33 涙と鼻水でぐっちょぐちょ

「うぅ……ひっく……っく……」


 欧理の腕の中で、心の内から湧き上がる不安や重圧を嗚咽と共に全て吐き出すと、涙も徐々に枯れてきた。

 そうしてもやもやが晴れてくると、今度は現在自分の置かれている状況がとんでもなく恥ずかしいものであるという認識がはっきりと浮き上がってきた。




 ────お、


 お…………


 欧理に抱きしめられてる――――っ!!




「ご、ごめ……っ」


 慌てて顔を上げようとして、さらにとんでもないことに気がついた!


 欧理の肩、私の涙と鼻水でぐっちょぐちょだ…………。


 きつく抱きしめられて、顔面から噴出する諸々を拭うことすらできなかったから、今顔を見られたらとんでもないことになってるはず……。


 これは急いでなんとかしないと!!


 私が少し身じろいだせいで、背中に回されていた腕の力が弱まった。


「落ち着いたか」

「う、うん……」


 顔を上げられず、欧理の肩におでこをのせたまま、ショルダーバッグの中に手を入れてハンカチを探る。

 私がまだ甘えていると思ったのか、欧理は私の背中に回した腕をほどこうともせず、右手をそのまま上へとずらすと、私の頭を包み込むように撫でつけ始めた。


「お前が弱音を吐くなんてめったにないことだからな。気が済むまでこうしていろ」

「あ、ありがと……」


 実を言うと、大泣きしたおかげで色々スッキリした私としては、もうとっくに気は済んでいる。

 素に戻った現状でこの体勢を続けていたら心臓が暴発してしまうし、むしろ今すぐ体を離したい。


 それにはまずこのぐちゃぐちゃの顔面を何とかしないとっ!!


 俯いたまま、ようやく取り出せたハンカチで顔を拭う。

 ふう。これでやっと顔を上げられる。


「ごめんね。肩、ぐしょぐしょになっちゃった……」


 ゆるゆると体を離そうとすると、うなじに置かれた欧理の手に力が込められた。


「そんなこと気にしなくていいから、もうしばらくこうしてろ」


「え……っ」


 違ーーーうっ!!

 遠慮してるわけじゃないってば!!

 ほんとにもう大丈夫なんだってば!!


 そう言い返したいのに、この体勢では不思議といつもの調子が出ない。


 今の欧理の一言で体を離すタイミングを完全に逃しちゃったし、もうどうすればいいんだろう。




 このままじゃ私、欧理に変な感情が湧いてきちゃいそうだよ……。




 頭を撫でられるまま、その体勢を維持すること数十秒。


 ピロリロリンッ♬


 すっかり甘ったるくなった空気を冷やかすように、欧理の携帯の着信音が鳴った。

 その音に促され、私と欧理はようやく互いの体を離した。


 恥ずかしすぎて、まともに欧理の方を見ることができない。

 何となくお互いに背を向けたまま、鳴り続ける携帯に欧理が応答した。


「もしもし。在人? ……あ、ああ。お前の指摘どおり曙ふ頭公園内で見つかって、今解いたところだ。……そうか、わかった。これから戻る」


 通話内容に聞き耳を立てたけれど、自分の動悸が鼓膜に響くせいでほとんど何も聞き取れなかった。

 通話を終了するピッと小さな電子音を合図に、おずおずと欧理の方を見る。


「あ、在人さん、なんて……?」




 …………って、欧理の顔、超真っ赤!

 ゆでたてホヤホヤのズワイガニかっ!!




