第3章 時じくの香の木の実

22 阿祇波毘売の罠

「在人さんっ!!」


 ノックをするのも忘れてドアをバンッと開け中へと踏み込むと、ベッドに腰掛けていた在人さんが涙に濡れた顔を上げた。


「真瑠璃ちゃん……。今……美空が…………」


 さっきの霊はやっぱり美空さんだったんだ。

 再会の喜びで感涙にむせぶ在人さんの様子に、背中を這う悪寒が一層強くなる。


 美空さんは、怨霊と同じ真っ赤な瞳をしていた──


「在人さんにも見えたんですか? 美空さんの霊が」


 不視の呪縛をかけられた在人さんや欧理には、常つ夜の住人、つまり亡くなった人の姿は見えないはず。

 どうして美空さんの霊だけが見えたんだろう?


「美空が僕に助けを求めに来たんだ……。美空は御霊鬼に囚われたまま、常つ夜に入れずに境界を彷徨っている。僕に助けに来て欲しいって……」


 そう話す在人さんの右手に、オレンジ色の小さな果実が握られていることに気がついた。

 赤に近い、禍々しいほどに鮮やかな色。


「もしかして、その果実は美空さんが……?」


「どうした? 何かあったのか?」


 異変に気づいた欧理が在人さんの部屋に入ってきた。


「欧理っ! 美空さんの霊が鎮魂館ここにいたの! 在人さんにも見えて、助けを求めに来たって──」


 混乱する頭で状況を説明しようとするけれど、言葉が途切れ途切れになってしまう。

 それでも欧理は何かを察したらしく、漆黒の眼差しを鋭く尖らせた。


「呪縛が解けていないのに、美空の霊が見えるなんてことは有り得ない。これはきっと御霊鬼の仕掛けた罠だ。在人、騙されるなっ!」


 欧理の言葉は耳に届かない様子で、在人さんは右手に握った果実を見つめた。


「これを食べれば、美空を助けに行けるんだ……。今度こそ美空を助けなくちゃ──」


「あっ!!」


 在人さんの手の中の果実を欧理が認めたのと、その果実を在人さんが口に運んだのとはほぼ同時だった。


「駄目だっ!! それは────っ」


 欧理の叫びと共に、柑橘系の香りが弾けるように広がった。


「在人さんっ!?」

「在人っ!!」


 腰掛けていたベッドに在人さんがそのまま倒れ込む。

 彼の手から齧りかけの果実が落ちて、床にころんと転がった。


「在人さんっ!! 目を覚ましてっ!」

「真瑠璃、在人の肩を支えてくれ! を吐き出させる!」


 在人さんの体を急いで抱き起こした欧理の指示で、在人さんの両肩を支えた。

 欧理が背中を叩いたりさすったりするけれど、ぐったりとした在人さんの口から果実の欠片が出てくることはない。


 欧理と二人、しばらく在人さんの背中をさすっていたけれど、焦り以上に疑問や不安が胸を圧迫し始めて、私は必死の形相の欧理に尋ねた。


「ねえ……っ! 一体何が起こったの? 在人さんは何を食べたの?」


 私の問いに、欧理が我に返った。

「とりあえず在人を寝かせよう」と、ぐったりしたままの在人さんの体を横たえると、ベッドから降りて床に落ちた果実を拾い上げた。


「恐らくこれは “ときじくのかくの実” だ」

「ときじくの、かくのこのみ?」

「常つ夜に自生する果樹の実だ。現世うつしよの人間がこれを食べると……常つ夜に連れて行かれる」

「それって──」


 在人さんが死んじゃうってこと!?


 言葉に詰まった私の表情を見て、欧理は首を緩く振った。


「いや……。在人は潜在意識を常に神仏と繋げているから、すぐに常つ夜に引き込まれることはないだろう。ただ、早く手立てを打たないと、潜在意識がいつ切り離されるかわからない」


「どうして……どうしてこんなことに……」


「おそらくは阿祇波毘売の罠だ。依代を美空に似せて在人に近づけた。本物の美空の霊じゃないから、在人にも見えたんだろう。ご丁寧に、この実にはちゃんと可視のしゅがかかっているしな」


「そんな……っ」


「今日の臨時総会で、全国に散らばっている陰陽師の気が一箇所に集中した。御霊鬼たちは陰陽師集団が本格的に動き出したことを察知して、押さえ込みを始めたんだ」


 そう言って歯噛みした欧理が、手にした果実をゴミ箱に投げ入れた。


「明日から当分カフェは休みだ。在人ならば不動明王の護符を付しておけばすぐにどうかなることはない。時じくの香の木の実の対処法は明日調べることにするから、お前も今日のところは休め」


「在人さんがこんな状態でいるのに休めるわけないじゃない! 今からでも何か調べられるなら、私も手伝う!」


「在人を助けるのと動き出した御霊鬼に対抗するのとで、しばらくは精神的にも体力的にもハードになる。お前に倒れられたら、阿祇波毘売と戦うどころか、在人だって元に戻せなくなるんだ」


 そう言われてしまうと、これ以上の無理は言えなくなる。

 今は在人さんの精神力と欧理の言葉を信じるしかないんだ。


「わかった……。明日から私も頑張るから、欧理もちゃんと休んでね」


 在人さんに護符を付し、体に布団を掛けてから、二人で部屋を出た。


「じゃ、おやすみ」


 欧理に背中を向けた時、手首を掴まれた。


「欧理……?」


「俺の部屋に来い」


「へ……っ?」


「俺と在人の傍にいる以上、次に狙われるのはお前かもしれない。一人になるのは危険だ」


「え? ちょ……っ、ええーっ!?」


 今から欧理の部屋に来いって、一人になるのは危険だって、それって欧理の部屋で一緒に寝ようってことだよね!?


 そんなの無理!!


 ……って突っぱねたいのに、細かく揺れる漆黒オニキスの瞳は彼の内に湧き上がる様々な不安や恐れを必死に押さえ込んでいるようで、何も言えなくなってしまった。


「俺はソファで寝るから、ベッドを使え」

「うん……」


 明かりを消した欧理は、黒い布張りのソファの上で窮屈そうに背中を丸めて押し黙った。


 仰向けになると緊張と不安に胸が押しつぶされそうで、フェザーケットを肩まで引き上げ、壁に向かい合うように横になった。


 鮮血の瞳の美空さん。

 泣いていた在人さん。

 深く眠っているように動かない在人さん。

 床に転がった時じくの香の木の実。

 漆黒の瞳を揺らす欧理。

 初めて使う、欧理のベッドの香りや感触。


 それらが次々と現れては沈みかける私の意識を吊り上げるせいで、結局ほとんど眠れないまま、明け方の小鳥のさえずりを聞くことになった。

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