25 雨の夜見路越え

 ううっ、筋肉痛で動けない……っ!


 明くる日の朝、軋みまくる体をなんとか起こしてベッドから下りると、欧理はすでに起きていて、首から下げたタオルを濡れた顔に当てながらパウダールームから出てくるところだった。

 黒い前髪が水を含み、重そうにつんつんと尖っている。


 お風呂上がりの在人さんは大人の色香が漂ってきてドキドキしたのに、猫目で童顔の欧理のその姿は雨に濡れた黒猫を彷彿とさせ、思わずタオルでごしごしと拭いてあげたくなる。


 けれど、彼は人に懐かない野良猫だ。

 手を出した瞬間にひっかかれそうだから、私は「おはよう」とだけ言って、入れ替わりで洗面台を使おうとゆるゆると歩き出した。


 ぎこちない私の動き方を目で追う欧理が憐れむようにため息をつく。


「やっぱり筋肉痛になったのか。日頃の運動不足がたたったな」


「普段慣れない歩き方をしてたんだからしょうがないでしょ! ねえ、薬師如来の護符で痛みが取れたりしないかな?」


「今から身につけても、さすがに瞬時には回復しない。湿布程度にはじわじわ効いてくるだろうけどな」


「湿布程度かあ……。まあでも何もしないよりはマシだからお願いしますっ」


 すでに日課となっている金剛地結地界護符への念呪と合わせて薬師如来の護符をもらい、護符入れへとしまう。


 天気予報では、今日の山陰地方は一日じゅう小雨が降り続くとのこと。


「傘なんか差せるような場所じゃないから、これを着ていけ」


 欧理がトランクから出したレインスーツを受け取った私は、それを広げて愕然とした。


 おじさんが着ていそうな、カーキというよりむしろ深緑の、無地の超だっさいデザインだ。


「上下で用意してくれたのはありがたいけど、どうせならもうちょっと可愛いのがよかったなぁ。 山ガール的な、チロリアンテープのついたやつとかさ」


「買いに行く暇がなかったんだから、じいさんのお下がりで我慢しろよ。スウェット上下にノーメイクで商店街にコロッケ買いに行けるお前なら、今さら恥ずかしくもないだろ」


「ぐ……っ」


 そうでした。

 鎮魂館レクイエムを初めて訪れた時、やさぐれていた私は二人の王子を前にして、乙女としてあるまじき格好をしていたんだった。


 開き直って深緑のレインスーツを身につけると、小雨の降りしきる中、今日もまた黄泉比良坂よもつひらさかでの大神実命おおかむつみのみこと探しへと向かった。


 ***


 昨日と同じ道を進み、さらにその先へも足を踏み入れる。

 かつて夜見路よみじ越えと呼ばれた峠のルートを辿ってみたものの、レインスーツが泥に塗れるばかりで、それらしき果樹は見当たらない。


「今日はここまでか……。そろそろ引き返さないと」


 雨に濡れた軍手越しに手をつなぎ、坂の入口まで戻りかけた時だった。


 一体の式鬼が現れて、はしゃいだ様子で欧理のレインパーカーの裾を引っ張る。


「もしかして、大神実命が見つかったの!?」


 式鬼の指さす方を見ると、古道の脇にある小さな池の向こうに広がる茂みの奥で見つけたらしい。


「欧理、行こう! 今日ゲットできたら、明日の朝一番で帰れるんじゃない!?」


 欧理の手を引いて先へ進もうとすると、逆に手をぐっと引かれた。


「待て。どのくらい奥に入れば見つかるのかわからないぞ。下手に手間取ったら日没に間に合わなくなる。今日のところは諦めて明日また来よう」


「でもっ、明日もしその実がなくなってたらどうするの!? 二日かけてやっと見つかったのに、また一から探すとなるといつ鎮魂館へ戻れるかわからないじゃない! 在人さんには一刻も早く目を覚ましてもらわないといけないのに……!」


 迷いで揺れる欧理の瞳をじっと見つめ続けていると、私の手を引く力が弱まった。


「日没になりそうだったら、たとえ実が目前に見えていても引き返すからな」

「うん、わかってる!」


 早く早く、と手招きする式鬼に続き、私たちは茂みを分け行って進んだ。


 顔に刺さりそうな枝葉をかき分け、足元を草と泥に取られながら、奥へ奥へと進んでいく。

 すると湿気と混じりあって澱んだ霊気の中に、甘く芳しい清涼な香りが微かに感じられてきた。


「この先にありそうだな」

「そうだね」


 視界を遮っていた茂みを抜けたところに、金色に光る霊気を纏う一本の古木が立っていた。


 雨を滴らせた葉の間に、金色に輝く小ぶりの桃のような果実がいくつも顔をのぞかせている。


「これが、大神実命おおかむつみのみこと……」

「俺の目にも見えるということは、現世うつしよの際に自生してる果樹なんだな」


 実を採ろうと手を伸ばしてみたけれど、欧理が背伸びをしてもあともう少しのところで届かない。


「在人さんならきっと余裕で手が届くのにぃ……」

「身長のことを言うなっ」


 私を睨みつけた欧理が不意に腰を屈めたかと思うと、私の足元がぐらっと揺れた。


「えっ!? ちょっ!?」

「肩車するから、お前が実を採れ」

「やだやだやだ! 怖い怖い怖い!!」

「少しくらい我慢しろ。俺だって重いの我慢してんだからなっ!」

「その一言は余計だっつーのっ!」


 二十年ぶりくらいの肩車は思いのほか視界が高くて不安定で、加えて足場の悪さ(と私の体重のせい!?)で欧理の足元もおぼつかないから、手を伸ばして木の実を採るのに手間取ってしまう。

 それでもなんとか一個をもぎとり、パーカーのポケットへと突っ込んだ。


「採れたか? 下ろすぞ!」

「ちょっと待って! もう少し右に動いて!」

「はあっ!? 一個採れたんならもういいだろ?」

「落として失くしたり、傷んだりしたら困るでしょ! スペアのスペアも入れて、念のために五個くらいは持って帰ろうよ」


 ふらふらしながらもなんとか五個をゲットして、ようやく地に足を着けた。


「日没になる! 急いでここを出るぞ!」


 焦る欧理が私の手を引っ張った拍子に、ポケットに入れた一個が地面に落ちて転がった。


「あっ! 待って!」

「真瑠璃っ! 諦めろ!」


 制止する欧理の手を離し、斜面を転がった木の実を追いかけてようやく拾い上げ、欧理の元へ戻ろうとしたときだった。


「ようその実を見つけしものよ。日の入り間際まで敢えて此方こなたに隠しけるをのう……」


 地鳴りのような声が背後から聞こえ、私の足に草が絡みついた。

 背中を何百匹もの百足むかでが這うような悪寒に襲われて振り返る。


「だ、誰……っ!?」


「あなこころぐるしや。諦めて帰らば、弓削の血が途絶えることもなかりしを……」


 そこには、人間よりも二回りほど大きく、墨よりも深い黒の束帯を纏い、どす黒い血の色の瞳をした “御霊鬼ごりょうき” が、雅で不気味な笑みを浮かべて私を見据えていた。

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