「りりり、凛子さんが……い、今から鎮魂館うちに来ることになったから戻ってこいって……」


「そそそ、そう……」


 欧理の動揺を明け透けに見せられて、もはや私の平常心は宇宙の彼方に吹っ飛んでしまった。


「こっ、公園の入口にタクシーを呼ぶ。急いで鎮魂館レクイエムに戻ろう」

「う、うん……」


 しどろもどろに言葉を交わしつつもお互いまともに顔を見ることはほとんどないまま、欧理が私に背を向けた。

 携帯でタクシーを呼び出しながら公園の出入口に向かって歩き出す彼の後ろを、少し距離を取りつつ歩く。

 しばらくして激しかった動悸が徐々におさまってくると、泣きじゃくっていた私を宥めるように語りかけてきた欧理の言葉が思い出された。


“どんな神仏の加護を受けるより、お前が共に戦ってくれることが何より心強いし、力が湧いてくる”


“お前にかかるプレッシャーはバディの俺が全部引き受ける”


 出会った当初は覚悟の伴わない私を危険に巻き込むまいと突き放した態度を取っていたのに、いつの間にかそんな風に思っていてくれていたんだ。


 いくつものハードルを共に乗り越えてきたおかげで、私たちもやっとバディらしくなってきたのかもしれないな……。


 そう思えた今、改めてお腹の底から込み上げてくるものを感じた。

 それはもはや不安やプレッシャーなんかではなく、彼のバディとして私も最後まで戦い抜くんだという熱い闘志。


 前を向いたままずんずんと進む欧理に小走りで追いつくと、私は鼻息荒く宣言した。


「前言撤回。怨呪だろうが御霊鬼だろうが、もう怖くない! 二度とこの世を脅かさないように、こてんぱんにしてやるんだからっ!」


 驚いてこちらを見た欧理はふっと軽く笑いを零すと、その漆黒オニキスの瞳を再び真っ直ぐ前へ向けた。


「上等だ。じいさんに出来て、俺たちに出来ないわけがない。絶対にこの手で阿祇波毘売を倒してみせる!」


「うんっ!」


 私も胸を張って真っ直ぐに前を見つめ、欧理と肩を並べて歩き始めたのだった。


 ***


 タクシーを降り、鎮魂館レクイエムの重厚な扉を開けると、ホールにはすでに明かりがついていて、一番奥のテーブルの傍に立っていた在人さんが顔を上げた。


「おかえり。解呪お疲れ様」

「在人さんこそ、早速の式占お疲れ様です」


「欧理君も真瑠璃ちゃんもお疲れ様です。お墓参りに行ったはずが、大変なことになってしまったわね」


 テーブルに広げられた地図を見つめていた凛子さんが振り返る。

 そして、そんな彼女の隣には、スーツ姿の大人の男性が一人。

 顔を上げ、こちらを見ると穏やかな笑みを浮かべて会釈する。


 四十代半ばくらいの、髪に白い筋が僅かに入った人の良さそうなおじさまだ。

 この人の顔、以前どこかで見たような──


「欧理さんも、黒魔術の従姉妹さんも、お疲れ様でございました」


「あっ!! マロ眉の人っ!?」


 彼の声と言葉にピンと来た瞬間、思わず声に出しちゃった!


 そうだ、この人、全国陰陽師連合会臨時総会で会った、平安貴族みたいな出で立ちをしていた陰陽師だ。


「し、失礼しましたっ」


 慌てて頭を下げる私に、「いいのいいの。あれが彼の正装なんだから」とフォローを入れてくれた凛子さんが、おじさんと二人で立ち上がった。


「真瑠璃ちゃんに改めて紹介するわ。彼は内閣付の陰陽師、賀茂かも義行よしゆき。実は彼、私の夫でもあるの」


「はあっ!!? 夫ぉ!!?」


「家内がいつもお世話になっております」


 にこやかな表情をこちらに向ける二人の傍で、在人さんが「あれ? 真瑠璃ちゃんに言ってなかったっけ?」と首を傾げる。


 いや、聞いてないし!!

 そもそも凛子さんが既婚者だったことも知らなかったし!!


 なんとコメントしてよいのかわからなくて口をぱくぱくさせていたら、後ろで欧理がくっくと忍び笑いを漏らしていた。


「とにかくこっちへ入っておいでよ。今真瑠璃ちゃんにアイスティーと、欧理にオレンジジュースを用意するから。賀茂さんにも入ってもらって、早速今後の対策を練ろう」


 在人さんがカウンターへと向かうのと入れ違いに、私と欧理がテーブルにつく。

 大きく広げられている地図は東京都心部のもので、その上には重なり合う三つの図形が色分けされて大きく書き込まれていた。




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