声がびりびりと地を震わせる。


『我を封じ、現世うつしよを人の欲望と執着にまみれさすは、天・地・人の三界にあだなすと同じこと。陰陽師ごときが神にもかなう我の志を邪魔立てできると思うなよ』


 二千年近くも前に栄えた邪馬台国の女王・卑弥呼が正体かもしれないと言われていた阿祇波毘売だけれど、意外にも現代人の私に理解可能な言葉で宣戦布告してきた。


 そんなことを考える余裕が与えられたのはほんの一瞬で、在人さんと欧理に今の言葉を伝えようとした矢先、阿祇波毘売の体から黒い雨粒のようなものがぼとりぼとりと落ちてきた。


「阿祇波毘売の体から雨粒が……」


 そう言いかけて、一瞬目を疑った。


「違う……! 雨粒じゃない! 人です! 人の姿をした霊が、次から次へと落ちてくるっ──」


 ぼとぼとと落とされた怨霊たちは、靖国神社の塀を通り抜け、行き交う車にぶつかることもなくこちらへ向かって歩いてくる。

 その姿はまるで土くれみたいなのに、眼窩には真っ赤に充血した白目が嵌め込まれている。

 焦点の定まらない眼を鈍く光らせながら、無数の不気味な怨霊達が私たちに迫ってきた。


「阿祇波毘売の落とした怨霊がこちらへ向かってくる……!」


 その静かなる怨気の脅威を肌で感じたのだろう。

 護身結界を固めていた在人さんと欧理は、防御を兼ねた浄霊へと転じた。


「欧理ッ! 六合りくごうに食い止めさせろ!」


「十二天将が一、六合に請う、遣牆垣鎮怨怒しょうえんヲつかハシテえんぬヲしずメサセヨ、急急如律令!」


 式盤から現れたのは、平和を司る守護神、六合。

 私が初めて目にする人の姿に似た天将で、少年を思わせる華奢な体躯の彼の頭には鹿のように枝分かれした大きな角が生えている。


 欧理の呪に応えた彼がその角をにょきにょきと伸ばし始めたかと思うと、幾つにも分かれた枝が絡み合って葉を茂らせ、美しい生垣となって私たちと怨霊集団を隔てた。


 目の前に現れた生垣が見えていないかのごとくぶつかってくる怨霊達だけれど、六合の作り出したそれを通り抜けることはできず、生垣に触れた怨霊は浄化され、白い光となって消えていく。

 けれども、未だ阿祇波毘売は上空で怨霊を降らし続けていて、生垣で防御するだけでは埒が明かないように思えた。


『いつまでそうしておるつもりか。上から見下ろすおぬしらは隙だらけだと言うに』


 その声にはっとして見上げると、不気味な笑みを浮かべた阿祇波毘売の顔が黒煙の中に紛れた。

 ゴロゴロと鳴り出す雷の音。


「ヤバい! 雷が出てきそうっ!」


「欧理っ! 金剋木ごんこくもくだ!」


「十二天将が一、大陰だいおんに請う! 以偃月弾退雷光えんげつヲもっテらいこうヲはじキのケヨ、急急如律令!!」


 二体の天将を同時に召喚するのはかなり大変なことなのか、欧理の顔は苦しそうに歪み、珍しく額に汗が滲んでいる。

 そんな彼と上空で明滅する雷光を交互に見やった私は思わず絶叫した。


「ダメッ! 間に合わないっ…………!!」


 次の刹那、私の視界は閃光によって奪われた。

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