28 美空と在人

「…………お姉ちゃん……?」


「美空? あなた、美空なのね……?」


「うん……。ここは鎮魂館レクイエムね。懐かしい……。お姉ちゃんが呼んでくれたの?」


「そうよ。在人さんが大変なの。お願い、美空。あなたの力を貸してほしい」


「在人……眠ってるの? 彼に何かあったの……?」


「美空。久しぶりだな」


「欧理君……。久しぶり。あなたにもずっと謝りたかった。私が勝手な行動をしたばかりに──」


「謝罪の言葉はいらない。今はただ常つ夜に引き込まれそうな在人の魂を現世こちらに戻す手伝いをしてほしい。阿祇波毘売との戦いがいよいよ迫っているんだ」


「在人がそんな状況に? それも御霊鬼たちの仕業なのね。……わかった。私にもまだあなた達のためにできることが残されているのなら、喜んで手伝うわ」


「在人を起こし、そこにある大神実命おおかむつみのみことを食べさせてくれ」


「在人……在人……美空よ。お願い、起きて……」


「ん……。美空…………?」


「在人……。ずっと伝えたかった。あなたを悲しませるようなことになって本当にごめんなさい」


「美空……っ! 御霊鬼に囚われているんじゃないのか!? 僕は君を助けるために境界へ行こうとして、君に渡された木の実を食べて──」


「落ち着いて。私はすでに常つ夜に住まう者となっている。御霊鬼に囚われてなんかいないわ」


「それは本当なのか?」


「私だって、陰陽寮職員としてあなた達と志を同じくしていたのだもの。死んでまで在人の負担になりたくない。あなたはまだ現世うつしよにいなくてはならない人なの。阿祇波毘売あげはひめを封印できるのは、あなた達をおいて他にはいないのだから」


「そうだ……。阿祇波毘売は僕たちで何としても封印しなくてはいけないんだ。それが弓削ゆげの陰陽師の宿命であり、君の仇を討つことにもなるのだから」


「さあ、この実を食べて、現世へと引き返して。あなた達の勝利を私も祈ってるわ」


「しかし……。僕がこの実を食べたら、もう二度と君に会えなくなるんだろう……?」


「私はすでに現世の命の果てた者。執着はとうに手放している。だからあなたにも私への執着は捨てて、私の分まで現世を精一杯生きてほしいの。在人が現世での命を全うしたその後で、私たちはきっとまた会える」


「執着は捨てろ、か……。確かに、これまでの三年間、僕は君を失った悲しみを抱え続け、阿祇波毘売への復讐だけを考えて生きてきた。君の復讐を果たしたその先も自分が生きていくことなんて、考えたこともなかったよ……。美空を守れなかったのに、このまま生き続けても僕は赦されるのだろうか」


「赦されざることをしたというのならば、欧理君や在人の提案を聞かずに一人で調査に向かった私の方よ。そのせいで、あなた達を深く傷つけ、後悔させ、復讐という名の怨みを抱かせた。御霊鬼達との戦いが終わったら、どうか私の作ったしがらみは全て水に流して、在人自身のために人生を歩んでほしい」


「わかったよ……。美空が常つ夜で僕の心配をしなくてもいいように、僕もちゃんと前を向いて生きていく。でも……しがらみは水に流しても、君と共に過ごした幸せな日々は忘れたくない。君が僕の傍にいてくれたこと、僕が君を愛していたことは、忘れなくてもいいだろうか」


「もちろん。私も在人と出会えて幸せだった。幸せな日々をありがとう。今日はあなたにそれを伝えられてよかった」


「僕こそありがとう……。僕も美空に会えて本当によかった」


「在人……愛してるわ」


「美空……愛してる……」


 ***


「真瑠璃ッ!!」


 どこまでも澄んだ水の中を揺蕩たゆたうように、浅い眠りから覚めることも、意識を手放し深い底へと沈んでいくこともできずにいた私は、欧理のハスキーボイスに突然水面へと引き上げられて、はっと目を開けた。


 そして────


「きゃああっ!?」


 在人さんの端正な顔が息のかかる近さまで接近していて、思わず飛び退いた!


「美空──」


 いつの間にか起き上がってベッドに腰掛けた姿勢でいる在人さんが、目を閉じたままその名を呼んでいる。


 もしかして私、また降霊中に抱き合ってたの!?


