16 首相夫人の祓い
「護符に念呪を込めるから貸して」
「オン キリキリ バサラ バサリ ブリツ マンダマンダ ウンバッタ」
私の渡した護符に彼がそっと口づけるのをドキドキしながら見つめる。
今日で五日目となる金剛地結地界の念呪だけれど、やっぱりこれは心臓に悪い。
「ねえ、毎日朝ごはんの前に念呪してもらってるけど、夜のうちに欧理に渡しておいて朝受け取るってわけにはいかないの?」
「は? 念呪なんてすぐに終わるんだから、その場で済ませればいいだろう。なんでそんなめんどくさいことをしなきゃいけないんだ」
そう切り返されたけれど、言えるわけないじゃない。
いつも身につけてるものに目の前で口づけられると、自分にキスされてるみたいでドキドキしちゃうから、なんて──
「それに真瑠璃を守るための護符なんだから、肌身につけている時間が長ければ長いほど効果が高まるんだ」
「そ、そっか。じゃあ今のやり方でいいや」
焦る私を見て訝しげに首を傾げつつ、欧理は焼けたトーストを取りに厨房へと入っていった。
射るような眼差しからようやく解放されて、どっと冷や汗が出る。
私の心臓を高鳴らせるのは在人さんだけだったはずなのに、毎朝欧理が口づけて念呪を込めるこの護符を受け取ってからというもの、どうにも調子が狂ってるのだ。
毎晩遅くまで
今日はいよいよ首相夫人の祓いをするんだから、気を引き締めていかないとね!
「真瑠璃ちゃん、コーヒーと欧理のオレンジジュースをテーブルに運んでくれる?」
「はーい」
深くやわらかな芳香を漂わせるカウンターから声をかけられ、私は返事をして在人さんに駆け寄った。
***
メディアでは、ここ数日の間に安野恵子首相夫人の問題行動が盛んに報じられ始めていた。
宮中晩餐会を途中退席したり、夫の派閥に属する重鎮に対して批判的なコメントをブログに書き込んだり、首相夫人としてあるまじき言動を連発しているようだ。
安野首相からの直々の要請もあって、陰陽寮としては一刻も早く浄霊をしたいと弓削家に催促が来たものの、在人さんの
「恵子夫人は琵琶湖から京都にかけて旅行した時に憑かれたようだけれど、あの地域一帯には昔から数えきれないほどの怨霊がはびこっていて、正体が特定できないんだ。ただ言えることは、賀茂氏の護符をものともしないほどの霊気の持ち主であるということと、今回の吉方は北、凶方は南西、十二天将は
「後は実際に首相夫人に憑いた怨霊を見て、正体を特定するしかないな。真瑠璃、御霊鬼と日本史の資料は読破できたか?」
「うん。それは何とか読み終わったけど、御霊鬼になりそうな歴史上の人物を網羅するのはさすがにこの数日では無理だった。ごめん」
「真瑠璃ちゃんが謝ることはないよ。怨霊の視覚情報を僕たちに与えてくれればこちらで判断できるかもしれないし、自分一人で抱え込む必要はないんだからね」
私たち三人の話を黙って聞いていた凛子さんがスケジュール帳を前に差し出した。
「急がせて申し訳ないけれど、来週の後半からアメリカ大統領夫妻が来日するのよ。ファーストレディ外交を担う恵子夫人に失態があっては深刻な外交問題に発展しかねないし、御霊鬼絡みであれば寧ろそれを狙っている可能性が高いわ。祓いの後、恵子夫人に数日間の療養が必要になると考えると、一刻の猶予も許されないの。今日は社会福祉法人関係者との意見交換会という名目で夫人との面会をセッティングしてあるから、よろしくお願いします」
いつもの調子で凛子さんが話をまとめ、彼女の運転する公用車で指定された高級ホテルへと向かった。
***
「では、室内へは僕たちだけで入りますので、ここで待機していてください。浄霊後、夫人は体力を消耗し歩行困難になると思うので、ストレッチャーの用意をお願いします」
「了解。ご霊運をお祈りします」
欧理の後ろに立つ私の背中を武者震いが駆け上がる。
緊張はしてるけど、不思議と恐怖は感じていない。
不動護身結界の護符もさっき身につけたし、相手がどんなに強くても、在人さんと欧理がきっと私を守ってくれる。
私は欧理の “眼” として、浄霊のサポートに集中するだけだ。
「じゃ、行くよ」
欧理と私が頷いたのを確認して、在人さんがコツコツとドアをノックした。
「失礼いたします」
一礼する在人さん、無言で入る欧理に続き、私も入室する。
光沢を放つ重厚なテーブルの両側に革張りの黒い椅子がずらりと並ぶ。その中央に座っていた女性が席を立った。
「初めまして」
ダークグリーンのスーツを上品に着こなすその女性は、連日報道を賑わせている恵子夫人に間違いない。
けれど、以前テレビで観た印象とは随分と異なり、目は落ち窪み、頬はこけ、生気のないように見えた。
そして、その背後に見えるのは────
「鎧兜を身につけた武将です。アラサーくらいの精悍なイケメンだけど、額に傷があって、そこから血を流してる」
欧理と在人さんに、小声で見た通りの印象を伝える。
「お会いできて光栄です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
意見交換会参加者を装い、在人さんが笑みを返す。
三人揃って部屋の中央に進みつつ、怨霊の特徴をさらに確かめた。
「瞳の色は真っ赤だわ」
野本印刷の社長に憑いていた怨霊には瞳がなく、充血した白目を見開いていた。
欧理に借りた資料によると、霊格の高い怨霊ほど瞳の色が濃くなり、御霊鬼クラスになるとどす黒い血の色になるんだとか。
ってことは、この怨霊は御霊鬼ではないということだ。
霊格は御霊鬼よりも下ってことだろうけど、武将だし見た目がめっちゃ強そう。
欧理から「甲冑の特徴は?」と尋ねられ、「だいぶズタボロだけど、大袖や
より的確に情報を伝えるために、昔の甲冑の部位別名称も勉強しておいたのが役に立った!
ドヤ顔で覗き込む私を完全スルーして、欧理は考えを巡らすように虚空を見つめる。
そして、彼が口にした名前は──
「
それを耳にして、怨霊がぎろりとこちらを睨みつけた。
「
「あなた達……一体何者なの!?」
義仲の怨霊と共鳴するように、恵子夫人が狼狽し始める。
「僕たちはあなたに憑いた悪霊を浄霊するために参りました陰陽師です。安全のため、夫人にはしばらくお休みいただきます」
そう言った在人さんが指先をパチンと鳴らすと、恵子夫人は催眠術にかかったみたいに力が抜けて動かなくなった。
「なぬ、陰陽師とな……。
鮮血の瞳でぎろりとこちらを見据えたまま、真っ赤な鎧を纏った義仲がゆっくりと太刀を抜いた。
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