第54話:バイバイ。また明日。
朝焼けが美しく、照らす光景。囲われた場所で眺めれば、遠い国すら目視できるような錯覚に陥る。
朝が美しいのは、モルス街もレーゲース街も変わらない。
「さあ。終わりの始まりを、始めようか」
クロシェが笑った。緊張な面持ちなど彼にはない。
彼にとっては全てが遊戯。終幕が、絶望か希望かを、考慮していない。
アイリーンはクロシェ邸の門前でフードを握りしめる。目的を果たす決行日が訪れてしまった。
イクスには既に、日程を秘密裏に伝えてある。
彼がどう出るかは不明だ。願わくは、ノエを思って姿をくらませていてほしい。
イクスがいなければ、菫とリリィは無鉄砲な復讐に走らない――とまで思ったところでアイリーンは失笑する。
ユベルを殺そうとすることも無鉄砲で、無謀だ。出来るはず何てない、とさえ思っている。
ウルドを殺せばユベルは死ぬ。それ以上の意味ある情報は入手できなかった。
落胆はしたが、ユベルが自殺する手段が存在するだけで行幸であろう。
事実はクロシェとフェアだけには告げている。
非道にはなり切れないノエや菫、メイゼンには伝えていない。動揺や視線でユベルやウルドが、その意図を理解してしまっても困る。
切り札は、切り札として十全に使えなければいけない。
アイリーンの背中を軽くクロシェは叩いた。内緒話をするように、笑う。
「君は生まれたときに緊張感とかなくしたわけ? 僕は……」
「そういうのとは生まれつき無縁だったもので。起きた出来事に嘆くくらいなら、楽しんでしまえばいい。それだけだ」
「……ねえ、クロシェ。わかっている? フェアさんも」
「わかっている。フェアも自由気ままだが、賢いからな。何も問題はない」
「なら、いいよ」
アイリーンはクロシェ邸で留守番をする。彼らについてレーゲース街へは赴かない。
足手まといになるのは避けたかった。
本当は傍にいたい。結末をこの目で見届けたい。
待つだけは嫌だと心が叫んでいるが、自分の我儘を貫いて、誰かが死ぬ結末は避けなければいけない。
琴紗のことを気がかりにしていたメイゼンだが、それに対してクロシェは実家から護衛を用意した。
護衛はクロシェの趣味を理解していたので、可哀そうに、といった瞳で見られてアイリーンは気持ちが軽くなった。別にクロシェの玩具ではない。かといって誤解を解くのも面倒なので何も言わなかった。
クロシェが護衛を用意してもなおメイゼンは不安がったが、此処に琴紗が現れる可能性は低い。審判に追われている以上、余計な手出しをする余裕があるとは思えないからだ。
「菫ちゃん」
アイリーンは菫の袖口を掴む。菫は、出会った時と変わらない優しい笑顔を向けた。
「どうした?」
「気を付けて。絶対、死んじゃいやだからね。ノエ君も。みんなも……生きていないと、嫌だよ」
「……約束はしない」
菫はきっぱりと、誠実な言葉で、真っすぐアイリーンを見る。澄んだ瞳に、復讐という濁りがあって胸が痛くなる。
「約束はできない。けど、ノエは何があってもアイリーンの元へ返すよ」
「ノエ君が子供だから……?」
「そうだ。お前と同じ、子供だからだ」
菫の言葉に迷いはなかった。ノエがアイリーンの前に寄ってきて抱き着く。
「ふふ。大丈夫だぞ、アイリーン。心配なんていらないんだ」
「……ノエ君。約束してね、戻ってくるって」
「うん」
ノエが頷く。菫とは異なる約束。けれど、どちらも約束に対して、誠実だった。
その頭を菫が撫でながら、往生際悪くノエへ言う。
「ノエ。目的何て意思なんて捨てていいからな。捨てても、人は生きていられる」
「でも菫は捨てられないんだろ? 復讐を捨てたって菫は生きていける。けど、それでも菫は復讐をするんだろ? オレにだけいうなんてずるいぞ」
「そりゃ。ノエが子供だからだよ」
「オレは十五だ!」
「十五に見えないのはこの際置いとくけど、それでも子供だ。柔軟な子供の脳で好きに生きたっていい。ノエがユベルを殺すぞって意気込まなくたっていい。無邪気に、世界の泥なんて知らないでいてもいいんだ。無知であることを無垢であることを、責められることなんてあっちゃ――本当はいけないんだから」
モルス街の道端に暗い瞳で身なりが整った自分たちを見て、掏摸の隙を伺っている子供を菫は一瞥する。
彼らは、この世界が綺麗じゃないことを知っている。そうして、世界の汚れに使って絶望をしている。こんな世界じゃなければいいとは思うけれど、だからといって救えるような力は持ち合わせていない。なら、目の前の子供だけでも、せめて無垢でいてもいいのではと願いを込める。
「菫は優しいな。でも、オレはいくから」
アイリーンへ抱き着いていた身体を名残惜しそうにノエは離してから、菫へ手を伸ばす。菫はその手を握った。布を巻いた銃は紐を通して背負っている。
菫は繋いでいない左手を眺める。イクスに切り付けられた記憶が蘇った。ノエを傷つけた男。吸血鬼を憎んで殺している男。敵を生かすことができない哀れな男。
そして――菫の復讐相手。
最初は、復讐に仲間なんて必要ないと思っていた。だが、今は同じ目的のリリィが一緒で心強い。イクスは一人では太刀打ちできないほどに、強いことを見誤っていない。
