第56話:名前のない親友
◇
レーゲース街の丘は、人気がなく静寂としている。
審判に近づく物好きは、モルス街でもいないようにレーゲース街にもいない。区画に近づくにつれ静寂が辺りを支配していく。
彼らは畏怖と恐怖と死の象徴。
吸血鬼と疑われれば、王族や、王家の血筋を持つ大貴族ユーツヴェルでもなければ、例え貴族とて命を失う。
「……魔術だ」
見晴らしの良い場所を歩いていたフェアが足を止めると、他の面々もそれにつられ、警戒した眼差しを周囲へ向ける。
「魔術? どこに。ユベルか?」
メイゼンが尋ねる。
「いいや、違うな」
フェアが指を鳴らして魔術で上書きすると広範域にかかっていた幻術が破れる。
姿を見せたのは琴紗だった。メイゼンは目を見開き、愛情と殺意を宿らせながら柄に手をかける。
「やぁメイゼン久しぶり。五年一緒にいると、数日間会っていなくても、大分昔のような気がするな」
「琴紗。どうして」
どうして姿を見せた――口にせずともメイゼンの言葉が通じたのか、琴紗は笑った。
「いや、何。協力を申し出たくて待っていたわけさ」
「は?」
菫が思わず声を上げる。
アイリーンを狙ってきた男が何を言っているのか、理解が出来ない。メイゼンは警戒を緩めることなく、琴紗に尋ねる。
「どういう意図だ?」
「そこの道楽貴族の馬鹿息子が余計なことをしてくれたおかげだ。そのおかげで滅茶苦茶だよ」
「あぁ。俺が審判に投書してきたことを言っているのか。よく審判から逃げられたね」
クロシェは、琴紗が人間でありながら魔術が使える存在であると、審判に密告していた。
「命からがらな。一度は捕まったけど、俺がそれで諦めるわけないだろ。とはいえ、魔術が使えることが露呈したせいで、審判に追われる羽目になった。この国を出るにしても、ユベルが魔術で見張っているせいで出られない」
「自業自得だろ」
リリィの言葉に琴紗は笑った。凄惨な笑みに、ノエが一歩後ろへ下がった。菫が、ノエの肩を優しく叩く。
「仕方ないさ。白髪赤目は俺にとって特別だった。どうしても欲しかった。どうしても、手に入れなければならないものだったんだ。白髪赤目は――自由の象徴だったから」
「自由の象徴? どういうことだ、琴紗」
「俺には何もないんだよ。メイゼン。だから、ただ一つの痛烈な記憶が白髪赤目を欲しがってたまらないんだ」
「何もないって」
「言葉通りの意味だ。メイゼンが親友だと呼んでくれた”琴紗”なんて俺はいない。琴紗は俺の名前ですらない。それは、この国にいた、病弱で人前に滅多に出ることがなかった貴族の名前だ。俺はその名前と存在を奪い取ることで琴紗になったに過ぎない」
「お前の本当の名前はなんだ」
「ないよ」
琴紗はあっさりと告げる。空虚な感情が、メイゼンの手元に届き困惑する。
「お前たちが名前と呼ぶようなものは、俺にはない。まぁ、個体としての識別番号的なのくらいはあるけれど、それは名前ではないくらいはわかる」
「…………」
メイゼンは二の句が繋げない。
琴紗のことをメイゼンは本当の意味では何も知らなかったのだとナイフで突き付けられているようだった。
「俺は蟲毒の生き残り」
「そういえば、嘗ても蟲毒と言っていたな。どういうことだ?」
絶句しているメイゼンに変わり、菫が尋ねる。琴紗はいい機会だ、と大鎌を手にしながら答える。
「俺が育った場所は、吸血鬼だけが扱える魔術を、人間が使えるようにすることに躍起になっている国だった。俺は人間が魔術を扱えるようになるための研究機関での実験体だった。実験体に固有の名前は必要ない。ただ個体を判別する番号だけがあればいい。俺たちはそこで、檻の中で、点滴を使い、薄められた吸血鬼の血を絶えず入れられてきたんだ」
「待て、吸血鬼の血は人間にとって」
「そう。ただの毒だ。だから、常に身体が痛い。日夜関係なく。ただ痛い。全身が筋肉痛ように、全身が打ち身のように、痛い。身体は休まらない。そんな状況化で、仲間たちは次々に心が壊れていく。心が壊れた仲間は、俺たちの食事になる」
「……まさか」
菫の顔色も変わる。ノエの肩に優しく置いていた手に力がこもる。ノエが菫の手を両手で包んだ。
「そのまさか。吸血鬼の血を少しでも馴染ませた人間の体を食材として調理されたものが、俺らの食事として出てくるんだ。人食いだ。拒絶することは許されないし、その食事にも吸血鬼の血が馴染んでいるから、当然痛い。そうして、仲間を食べた仲間はまた壊れて、食事となる。そんな毎日の繰り返しでどんどん個体を減らしていく」
その様子を想像することが、菫にはできなかった。あらゆる悪行を纏めたようなモルス街は、悲惨でしかない。けれど、琴紗が生きてきた環境も、ただの地獄だった。救いすらない。
「でも、ただ一人だけ。外に出た子がいたんだ」
「それが」
琴紗が言わずとしている言葉が、菫にも理解できた。
「そう。白髪赤目だった。まぁ、今の俺なら、別に出て行った先が天国だとは思わないよ。別種の地獄だろうけど。でも、そんなことは関係なかった。当時、俺の目に映ったのは、その色は、外に出て自由になれる存在なんだってな鮮烈な印象だった。モノクロが鮮やかになるような衝撃だ。だから、アイリーンという白髪赤目を初めて見たときに、手に入れたかった」
「別に手に入れたところで、自由とは関係ないだろう?」
リリィの言葉に琴紗は首を振る。
「俺が抱いた自由という概念は手に入る。だから、俺は白髪赤目が欲しかった。それは、今までの生活が壊れるかもしれないリスクを抱えても、渇望するものだったんだよ」
琴紗が大鎌を一回転させると、風が動いた。
「唯一。抱いた、俺の本当の感情だ。それ以外は、もう忘れた」
痛いと嘆く感情も、憎いと思う感情も、楽しいと思う感情も。
琴紗は忘れることで生きてきた。覚えているふりと演技で生きてきた。
騙し続けてきた偽物の感情は沢山あるがゆえに、もしかしたら、忘れたと思っている感情も、偽りの感情も、本物が混じっているかもしれないが、既に琴紗には判断がつかない。
ただ、熱烈な感情を呼び覚ますのは、あの時、ただ一人だけ実験施設から外に出た白髪赤目の存在だけだった。
何故、あの施設に白髪赤目が当初実験体としていたのかは知らない。
研究対象としては色んな種類の人間がいたほうがいい結果が出ると思ったのかもしれないし、当初は珍しいと思われていなかったのかもしれないし、研究にしか興味のない人間たちだったから、人間の個体差に等興味がなくて知らなかったのかもしれない。
そのどれもが琴紗にはどうでもいいことだけれど。
ただの事実として、白髪赤目は生きて蟲毒からいなくなった。琴紗にとっての本物で、唯一の羨望だった。
「だから、俺は白髪赤目を諦めない。どのみち狙うつもりではいる。けれど、ユベルは邪魔だ。審判も邪魔だ。なら、今だけでも、手を組めたらいいと思ってここで待っていた」
「悪いが断る」
菫がきっぱりと断言してから、ノエの手を離し、銃を琴紗の方へ向ける。
「ユベルを殺すなら少しでも戦力があったほうがいいよ。合理的判断は出来ないか?」
「合理的に判断した結果だ。お前は不安要素が多すぎる。途中で背後から寝首をかかれないとも限らない。第一、アイリーンを狙っている奴に対して、背中を預けられるとでも思うのか? 安心できない味方と行動することこそ、非合理的だ」
「それはそうだ」
琴紗は特に否定せずに笑った。
「まあ、なら今死んでもらうけど。俺のことを知っているやつは、審判だけじゃなくて皆死んでもらわないと困るから」
「おい。やっぱ殺すつもりだっただろ。協力を申し出た口から出る言葉にしては前言撤回が早すぎる」
「当たり前だ。人間が魔術を使えますなんてことを知っている人間と吸血鬼は、結局のところ一人残らず殺さないといけないからね」
「なるほど。共闘を申し出たのは、受けれられても断られてもどちらに転んでもいいからか」
リリィは納得がいったと頷く。
「知られたから殺すためにお前たちのことを調べていたら、ユベルを殺そうと画策しているみたいだったからね。利用しない手はない。失敗しても俺が損するものは何もない」
琴紗の言葉にメイゼンが剣を抜いた。
目の前にいる親友と決着を付けなければならない。楽しい思い出が詰まっていて
も、刃を向ける日は来る。
「うん、よし。メイゼンここは任せた」
クロシェが冷静に判断を下す。
「フェア、魔術で惑わして。俺たちは先に行く」
「ちょっ、待て。メイゼンを置いていくのか」
いくらメイゼンが琴紗との決着を望んでいるとはいえ、全員で琴紗を相手にした方がいいと菫が慌てる。
「あいにくと、余計な時間ばかりをかけてはいられない。俺たちの目的がいくらユベルを殺すことだったとしても、レーゲース街での騒動が広がれば、軍属たちもやってくる。この国の秩序を乱すものとして排斥される。いいかい? いくら吸血鬼を殺したいだけですといって、敵が減るわけじゃないんだ。ならば、メイゼンだけを置いていけばいい。俺たちにとって、利用できる時間は無限ではない。ここで琴紗の相手をするのは無駄なんだよ」
クロシェの冷淡で合理的な言葉に菫は唇を噛みしめる。
「で、でもだ!」
ノエが震えた声を上げる。
「勘違い――いや、思いあがるなよ菫、そしてノエ。君たちの、一番の目的は何だ? そのために君たちはどうして集まった? わかったか」
返事を待たずにフェアが濃霧を出現させる。菫の耳に、琴紗の舌打ちが聞こえた気がした。
「メイゼン! あとで合流するのを待っている!」
「待っているぞ!」
菫とノエが声をかけてから、覚悟を決めて走り出す。背後は振り返らない。
親友と決着をつけることを望んだメイゼンが、目的を達成して姿を見せてくれることを願って、前へ進む。
琴紗が鬱陶しそうに手を払うと、霧散していく。晴れた視界に残ったのはメイゼンだけだった。
「メイゼンも一緒に逃げれば良かったのに」
「そうしたら追いかけてきただろう。琴紗。俺はあいにくとアイリーンを傷つけたお前を許せそうにはない」
「他人のためだなんて、流石モルス街の希望だった男だ。俺に五年の年月を奪われたほうは恨まないのか? 普通そっちが先にくるものだろう」
「親友だからな。そっちはどうでもいい。ただの喧嘩だ」
「……」
琴紗はうわべだけ作っていた笑みを消す。ただの能面な無表情。
冷淡な眼差しには、感情が乗っていない。
「お前の本来の顔、初めてみたんだな、俺は」
「そうだろうな」
琴紗は同意する。他人が望む顔を作るのは得意だった。だから優等生の琴紗。
優等生を捨てて、名前すら持たなかった男が、一歩踏み込む。
大鎌を振り上げて、一閃。メイゼンは剣で正面から受け止めて、地面に足の力を込めて、腕の筋力で押し返す。琴紗は軽やかに跳躍しながら、後方へ下がる。着地する場所に狙いを定めて、メイゼンが駆け込む。斬撃が周囲に響く。琴紗が人間には本来使えない魔術で影を生み出して、うごめくそれらがメイゼンの手足を掴もうと伸びる。
メイゼンは的確にかわして薙ぎ払う。
琴紗と踊るように刃を交える。表情のない琴紗に、メイゼンはもっと早く知り合いたかったと思った。
メイゼンが思い出す親友の顔は、いつも柔らかかった。偽物だった。
大鎌の先がメイゼンの頬を掠める。
仲良く背中を預けていた。メイゼンは信頼していた。でも偽りだった。
打ち合いが響く。無駄な会話はしない。する余裕もない。ただ、ひたすらに連撃を繰り返す。
偽りだったとしても、メイゼンは受け入れた。
