第58話:ただ一人の親友

 間一髪で姿を見せたメイゼンの瞳は、吹っ切れてはいなかったが、迷いは持ち込んでいない。


「湧いてくるのは、煩わしいな」


 ユベルの言葉とほぼ同時に苦悶の声があがる。

 リリィは血を流した肩に手を当てる。イクスの一撃をまともに食らった。額から脂汗が流れるが、痛みは心地よかった。殺したい気持ちを湧きあがらせてくれる。痛みは闘志を削らない。

 菫が援護でけん制をし、イクスがリリィに止めを刺さないように視野を広げ動いている。

 だが、菫も服は汚れ、髪を纏めている簪はなくなり解けていた。


「劣勢か……覚悟はしていたが」


 メイゼンはノエの背中を押して、菫やリリィの方へ加勢に行かせた。


「イクス! オレは……イクスや菫とリリィに殺し合いなんて、してほしくないんだぞ」


 ノエの瞳を見て、イクスはあからさまに狼狽する。

 菫の銃弾がイクスの頬を掠めた。それでも、刀は下げられない。


「今になってもまだ、甘いことをいうのですか!」

「当たり前だ! たとえ、無理だとしても、駄目だとしても、それでもオレは言いたくなるんだ!」


 ノエが仲間を失ったとき、川で流されていたのを無償で助けてくれたのはイクスだった。モルス街のことをあの時はよく知らなかったから、疑問にはさして思わなかったが、彼らと生活するうちにノエは理解した。

 あの時イクスと出会えたのは――身ぐるみをはがされることなく、無傷でいられたのは奇跡のような出会いだったのだと。

 ニメが見つけ、イクスが拾ってくれた。

 その優しさは――イクスがどれだけ非道なことをしてきたとしても――それだけは本物だ。


「はは、無理だって駄目だって、ノエだって、ちゃんとわかっているんじゃないですか! もう、全ては終わったことですよ。ノエ。あの日々はない。俺は吸血鬼を殺しますし、敵であれば人間だろうと殺します。例外なんてない。ノエこそ、ユベルのことなんて忘れて、さっさと国に戻ればよかったじゃないですか。どうして戻らなかったのです? ウルドの伝手でもなんでも借りればよかったのに……逃げて、くれればよかったのに」

「オレは――戻らない。ちゃんと、決着をつけるんだ」


 逃げていいとユミルは言っていた。吸血鬼と人間を区別できた吸血鬼が仲間に欲しくて、巻き込んでごめんねと、謝っていた。

 ノエはユミルたちと一緒にいられて嬉しかった。ごめんね、なんて言わないで胸を張って仲間だと言ってほしかった。


「オレが国に戻るときは、目的を達成したあとなんだ。それだけは揺らがない」


 ノエの言葉に、イクスはならばと刀を向ける。菫が間に割って入る。


「菫! 怪我をしているのに、どうして庇おうと手を広げるんだ!」

「ノエ」


 短い言葉に、意味はつまっていた。

 ――イクスが殺されたくないなら、俺を殺せと。

 菫はノエを背中で庇いながら銃を構える。


「オレは、菫を殺さないよ」

「そうだな。そして俺はノエを殺させないよ。絶対に」


 リリィがイクスの背後を取り、蹴りを噛まそうと時、鈍い音が響きリリィの目が見開かれる。鋭い一閃をリリィは身体を逸らしてギリギリ交わすが、足元まである長い髪の毛は半分、白い刀に切り落とされた。