「それじゃ。皆、気を付けてね。また明日ね」
アイリーンが手を振った。背を向けて彼らはレーゲース街に向けて歩き出す。
リリィは今朝の出来事を思い出す。リリィは今日――人間の血を吸った。
あれだけ拒絶が酷かったのに、復讐前に万全の状態じゃないのは御免だという意思が勝った。克服したわけではない。果たして今日の血は美味しかったのかすら、わからない。
美しかった朝焼けは次第に、モルス街の空気に呑まれて掠れていく。
「そうだ、クロシェ。終わったら私に首輪を二つプレゼントしてくれ」
「何? どういう趣向なわけ?」
フェアとクロシェが横並びで会話をする。自由に動き、自由に振舞う。彼らを捕らえて鳥かごに入れられるものはいない。
「私に首輪をつけていい。その代り、私もお前に首輪をつける」
「譲歩じゃねぇし、絶対嫌だ。それ、お揃いだぞ?」
「私は別に構わない。気にする必要がどこにある?」
「流石に気にしてほしいよ。お揃いの首輪をしているとかやばい人たちだって。俺なら絶対近づきたくない。他のご褒美を上げるよ」
顎に手を当ててフェアは暫し思案する。
ご褒美ときいて真っ先に浮かぶものは血だが、血は別に求めるまでもなくクロシェは与えてくれる。
上質なボトルにはいった血よりも、クロシェの血の方が今のフェアには好ましい味だった。
上質な感覚がするわけではない。年代物といった雰囲気もない。ただ、程よい甘さが口の中に広がり、舌が痺れるような刺激があって、フェアには大層な美味だった。
万人に受けるわけではない癖の強い味だと思うと、フェアは一人占めできた気がして気分が良かった。
けれど、それも奪えばいいだけで、ご褒美として与えられるものとは違う気がした。
「じゃあそうだな。鳥かごが欲しい」
「俺は入らないからね」
「私にそんな趣味はない」
「お揃いの首輪発言したやつが何を言って……。鳥かご、どうするんだ」
「部屋に飾ろうと思っただけだ。私の。お前の家にある部屋に」
「家出した記念か? それとも、自由記念か?」
「そんなところだ」
「家出猫はおしまいか?」
「私は猫じゃない。吸血鬼だ。恩を返すのも、これで終わりだろ。なら私は、戻るよ」
僅かに寂寥を込めて、フェアは先頭を歩く菫の背中を見る。
吸血鬼にはめられた首輪を、人間が外すなんて思いもしなかった。迷いもせずに、人間の菫はフェアの首輪をとった。それが信じられなくて――恩を返したかったから、一緒に行動を共にしてきた。
だから、これで終わりなのだと、寂しさが胸に突き刺さっている。
「鳥かご。フェアが好きにデザインしな。特注で作らせるから」
当然のように、明るい未来を――未来であるとも思わず語っている彼らは、本当の幸せの意味を知っているのだろうと、メイゼンは自然と耳に入ってくる言葉を聴きながら思う。
琴紗とは果たして再会できるか――。拳を自然と握りしめる。
琴紗とてアイリーンを欲するのであれば、審判は邪魔は存在だ。何より、琴紗の素性を知っている審判を放置することは、彼にはできない。
目的のためには合理的な思考をもって動けるのだ。裏切られたけれども、親友だったからこそ、断言できる。ならば、目的地は同じだ。
今日で重ならなくても琴紗はどこかに潜んでいる。自分たちの姿を見たら、行動に動かすはずだ。
万が一、琴紗の気配を感じ取れないならば、彼の未来のために手助けをすることをメイゼンは誓っている。
全てが終わったら、モルス街に戻りたいと思う。
泥を纏った、欲望と絶望で満たされた場所を、少しでも救い上げたい。傲慢か? と嘗て問われたことがある。傲慢で、人の命が救えるのならば、それで構わない。
その気持ちは五年が経過した今だって薄れてはいない。
裏切り者とののしられたとしても、勝手に希望を与えてさって、また戻ってきた男だと思われてもメイゼンにとってそれは些細なことでしかない。
だからこそ、琴紗との決着だけは避けて通れない。
モルス街とレーゲース街を繋ぐ門を通る。身分証はクロシェがまとめて発行をする。メイゼンはフードで顔を隠して、偽名をもってして扉を通る。
「っておい。クロシェ」
「なんだ?」
「偽名……いくらなんでもないだろ」
メイゼンは偽名を使った。だが、菫にとってその偽名がイクスだったのはあきれ果てるしかない。
仮にもイクスは審判だ。万が一門番にばれたらどうするつもりだったのか。
「いいだろ? ナイスアイデア。俺」
「底なし沼にでも沈め」
思わず悪態をついてしまう。
「同姓同名のイクスさんだってこの世のどこかにはいるよ」
「……その同姓同名さんが、悪名高きクロシェ・ランゲーツと一緒にいるとは思わないし、本物だと誤認させたいなら、せめてもう少し髪色だけでも似ているやつを選べよ。白髪と黒髪って正反対すぎるぞ……」
トンネルのような内部を進みながら小声で菫は文句を続ける。
クロシェは真面目に聞き入れるつもりはないようで肩を竦めるだけだった。
やがて、薄暗い道は終わり、開けた人工的な美しさが広がるレーゲース街に――到着した。
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