それでも、決着を付けなければならなかった。
琴紗の魔術が放たれる。メイゼンは腕を抉られ痛みに顔を歪めながら、精一杯の力で前へ進む。琴紗が驚く。メイゼンの剣が、琴紗の身体を捕らえて、袈裟切りする。
血がしたたった琴紗の手から大鎌が零れ落ちた。魔術の痕跡が消える。
霧のように。
全ての魔術が消えて――メイゼンは目を見開いた。
「お前それ……!」
琴紗の身体には、無数の怪我が現れていた。それは、メイゼンがつけた傷よりも遥に多かった。
琴紗とメイゼンの距離は僅か数十センチ。メイゼンが手を伸ばせば、琴紗の身体に触れられる。
「もしかして……最初から」
「そうだよ。何、親友だった男が、元気かそうじゃないかの違いもわからなかったわけか? つくづく親友失格だな」
琴紗は限界だとばかりに片膝をついた。頬が焼けただれている。
「さっき言ったじゃん。クロシェのせいで散々だったって。その時の怪我が癒えていないだけだ」
「どうして、なら」
「まともに癒せる方法がなかっただけだ。メイゼン、お前の怪我の調子がよくなる程度の期間じゃ、俺の傷は癒せなかった。それだけだよ」
琴紗が腹部に皮膚が剥けた手を当てると、開いた傷口から血が溢れるように流れてきた。
「……満身創痍じゃないか」
「傷が癒えるのを待つ時間なんて俺にはない」
「……魔術で、健全なように見せるのに回す余分な体力何てなかっただろう」
メイゼンはて琴紗の肩に手を当てたかったし、傷の手当をしたかったが、踏みとどまる。
それは、越えないと決めた一線だった。
どんな怪我を追っていたとしても、致命的な最後の一撃を加えたのはメイゼンだ。
「面白いことを言うな。当たり前だ、そんな余裕なかった。でも、そうするしかなかった。協力体制に成功した場合のことを考えると。足手まといに思われては困るし、今なら容易に殺せると思われるのも困る。はったりは武器だよ、メイゼン」
「交渉は決裂した。続ける必要なんて」
「あるだろ。弱っているから手加減されるのは癪だ」
琴紗が吐き捨てた言葉には感情の色がのっていて、メイゼンは心を素手で掴まれたような気分になった。琴紗は仰向けになって倒れる。大の字になった姿は、何のしがらみのなく、伸び伸びとしているように見えた。
「だが、もう流石に魔術に回す力も残っていない。俺は、別に全部台無しになっても良かった。他国のスパイだが、任務に命を賭けたいわけでも絶対に達成したい使命感なんてのも持ち合わせていなかった」
「無視すれば、良かっただろ。どうせ、琴紗のほかに仲間はいないんだろ?」
いたら、この場に琴紗と一緒にいたはずだ。琴紗は無表情のまま言った。
「無視するほどの感情もなかった。それだけのこと。だから俺は任務を遂行しようと他国でスパイを続けたし、アイリーンを見たら、今までの全てが壊れてもいいから手に入れたいと思って行動をした。本当に、ただ……それだけのことだ」
琴紗は目を瞑る。メイゼンは懸命にその場に踏みとどまった。
「ただ……それだけのことだ。メイゼン」
「……わかった。なぁ、最後に一つだけいいか」
「なに?」
「今もまだ、親友か?」
「俺には、今も昔も親友何ていないよ。辞書で引いたら出てくるような感情はない」
「そうか。俺は今でもお前のこと親友だよ。さようなら」
琴紗、と言いかけてそれが彼の本当の名前ではない事実に胸がしめつけられた。
親友を呼ぶための名前すら、メイゼンは知らないし、この男は持っていなかった。
「そうか。さようなら」
メイゼンは、最後までその場に踏みとどまり、静かに琴紗が息を引き取るのを待った。
親友と決着をつけると決めていたのに。
着いた決着はあまりにも空しくて、ただ悲しかった。
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