32 急ぎ怨呪の結びを解け
「違和感を感じたのは、確かこの辺りだな……」
鷹穂山の中腹あたりでそう呟いた欧理が、ハイキングコースを逸れて鬱蒼とした雑木林の中を線路方向へと踏み入った。
私と在人さんも彼が掻き分けた草木の間を辿りつつ後を追う。
線路が数メートル先に見えるあたりで、先ほど感じた息苦しさがより強く襲ってきた。
「この辺りに何かがありそうだ。真瑠璃ちゃん、探してくれる?」
「わかりました!」
欧理と在人さんの “眼” となって、膝丈以上にも茂る草を分けながら周辺を探す。
「ありました! 梵字が一文字、地面に刻まれてます」
「やはり怨呪だったか……。この式紙に書き写してくれ」
「はい」
欧理から借りた筆ペンで梵字を書き写し、それを彼に手渡すと、式紙を覗き込んだ在人さんの表情が険しくなった。
「これは……una、すなわち “損減” を表す梵字だ。ケーブルカーの線路の傍にこの字で怨呪を付したということは、しかるべき時にケーブルを切断し、事故を起こすことを狙っていたのかもしれないな」
「そんなっ……! もしもその怨呪が発動したら、ケーブルカーが人を乗せたままこの急斜面を落ちちゃう可能性があったんですよね!?」
「通常ケーブルカーには万一の事故に備えて自動ブレーキ機構が備わっている。けれど、おそらくそれも効かなくなるだろうし、大惨事になっていただろうね」
冷静に分析する在人さんの言葉を聞いて、背筋に冷や汗がつたう。
そんな私たちの横で、欧理は淡々と破邪の九字を切り、不動明王の真言を唱えて口づけた式紙を地に溶け込ませて、その呪を解いた。
「こうした怨呪を複数地点に付して結界を張ったとなると、御霊鬼たちは同時多発事故を引き起こそうとしていた可能性がある。真瑠璃は羽田近辺でも同様の違和感を感じたんだろう? 急いでそのポイントを突き止めた方がよさそうだ」
怨呪が解けたのをしゃがみ込んで確認していた私達は、欧理の言葉に急いで立ち上がった。
「この後の解呪の作業は欧理と真瑠璃ちゃんに任せるよ。僕はこのまま
「わかりました!」
「在人、頼んだぞ」
暑さで汗が流れるのも厭わずにハイキングコースを駆け下り、電車に飛び乗る。
ターミナル駅で
***
電車を乗り継ぎ、都心環状線の空港最寄り駅を降りる手前で在人さんから連絡が入った。
「取り急ぎ羽田方面で大凶の根源となりうる場所を占ってみた。空港の北東方面、曙ふ頭近辺を探してみて欲しい」
そのメッセージを受けて、駅でタクシーを拾い、行き先を曙ふ頭公園と告げて向かってもらう。
タクシーを降りると、あの呼吸しづらい独特の空気が身体にまとわりつく。
「やはりこの近辺にありそうだな」
東京湾や頭上を飛ぶ飛行機を眺めて楽しむ人々で賑わう公園内を、私たちは必死の形相で駆け巡った。
「真瑠璃! ここだ!」
欧理が海に面した芝生広場に沿う松並木へと私を呼び寄せた。
駆けつけた先の足元を探すと、一本の松の木の根元に、果たして一文字の梵字が刻まれている。
「欧理、これ!」
いつも通り式紙に書き写してそれを渡すと、欧理が不動明王の真言を唱えて呪を解く。
式紙が淡い光を放ちながら松の根に溶け込むと同時に刻まれていた梵字が消え、私たちはふうっと安堵の息を吐いた。
「今の梵字は “沈没” を表すものだった。飛行機の墜落を狙っていたのか、あるいは東京湾を行きかう船の沈没を狙っていたのかは定かじゃないが、見逃していたら大事故につながっていたことだけは確かだ」
その言葉を聞いて、またしても背筋がぞっと冷たくなる。
「一体あといくつこんな場所があるんだろう……」
取り急ぎ怨呪の付された二つの点を消すことはできたけれど、結界の効力が失われたかどうかまではわからない。
いくつあるとも知れない怨呪をいつ発現するとも知れない期限までに解いて回るのは、あちこちに仕掛けられた時限爆弾を片っ端から処理していくのと同じくらい無理難題のように思える。
そんなこと、私たち三人だけで出来るのだろうか。
もしも解呪が間に合わなかったら──?
