26 後鳥羽院の追撃
「真瑠璃……ッ!!」
斜面の上から滑るようにして欧理が駆け下りてきた。
「欧理っ!
「日没の
欧理の言葉で、彼が日没までに引き上げることにこだわっていた理由がようやくわかった。
「ナウマク サンマンダ バサラダン カン!」
欧理が素早く式紙を飛ばし、身動きの取れない私の足元に絡みつく草を切る。
「この御霊鬼、貴族みたいな真っ黒の束帯を着てるの!」
「となると、こいつはおそらく後鳥羽院。
「弓削の陰陽師よ。まろが地へよう参った。かの小賢しき占術師もおらぬ今、ここを生きて出られると思うなよ」
不気味な笑みをたたえたままの後鳥羽院が纏う黒い霊気が濃度を増す。
これまでに見たこともない圧倒的な霊格を前に、恐ろしさを超越した威容に魅せられて動けなくなる。
「逃げるぞ!!」
折紙符を取り出した欧理が、私の手を引きながら後鳥羽院めがけてそれを飛ばした。
白い狼に姿を変えた折紙符が飛びかかるのを視界の端に捉えたけれど、「全力で走れっ!!」と叫ぶ欧理の声に弾かれて無我夢中で斜面を駆け上がった。
在人さんの
今はただ逃げるしかない。
息を切らせて走る欧理の形相から伝わる危機に、もつれる足を必死に動かした。
「かような術なぞ、時間稼ぎにもならぬよのう」
地鳴りのような声がすぐ背後から聞こえてきた瞬間、もつれた足を何かに引っ掛けた。
手を引いた欧理のおかげで転ばずに済んだけれど、片方の手に握ったままの
「あっ!! 実が!!」
「そうかっ! 実だ!! 真瑠璃っ、実を三個出せっ!」
走りながら、欧理がそう叫んだ。
言われるままにポケットから大神実命を三つ取り出して欧理に手渡す。
「護符を握って歯を食いしばれ!」
立ち止まり、後ろを振り返った欧理が手早く
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女」
「小癪な!」
追いついた後鳥羽院が欧理の首元に手を伸ばす。
「首を狙われてるっ!」
腰を屈め
後鳥羽院を囲む地面が歪み、ずぶずぶとその足を飲み込み始める。
「うぬうっ!!」
歯を食いしばって片足を引き上げる後鳥羽院から笑みが消えた。
護符を握りしめた私の前に盾となって立ちはだかる欧理。
既に両足を泥沼から引き上げた後鳥羽院が、
「ふんっ!!」と大きな片手で木々を薙ぎ払った。
「きゃあっ!!」
折れた木々が矢のように私たちへ向かって飛んでくる。
結界に守られるものの、無数の枝矢を跳ね返すうちに、ぴしぴしとひび割れる音が聞こえ始める。
あのまま逃げ続けても追いつかれるだけだったのはわかる。
けれど、この状況で立ち向かったところで欧理に何か策はあるの──!?
仁王立ちで踏みとどまる欧理が、そんな危機的状況の中、握りしめた大神実命に向かって話しかけた。
「
欧理がその実の一つ一つにそっと口づけると、三つの果実の黄金の輝きが一層強くなる。
「何をせんとも無駄よ!」
後鳥羽院が再び薙いだ枝がとうとう結界を破ったその瞬間、欧理は輝く三つの大神実命を後鳥羽院の立つ方向に投げつけた。
後鳥羽院に当たった実が強烈な閃光を放つ。
「ぐあああっ!!」
その光によって霊気を霧散させられ、声を上げて苦しみもがく後鳥羽院。
「今のうちだ!!」
欧理の言葉に再び弾かれて走り出す。
追撃の枝矢が体を掠める中、何とか古道に躍り出た。
坂の入口にある石の注連縄門に向かって無我夢中で走る。
「おのれ待てい!!」
凄まじい霊気を背中すれすれに感じる。
触れられたら最後、きっと呑まれてしまう。
「きゃああぁぁ!!」
背中に何かが掠った瞬間、欧理の手が力いっぱい私を引き寄せ、倒れ込むように注連縄門を
苦しい──────
息の仕方を忘れたかのようにぜいぜいと喘ぎながら振り返ると、注連縄門の向こうで後鳥羽院がどす黒い血の色をした瞳でこちらを睨みつけていた。
「あな口惜しや。あと一息で命を奪えたものを。この無念、近き
怨みの言葉を残し、後鳥羽院はその輪郭を黒い濃霧に変えたかと思うと、夜闇に沈みゆく森に吸い込まれるように引き下がっていった。
私も欧理もその場にへたり込んだまま、息を切らしつつその姿を見送った。
***
「危なかったな……」
その一言がようやく声に出せるまでに息を整えた欧理が私の方へと向き直った。
「お前、傷だらけだな。立てるか? 近くの病院で手当してもらえるよう、凛子さんに手配を頼もう」
そう言う欧理も、レインパーカーの至る所が切り裂かれ、そこから覗く腕や脇腹は泥や血に
自分の体を見回すと、欧理ほどではないにせよ、泥だらけの服は破け、かすり傷から血が滲んでいる。
それを認めた途端に、傷がじんじんと熱を持って痛み始めた。
在人さんの式占がなければ、そしてきちんと戦術を立てて挑まなければ、欧理の呪術をもってしても御霊鬼の前では逃げるだけで精一杯だった。
難を逃れた今になってようやく御霊鬼の恐ろしさを実感し、震えが止まらなくなる。
「ごめんなさい……。私が欲を出して果実を沢山採ったばかりに、御霊鬼に襲われてしまって──」
「大神実命を前に欲が出たのは俺も同じだ。しかし、隠岐島と近いとは言え、後鳥羽院自らがここまで出張ってくるとは予想していなかった。封印の力がいよいよ弱まりつつあるようだな」
立ち上がり、背負ったリュックからタオルを二枚出すと、欧理がそのうちの一枚を放るように私の頭に被せた。
いつの間にかフードも頭から外れ、汗と雨とで髪がじっとりと濡れていた。
タオルの柔らかな肌触りが、動悸のやまない胸にもいくらか人心地をつけてくれる。
顔や首、髪を拭いながら、欧理は言葉を続けた。
「後鳥羽院は、御霊鬼としての力を最大限に引き出せる
その言葉に慌ててポケットの中を探ると、大神実命の最後の一つはちゃんとそこに入っていた。
安堵の溜息をつきつつ、ポケットからその実を取り出して見つめる。
「この果実に、御霊鬼に対抗する力があったなんて……」
「古事記や日本書紀によると、黄泉の国へと妻の
「ああ、それでさっきはピンチの真っ只中に古臭い言葉を唱えてたんだね」
「国生みの神の言霊を古臭いなんて言ったら罰が当たるぞ。さあ行こう。その最後の一個は何としても在人のために持ち帰らなきゃな」
「うん!」
欧理に手を貸してもらって、なんとか立ち上がる。
明日には
安堵と希望をようやく手にした私たちは、いつの間にか小雨の降りやんだ暗い小道を駅に向かって歩き出した。
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