 暴発寸前の心臓を押さえつけようと、胸に手を当てつつ在人さんを窺っていると、彼がゆっくりと目を開けた。


「在人さん…………?」

「在人さん──」

「在人ッ!」


「あ…………。僕は────戻ってきたんだね?」


 安堵と寂しさの入り交じった彼の淡い微笑みを見た途端、私はへなへなと腰が抜け、その場に倒れ込んでしまった。


 ***


 どのくらい眠っていたんだろう。


 目を開けると私は自室のベッドに寝かされていて、在人さんと凛子さんが付き添ってくれていた。


「真瑠璃ちゃん、気分はどう?」


「在人さん……っ! 戻ってこられて本当に良かった……」


 数日ぶりに見る王子スマイルがあまりに尊くて、紅茶色の澄んだ瞳を取り戻せた安堵に目頭が熱くなる。

 こめかみに涙がつたうと、在人さんが指でそっと拭ってくれた。


「欧理から詳細を聞いたよ。僕が騙されてときじくのかくの実を食べてしまったばかりに、真瑠璃ちゃんにも大変な負担をかけてしまったんだね。女の子なのに体じゅうに傷を作って、さらには美空まで降霊させて……本当に、本当に申し訳ない」


 私を労りつつ、声を震わせる在人さん。

 私の手を握るその温もりを感じて、全てが報われたのだと実感することができた。


「私は大丈夫です。在人さんがこうして戻ってきてくれたんなら、この数日間の苦労も宇宙の彼方へ吹っ飛びます」


「降霊させるとかなりの体力を消耗するんですってね。今、真瑠璃ちゃんのために欧理君が厨房でリゾットを作ってるの。旅の疲れもあるでしょうから、それを食べて後はゆっくり休んでね」


 凛子さんの言葉で、全身を支配する倦怠感を再認識する。

 依代になった後は、まるで体が鉛になったみたいに重くなるんだよね。

 加えて大神実命探しでたまった疲労が一気に押し寄せているし、確かに今日はもう動けそうにないかも。


「あの、美空さんとはちゃんと会えましたか?」


「ええ。真瑠璃ちゃんの負担を考えて降霊はごく短い時間だったけれど、すごく不思議で神聖な体験だった。姿かたちは真瑠璃ちゃんのままなのに、表情や話し方は美空そのもので、私にはいつの間にか真瑠璃ちゃんが美空にしか見えなくなっていたのよ」


「僕の場合は、時じくの香の木の実を食べてから身動きが取れずに、深い海の底のような場所にずっと沈んでいたんだ。そんな中で僕の目の前に現れたのは、姿かたちも声も美空そのものだった」


 現世の人間とそれ以外の人間では、依代になった私の見え方が違うということかな。

 そう言えば、義仲の怨霊も、降霊中は私を巴御前本人だと思い込んでいたみたいだった。


「美空から手渡された果実を飲み込んだ瞬間から、彼女の姿は徐々に薄れていった。短い時間ではあったけれど、真瑠璃ちゃんのおかげで、僕は本物の美空に会うことができた。美空と大切な話ができたことを本当に感謝しているよ。どうもありがとう」


 何かが吹っ切れたように、穏やかに微笑む在人さん。

 美空さんとはどんな話をしたんだろう?

 そして、どんな思いで彼女を抱きしめたんだろう……。


 胸の痛みが起きる前に、目が覚めた時のことを思い出し、心臓が瞬間湯沸かし器になったかのように全身が熱くなった。


「目が覚めたか」


 のぼせた顔を隠そうと布団を引き上げた時、欧理の声が耳に届いた。

 前髪をヘアピンで留めたまま、湯気の立つお皿ののったトレイをサイドテーブルに置く。


「いい匂い……」

「チーズリゾットだ。これを食べて体力をつけろ」


 凛子さんが私の上体を抱き起こし、膝の上にトレイをのせてくれた。

 白いお皿の中のリゾットをスプーンでゆっくりとすくう。

 溶けたチーズが細い糸を引きつつまろやかな芳香を醸し出し、今さらながら空腹を自覚させた。


「うん……美味しい!」


「おかわりはあるから遠慮なく言えよ」

「食欲があるのは何よりだわ」

「真瑠璃ちゃんの幸せそうな笑顔を見ると、こっちまで元気になるよね」


 三人に見守られる中での食事は気恥ずかしかったけれど、それよりも食欲が勝った私はあっという間に全部を平らげた上、チーズリゾットのおかわりを二杯もリクエストしたのだった。

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