むくむくと膨らみ続ける不安で胸が塞がれそうになったとき、私の肩に欧理の手がそっとかけられた。
「大丈夫だ。陰陽師は俺と在人だけじゃない。怨呪の付された地点数次第では、手分けをして他の陰陽師にも解呪を頼めばいい。凛子さんを始めとする陰陽寮職員だってバックについている。強大な敵には組織力で対抗すればいい。過去の封印も、そうやって皆の力を合わせることで成し遂げてきたんだ」
「欧理……」
いつもの私なら、前髪の奥で強く光る漆黒の眼差しをこうして注がれれば、それで安心できたことだろう。
でも、今日に限っては違う。
在人さんが生死の境界を彷徨い、出雲の山中に果実を探し求め、後鳥羽院の追撃から命からがら逃げ切り、そして今度は散りばめられた怨呪を解くために奔走し────
危機や苦難に直面するたびにはち切れんばかりに膨らむ緊張と不安を押さえ込み、その場その場を無我夢中で切り抜けてきた。
そんな日々を過ごす中で、無意識のうちに張りっぱなしになっていた糸がとうとうぷつりと切れた音がした。
「やっぱり怖い……怖いよ…………」
絞り出す声が震える。
堰を切って涙が溢れ出す。
「もしも怨呪を解ききれなかったら……御霊鬼を封印できなかったら……日本はどうなっちゃうの? もしも阿祇波毘売に勝てなかったら、欧理や在人さんはどうなるの? みんなが頑張ってる中で、もしも私が失敗したら…… 私のせいで大きな犠牲が出たら……私はいったいどうしたらいいの……?」
欧理の “眼” となり、阿祇波毘売を共に倒すことを決意したのは私自身だ。
自分の身が危険に晒されることは覚悟の上だったし、いまだその覚悟が揺らいだことはない。
それはきっと、欧理や在人さんが全身全霊をかけて、いついかなる時でも私を守ってくれているからだ。
でも、万が一にも私のミスで、自分ではない誰かの命が、そして共に戦う欧理や在人さんの命が失われることになったら……という恐怖が、ここに来て一気に湧き上がってしまったのだ。
「真瑠璃────」
泣きじゃくる私の肩にかけられていた手が背中に回り、ぐっと引き寄せられた。
涙に濡れた瞼が欧理の肩に触れる。
「俺たちが不視の呪縛にかかっているばかりに、御霊鬼との戦いにお前を巻き込んだ。お前のことは俺と在人が全力で守ると約束したが、そんなプレッシャーを背負わせているところまでは思い至らなかった」
「う……うぅ…………っ」
「以前の俺ならば、お前が危険や不安を僅かにでも感じるならば今すぐバディを降りろと言い放っていたと思う。……だが、今となってはもうそんなことはできない。じいさんの予言どおり、お前は俺と在人にとっての勝利の女神だ。どんな神仏の加護を受けるより、お前が共に戦ってくれることが何より心強いし、力が湧いてくる」
背中に回された手に力がこもる。
「だから今ここで思いきり泣けよ。大声で泣いて、腹にたまったものを全部吐き出せ。お前を放してやれない代わりに、お前にかかるプレッシャーは、バディの俺が全部引き受けるから……」
そう囁かれた途端、嗚咽が勢いよく溢れ出た。
欧理の着た黒いTシャツの肩が涙でぐしょぐしょに濡れるけど、顔を動かせないくらいにきつく抱きしめられて。
胸をぎゅうっと圧迫されて、込み上げてくる感情は外に出さざるを得なくなる。
薄闇に暮れる松並木の下、胸の中が空っぽになるまで、私は欧理の腕の中で大声で泣き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます