23 大神実命(おおかむつみのみこと)

 翌朝、欧理と一緒に在人さんの様子を確認したけれど、昨晩と変わったところはなかった。


 ゆっくりと、静かに深い呼吸を繰り返す在人さん。

 紅茶色の瞳で、低くやわらかな声で、いつものように穏やかに微笑みかけてほしいのに、何度呼びかけてみても僅かな反応すらないことに不安が募る。


 欧理は在人さんの胸に置いた護符と私の護符入れの金剛地結地界護符に念呪を込め直すと、「まずは朝食をとろう」と私をホールへと促した。


「あまり食欲はないだろうが、食わなきゃ倒れるぞ」


 そう言って彼が用意してくれたのは、具沢山のミネストローネ。

 喉を通りやすいように野菜は細かく切られ、リボンみたいな形のファルファッレと一緒に柔らかく煮込まれている。


「美味しい……」


 欧理の言う通り、お腹が空いた感覚はまるでなくて、ひと口目は半ば無理やりスプーンを口に入れたのに、喉に通る優しい味わいと温かさに、胸を塞いでいた不安がじんわりと溶かされていくような気がした。


「食べ終えたら、在人の部屋にある資料からときじくのかくに関する文献を探してみよう。手がかりがきっとあるはずだ」


「うん」


 スープでお腹を満たすと、欧理は袱紗から一枚の式札しきふだを取り出した。


「皿を片付けてくれ。急急如律令」


 式札にそう話しかけて床に放ると、ポンッという軽い音が弾けて式鬼しきが現れた。


 生成りのシンプルな水干すいかんを身につけた式鬼が、小さな牙をのぞかせてニコニコと私に微笑みかける。


「ありがとう。よろしくね」


 私が微笑み返すと式鬼はこくんと頷いて、トコトコとお皿を厨房へ運んで行く。

 その仕草の微笑ましさに、ミネストローネに押しやられていたお腹の底のモヤモヤがさらに小さくなったように感じた。


 ***


 おじいさんが生前仕事場にしていたという在人さんの部屋の奥は書庫になっていて、いくつもの書棚にびっしりと資料が並んでいた。


「これを片っ端から読んでいたら何日かかるかわからないね……」


「まずは時じくの香の木の実のことが載っていそうな資料に俺が目星をつける。真瑠璃は手渡した資料に該当する記述がないか探してくれ」


「わかった」


 欧理は書棚の一番上の一番端から一冊ずつ資料を取り、ぱらぱらとページをめくっては棚に戻し、数冊に一冊を私に手渡してくる。

 活字だけでなく手書きのものもあるし、昔の言葉で書かれてあるものも多くて内容を把握できるものは少ないのだけれど、とにかく “時じくの香の木の実” というキーワードを懸命に探した。


「それにしても在人はすごいよな。ここにある資料を全て読破したんだから」


 資料をめくりながら、欧理がぽつりと呟いた。


「へえ……。じゃあ、もしも木の実を食べちゃったのが欧理だったら、在人さんはすぐに対処法がわかって解決できたのかな」


「かもな……ってゆーか、そもそも俺は木の実なんか食わないけどな。在人みたいな弱点はないし」


 在人さんの弱点────

 それはやっぱり、恋人を突然失った悲しみ。そして、最愛のひとを自分が守れなかったという深い深い後悔なんだろう。

 ここにある資料を読破してしまうくらい知識を持った在人さんが、時じくの香の木の実を迷いなく食べてしまうなんて、きっとずっと美空さんのことが忘れられなかったんだろうな……。


 隣で書架に手を伸ばす欧理をちらと見る。


「そう言えば、欧理には彼女とかいないの?」


「いない」


「在人さんと美空さんを巡ってバトったりはしなかったの?」


「ドラマの見すぎかよ。そんなことするわけないだろ。そもそも美空は俺の好みのタイプじゃなかったし」


「へえ……。じゃあ、欧理の好みってどんなタイプなのよ?」


 手元の資料に落としていた視線がこちらに向けられ、漆黒の瞳が冷たく尖る。


「……そんなのどうだっていいだろ。無駄口ばっか叩いてないで、ちゃんと資料を探せ!」


「あっ、はい……」


 はっと我に返り、慌てて資料に視線を戻した。


 私、なんでそんな突っ込んだことまで聞いちゃったんだろ?

 欧理の好みのタイプなんて、私には関係ないはずなのに……。


 今はとにかく、時じくの香の木の実についての手がかりを見つけ、一刻も早く在人さんの意識を取り戻さないと!