「お前は……」


 リリィが歯を噛みしめる。イクスとユベルは乱入者に――驚愕と、悲嘆と絶望を滲ませた。


「ウルド! どうしてここに!」


 イクスとユベルの声が重なる。

 凛とした面持ちで立つのは審判の服を纏ったウルドだった。白い刀を片手に、ウルドは滑らかな声でいう。


「私も審判ですよ。仕事をします」


 当たり前の言葉を、ウルドは言った瞬間。クロシェがウルドへ向けて走り出す。

 一瞬でクロシェの目的を理解したユベルが追撃しようとする。


「メイゼン! 死んでもいいからユベルを食い止めろ!」


 クロシェが叫ぶと同時に、フェアが魔力のほぼすべてを込めて濃霧を生み出した。

 霧がまたたくまに視界を奪う。ユベルが視界を晴らそうとするが、フェアが全力で対抗する。

 それでも、ユベルであれば簡単に払うことが出来るはずだった。

 魔術への集中を、メイゼンが傷つくのも構わずに妨害してくるせいで思うようにいかない。霧を盾にして、メイゼンが切り込んでくる。

 ユベルは現代の吸血鬼としては最強だが、剣の扱いにたけているわけではないし、気配だけで人を察知して応対するのにもたけてはいない。

 吸血鬼の力が強すぎるがゆえに気にする必要がなかったからだ。イクスであれば――と思った瞬間にユベルは舌打ちする。余計なことに思考を割いた。

 下手に吸血鬼としての弱点を利用されるよりも、視界が見えないのは厄介だった。

 ユベルが伸ばした手は、クロシェを掴めなかった。

 濃霧の中に消えたクロシェの姿をユベルは見失う。ウルドの強さを信じていても、不安でユベルの心は乱れる。


 クロシェはウルドを素通りして、イクスの元へたどり着いた。

 リリィはウルドの手前にいる。菫は遠距離だからイクスとは一定間隔距離がある。クロシェにはこの上ない好都合だった。

 今でなければ、すべてが泡沫になる。

 クロシェの気配に気づいてイクスが刀を振るうよりも早く、クロシェは魔法の言葉をささやく。


「――何をいって!」


 イクスの動揺が声から伝わってくる。


「この世界で最強の吸血鬼を殺す唯一のチャンスだぞ。ウルドを殺せばユベルが死ぬ。君が言ったんだ」


 アイリーンから、クロシェは全てを聞いているのだとイクスは誘った。刀の軌跡がぶれる。


「殺せよ。ウルドを。その後、君はたくさん吸血鬼を殺せばいい」


 霧はまだ、晴れない。早く、晴れてほしいと切にイクスは願った。


「安心しろ。今ならウルドを殺した犯人は俺になる」


 視界が悪くなる前、ユベルは明確にクロシェがウルドを殺そうと動いたのを見ている――そうなるように、クロシェは動いた。


「君は、ユベルに殺されることなく、最強の吸血鬼を殺せる。親友を、殺せばな。君が一番に望むものは――なんだ?」


 イクスの手が震える。渇望が。吸血鬼を殺すチャンスが巡ってきた衝動を抑えられない。


「大丈夫。親友は君のために殺されてくれる」


 悪魔の誘惑。抗えない力。

 イクスの視線が、霧の中にいるウルドへ向けられる。ウルドがどこにいるかイクスにはわかる。親友の気配は、霞んだ中でもとらえられる。

 唯一のチャンスとクロシェが言っている意味も明確に理解できる。

 まもなく霧は晴れる。フェアは吸血鬼としては強い。ユベルが作り出した魔封じの首輪で魔術を全て封じ込めることができない程度には。けれど所詮その程度だ。フェアが頑張ったところで長くは続かない。

 千載一遇。一生に一度きりしか訪れないような、幻にも等しい奇跡の時間。

 息が詰まる。心臓が止まればいいのに。心臓は動いている。

 判断を誤れば、奇跡は流れ星のように過ぎ去る。

 だから――イクスは、このチャンスを逃すことが出来なかった。イクスの気配が消えたのをクロシェは満足そうに笑った。

 菫やノエには、絶対に利用できない方法で、アイリーンが手に入れた情報を活用した。


 クロシェに罪悪感はない。

 吸血鬼を滅ぼす男でもなければ、菫やリリィの復讐の対象でもない。ただ彼らが依存しているウルドを利用することに、一ミリも心は痛まない。

 ウルドを呼び出したのはアイリーンが、審判に密告し手筈を整えたからだ。

 アイリーンの願いは菫やノエたちが無事に生きて帰ってくること。そのためにアイリーンは利用できる手段を全て使った。

 ウルドがこの場に現れないと困る。けれど最初からいても困る。

 途中から姿を見せて、イクスとユベルに隙を作る。

 最大の問題はそれまで生きていられるか、だった。

 菫とリリィは二人かがりでイクスに対して劣勢。ユベルに対してはそもそも足元にも及ばない状況化だった。けれど勝算はあった。

 イクスはクロシェを敵と認識できないから殺せない。ノエには刃が鈍る。

 ユベルは吸血鬼として格上でありすぎるがゆえに、自分たちを見下している。本気の一瞬で消滅させようとは思わない。

 ――やはり、面白いやつらばかりだ。



 イクスは霧の中、ウルドの背後に立つ。


「ウルド」


 震えた声で、親友の名前を呼びながら、イクスは刀をウルドの心臓がある場所へ向けた。


「俺のために、死んでくれ」

「――いいよ。イクス」

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