27 美空の依代

『当機は間もなく着陸体勢に入ります。テーブル及び座席を元の位置にお戻しの上、シートベルトを……』


 翌日の朝一番、一路羽田へ戻る手前で機内アナウンスが流れ、ぼんやりと窓の外の雲海を見ていた私は腰に巻いたままのシートベルトを確認した。


「欧理。もうすぐ着くって」

「う……ん」


 隣で爆睡する欧理にそう声をかけたけれど、疲れきった欧理は長いまつ毛を微かに震わせるだけで、目を開ける様子はない。


 何度も転びそうになる私の手を引いて、死霊・怨霊の気配に常に目を光らせて、私を肩車して、後鳥羽院の追撃を必死に躱して──


 二日間に渡る大神実命おおかむつみのみこと探しは本当に大変だったけれど、私よりも彼の方がずっと疲れただろうと思う。


 まあ、欧理もシートベルトを着けたままだし、飛行機が着陸するまでこのまま寝かせておけばいいか。


 凛子さんの話では、私たちが東出雲に行っている間も在人さんに変化はなく、ずっと眠り続けているらしい。

 私たちが苦労して取ってきた大神実命で、在人さんが無事現世うつしよへと戻ってきてくれますように──


 そう願いつつ、再び窓の外の雲海に視線を移した時だった。


 くんっ、という、糸で首元を引っ張られるような感覚。


 次いで、ほんの一瞬、水の中に潜ったかのように呼吸ができなくなった。


 気圧の変化のせい?

 周りを見渡してみても誰も異変を感じてはいなさそうだし、欧理も眠ったままだ。


 些細なことを不安に思うのは、後鳥羽院に追いかけられた恐怖と緊張がまだ抜け切っていないせいなのかもしれない。


 そう考え直し、深呼吸で息を整えた私は静かに目を閉じた。


 ***


「おかえりなさい! きゃっ、二人とも傷だらけじゃない! こちらでも改めて診察してもらった方がいいのかしら。後鳥羽院に襲われたって言ってたわね。その話は後で詳しく聞くとして、とにかく大事に至らず帰ってこれて何よりだし、大神実命が手に入って本当に良かったわ!」


 空港へ車で迎えに来てくれていた凛子さんが、到着ロビーで私たちを見た途端、切れ長の目を丸くしながら早口で一気にまくし立てた。


「色々と手配してくれてありがとうございました。おかげで何とか目的を達成できました」


「本当は現地でサポートできたら良かったんだけど、別件で手が離せなかったから……。さ、在人さんも待ってるし、とにかく急ぎましょう」


 私を労り、スーツケースを代わりに引っ張りながら凛子さんが先導してくれた。


「在人の様子は?」

「空港へ向かう前にも鎮魂館レクイエムに立ち寄ってみたけど、変わった様子はなかったわ。ただ、呼吸のペースが三日前より緩やかになってる気がするのよね」

「在人の潜在意識が常つ夜に引き込まれ始めているのかもしれないな。俺がいない間に護符の力も少しずつ弱まってきてるだろうし……」


 車中で交わされる欧理と凛子さんの会話を聞きながら、ハンドバッグを開けて中を確かめた。

 ハンカチにくるまれた大神実命は淡い黄金の光を失うことなくそこに入っている。


 在人さんに一刻も早くこの実を届けなくっちゃ。


 混雑する道路と頻発する信号待ちに焦りが募る中、ようやく鎮魂館レクイエムに着いた私たちは旅の荷物を放り投げ、真っ先に在人さんの部屋へと向かった。


「在人さん……」


 三日前とほとんど変わらない様子で横たわる在人さん。

 大きな変化がないことにはほっとするけれど、大神実命を食べさえすれば本当に目を開けてくれるのだろうかという不安も同時に湧いてくる。


「食べさせやすいように実を小さく切ってきた」


 カットされた大神実命をお皿にのせた欧理が戻ってきた。

 欧理が在人さんの体を抱き起こし、私がフォークで実を刺して、在人さんの口へと運ぶ。


「在人さん、お願い。どうか食べて……!」


 凛子さんが在人さんの顎を押し下げ、僅かに開いた口の中へ入れてみたけれど、在人さんの口が動くこともなければ、当然目を開けることもない。


「口の中に入れただけじゃだめみたい」

「もっと喉の奥へ押し込んだ方がいいのかな?」

「今の状態でそんなことをしても、気道に詰まらせて窒息するだけだ」


 深い眠りについている在人さんに大神実命を食べさせるのは、思っていたより難儀なことみたいだ。


「果汁を絞って口に入れてみたらどうでしょう?」

「飲み込むことができないのなら同じことだと思うわ。陰陽寮の提携病院に搬送する? 食道までチューブを入れて胃に送れば消化されるかも」

「いや、これは神の名を持つ果実だから、嚥下や消化活動の問題じゃないはずだ。在人が常つ夜と自らとの繋がりを断つという意志を持って食べないことには、果実の持つ力が発揮されないんじゃないか」

「じゃあ一体どうしたら……」


 議論の末に沈思する欧理を私と凛子さんで見つめる。

 やがて彼の漆黒の瞳が私の方に向けられた。


「真瑠璃。こないだの義仲の浄霊のとき、お前の体に巴御前の御霊みたまが降りてきただろう」

「う……ん。私自身はほとんど記憶にないけど」

「あの時は愛染明王あいぜんみょうおうの加護を受けて、愛し合う二人の魂を引き合せることができた。今回もその手を使ってみよう」

「その手って?」

「お前に美空みく依代よりしろになってもらう。そして、美空の御霊をここに呼び寄せるんだ」


 私の体に、美空さんの御霊がのりうつるってこと──?


「そんなに上手くいくのかな? 巴御前のことはまぐれなんじゃないの?」

「すでに常つ夜に顕在意識を引き込まれている在人と話せるのは、常つ夜の住人だけだ。他に方法が思いつかないなら、やってみるしかないだろう」


 そう言った欧理が、いつもの袱紗から式紙を一枚取り出した。

 筆ペンでさらさらと梵字を一文字書き、私に手渡す。


「これは愛染明王を象徴する種字しゅじだ。今から俺が唱える真言を真瑠璃も唱えてくれ」


 自分の体を美空さんに明け渡すっていうのはなんだか複雑な心境だ。

 でも、在人さんを助けるためにはそんなことも言っていられないか……。


 式紙を胸に抱き、欧理の真似をして私も真言を唱えた。


「オン マカラギャ バサラ ウシュニシャ バザラサトバ ジャクウン バン コク」


 口密くみつの力を高めるため、種字に口づける。


「次に、美空の依代よりしろとするためのしゅを真瑠璃にかける。本来ならば在人が彼女の名を呼ぶのが一番効果的なんだが……。凛子さん、あなたも美空の姉として彼女と強い絆で結ばれていた人だ。真瑠璃を美空だと思って、あなたが名を呼んでください」


「わかりました」


 欧理の言葉に頷いた凛子さんが私の正面に立った。

 凛子さんと見つめ合いながら、私も美空さんに心を寄せる。


 美空さんも、お姉さんの凛子さんや恋人の在人さんとずっと会いたかったはず。

 たとえほんの一時でも、美空さんが私の体を使って大切な人たちと話ができますように──


 やがて、瞳を潤ませた凛子さんが私に向かってゆっくりと呼びかけた。


「美空……。お姉ちゃんよ。あなたにずっとずっと会いたかった……」


 その名に反応した式紙が温かくなり、ぼうっと光る。


 澄んだ水底に両足からすうっと引き込まれるような感覚を最後に、私の意識は深い深いところへと落ちていった。



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