 気持ちを切り替え、目を皿のようにして欧理から次々に渡される資料を読みふけった。


 ***


 何十冊目の資料に目を通した時だろうか。


 あまりに文字ばかりを見つめすぎていたせいで見過ごしてしまいそうになったけれど、文字の羅列の中に埋もれるをようやく見つけることができた。


「あった……! あったよ、欧理っ! ここに “ときじくのかくのこのみ” って平仮名で書いてある!!」


「本当か!?」


 山と積まれた本に囲まれるように座り込んでいた欧理が慌てて立ち上がり、私の指差す先を覗き込む。


「……この文献によると、常つ夜に人を導く “ときじくのかくのこのみ” は、現世に人を引き戻す “おおかむつみのみこと” と対をなす、と書いてあるな」


「おおかむつみのみこと……これまた舌を噛みそうな名前だね」


大神実命おおかむつみのみことというのは、日本神話に出てくる伝説の木の実だ。この実には、現世と常つ夜を繋ぐ比良坂ひらさかにて二つの世界を隔てる役目がある。つまり、“おおかむつみのみこと” を在人に食べさせることができれば、在人の魂を現世に引き戻せるはずだ」


「じゃあ、その実さえ手に入れられれば在人さんは助かるのね!」


 ここに来て一気に光明が差した気持ちがして、蓄積された疲れや眠気があっという間に霧散する。


「もう一度片っ端から、大神実命について書かれている資料を探すんだ!」


「了解!」


 日が暮れて部屋の明かりを点ける時刻になるまでに、私たちは “大神実命おおかむつみのみこと” に関する記述を数冊の資料の中から見つけることができた。


 欧理とそれらを読み合わせている時に、陰陽寮での仕事を終えた凛子さんが鎮魂館へ転がり込んできた。


「在人さんが意識不明になったってどういうこと!?」


 珍しく気が動転している凛子さんを宥めるために、私たちはホールに下りて式鬼に飲み物を用意してもらい、これまでの経緯を説明した。


 解決策が見つかったというところまで聞いて安心したのか、ようやく紅茶を口に運んだ凛子さんが欧理に尋ねる。


「それで、その “大神実命” というのはどこに行けば手に入るのかしら?」


「資料を統合すると、大神実命は現世と常つ夜の境界に自生している果実らしい。そうなると、やはり熊野古道か黄泉比良坂よもつひらさかを探すのが良さそうだが……」


「熊野古道って、阿祇波毘売が封印されている場所なんじゃ──」


「そうだ。熊野古道を探すのは飛んで火に入る夏の虫になる危険が高い。そうなると、俺たちが向かうべきは必然的に東出雲になるな」


「同行したいのはやまやまだけれど、私は他の担当陰陽師の浄霊サポートがあってここ数日は動けないの。関係各所への手配はこちらでやっておくから、現地での活動はお二人にお願いします」


 凛子さんに改まって頭を下げられ、私も欧理もそれに応える形で一礼した。


 やるべきことが明確になったのと、在人さんが助かる道筋が見えてきたのとで、空腹感が急激に襲ってくる。

 それは欧理も同じだったみたいで、凛子さんも誘って三人で夕食を取った後、彼女は自宅へと帰って行った。


 深く眠ったままの在人さんの様子を確認し、欧理と一緒に書棚から出した大量の資料を元へ戻す。


 その作業をしながら、欧理が不意に口を開いた。


「美空は真面目な性格だったし仲間として信頼していたが、打たれ弱くてよく泣く奴だった」


「へえ……。美空さんて、そんなひとだったんだね」


 昨晩見かけた美空さんの姿を思い出しつつ相槌を打つ。

 あれは瞳の真っ赤な偽物だったけれど、生前の美空さんはきっとフェミニンで可愛らしい感じの人だったと推測できる。

 内面もきっと控えめで大人しい性格だったんだろう。


「俺は美空にきつい言い方をしてよく泣かせていたから、在人にはその度に窘められていた。『彼女を思いやるが故のアドバイスなんだから、それがちゃんと伝わるように言い方を考えろ』って」


「あははっ。在人さんのアドバイス、的確すぎ!」


「けどそう言われたって、この性格はなかなか治せるもんじゃない。だから俺としては、気が強いくらいの女の方が気楽に付き合いやすい」


「まあ、欧理ならそうかもねー」


「俺が多少きついこと言ってもへこたれずに向かってくるような、そのくらい鼻っ柱の強い奴の方が俺には合ってると思う」


「へえぇ……」


 それって、もしかして────

 欧理の好きな女の子のタイプってこと?


 ふと片付けの手を止めて欧理を見ると、ばっちり視線がぶつかった。


 こんな話をした後に目が合うと、妙にドキマギしてしまう。

 この雰囲気を紛らわすために、ここは何かしらのコメントを返すべきなのかな。


「鼻っ柱の強い女の子がいいなんて、欧理は変わった趣味してるんだね!」


「ばっ……馬鹿野郎ッ! お前がそれを言うなっ!!」


 私の述べた率直な感想が気に入らなかったのか、頭に血が上ったみたいに真っ赤になった欧理がぷいっと横を向く。


「私が言うなってどういう意味よ!? 言っとくけど、私の趣味はいたってノーマルですからねっ」


 そう言い返すと、「そういうことじゃねえっ」と一喝された。


「もう、自分から話を蒸し返したくせに、急に怒り出すなんて、ほんと意味がわかんないっ!」


 この日も欧理の部屋で一緒に寝たにもかかわらず、なんとなく気まずくなった私たちは、結局お互い一言も口をきかないまま眠りについたのだった。



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