08 阿祇波毘売との因縁
退院した社長は、電話越しで仕切りに私に謝った。
「桜さんを解雇するなんて、何かに憑かれていたとしか思えない。申し訳ない」
社長の声には張りが戻っていたし、もうすっかり回復したようで安心した。
若菜からも、業務上のトラブルはほとんど解決して、社内も元の和やかな空気に戻りつつあると聞いている。
そんなこんなで明日は会社へ出向いて、復職に向けての手続き諸々をすませる予定だ。
食い扶持の心配はなくなったのに、大俵町商店街の肉屋で売っている、一個四十八円のコロッケを買うために家を出た。
買い物帰りに、商店街の入口に立つ電柱の足元をじっと見つめる。
あの猫の死霊は、もうそこにはいない。
紙を操る欧理の鮮やかな手つき。
鋭く放たれる真言の力。
式盤を動かす在人さんの繊細な指先。
占いを読み解く真剣な眼差し。
炎を散らして怨霊に飛びかかる朱雀。
その全てを今も鮮明に思い出せるのに、夢の中の出来事のように、もう二度と触れることができないなんて──
「桜さん」
不意に呼ばれて振り向くと、そこには一台の軽自動車が停車していて、運転席から凛子さんが顔を出していた。
「今、あなたのアパートに向かおうと思っていたところなの。行き違いにならなくてよかったわ」
「凛子さん……」
助手席に乗るように促され、コロッケの入ったレジ袋を提げたまま車に乗り込んだ。
「誰かに聞かれては困る話だから、あなたのおうちにお邪魔してもいいかしら」
そう尋ねられたので「はい」と頷き、八畳一間の自室へと案内してお茶を出した。
「突然お邪魔してごめんなさいね」
「いえ。今日までは無職なんでヒマですし」
「そう……。明日から復職する予定なのね。社長さんも回復したようでよかったわ」
「いただきます」と凛子さんはお茶を一口すすると、話を切り出す合図みたいにコトリと湯呑みを置いた。
「こないだは本当にお疲れ様でした。浄霊の現場を見るのも初めてだったのに、いきなり手伝うことになったから大変だったでしょう」
「いえ……」
「桜さんの体調は大丈夫? 夢見が悪くなったり、フラッシュバックに悩まされたりしていないかしら」
「それは大丈夫ですけど……。あの、凛子さんは私に話があるんですよね? どういった用件なんですか?」
なかなか本題に移らない凛子さんに私からそう突っ込むと、彼女の肩がぴくんと跳ねた。
「今日はね、在人さんと欧理君には内緒で来たの。欧理君があなたをバディにしなかった、その本当の理由を伝えたくて」
「本当の理由……?」
一旦はバディとして受け入れてくれそうだったのに、私がとある言葉を口にした途端、欧理は私を拒んだ。
「それって、“アゲハヒメ” が関係しているんですか?」
「そう。
凛子さんは “阿祇波毘売”、 “御霊鬼” といった、聞きなれない言葉について説明してくれた。
人や動物が死後に向かうのは死者の国である “
“御霊鬼” と呼ばれているのは、元は怨霊であったものの、その霊力があまりに強大だったがために境界を牛耳り、現世や常つ夜を我がものにせんと傍若無人に振る舞う存在らしい。
怨みの大きさに加え、その人物が生来持ち合わせていた霊格の高さも、御霊鬼となるのに必要な条件だということがわかっている。
有名どころでは、日本の三大怨霊と言われる菅原道真や平将門、崇徳院のほか、後鳥羽上皇や天草四郎も永きに渡り境界をさまよう間に怨気と霊気が増大し、御霊鬼となっている。
現世に私利私欲の陰謀が渦巻き、世や人を怨みながら落命する者がいる限り、今後もこうした御霊鬼は増えていくだろうとのことだ。
「阿祇波毘売に関しては、その霊力の凄まじさに加えて怨呪に
卑弥呼の怨霊と聞いただけで、物凄い力を持っていそうで身震いしてしまう。
なのに凛子さんは、私の身震いがさらに増すような話を始めた。
「桜さんの話では、こないだ浄めた怨霊は阿祇波毘売が
「御霊鬼って、そんなに恐ろしいものなんですか」
「御霊鬼に唯一対抗できるのが、強力な霊術を操る陰陽師集団なの。これまで現世が危機に面する度に、陰陽師達は持てる全ての力を使って御霊鬼達を境界に封印してきた。ただ、神に匹敵する霊力を持った御霊鬼達は時が経てば封印を解いて復活し、再び現世を侵略しようとするの。繰り返される攻防の中で、在人さんと欧理君のお祖父さまは、バブルを崩壊させて日本経済を混乱に陥れた御霊鬼を封印した陰陽師の一人だった」
熊野古道のとある祠に閉じ込められた阿祇波毘売は計祝に相当な恨みを抱いており、一族の身を案じた彼は陰陽寮に協力を要請し、家族を海外に移住させた。
「けれども、計祝さんは
「弓削家と阿祇波毘売の間には、浅からぬ因縁があったわけですね」
私が相槌を打つと、凛子さんがふと視線を落とした。
数秒の沈黙が降りたのちに、薄紅ののった艶やかな唇が重そうに開く。
「彼らと阿祇波毘売との因縁は、お祖父さまのことだけじゃないの。彼らには……ううん、彼らだけじゃなくて私にも、阿祇波毘売をどうしても倒さなければいけない理由が他にある」
“あれだけは俺たちで
凛子さんの話を聞きながら、在人さんの思い詰めたような言葉を思い出した。
「阿祇波毘売を倒さなければならない別の理由って何なんですか?」
思いきって切り込んでみると、凛子さんは潤んだ瞳で私をまっすぐに見据えた。
「
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