第44話:やり直せたとしても、変えられない
イクスは
すると、奇跡的な幸運に恵まれたのか家の形を保っていた。
既に倒壊して跡形もないものだと思っていたから肩透かしを食らった気分だ。
最後に戻ったのはノエの服を取り戻った時かと思うと、懐かしい気持ちになる。ノエのような笑顔を見せる少女と出会ったからか、ノエの笑顔が脳裏にちらつく。
薄汚れたゴミのような家の中に誰かいる気配がする。刀に手を触れる。
強盗だろうか、それにしては気配を隠していない。第一、盗む物など一目見ればない。
ディス区にある家の中でもボロボロ加減は上位に食い込みそうだが、家は家。雨風をしのげる場所を求めたものが休息しているのか。
どちらでも構わない、とイクスは足音を消しながらドア替わりのカーテンを開く。
室内にいたのは蹲るようにまるまった子供だった。
ノエがいるのかと錯覚した。
目を瞑り開くと、子供はニメだ。ノエではない。
「どうしたのですか」
「イクスにーちゃん……」
大粒の涙がとどまることを知らず溢れている。泣きはらした真っ赤な瞳はイクスに助けを求めていた。
ニメは近所に住む母親と暮らす子供で、ノエが川辺で倒れているのを発見し、イクスへ知らせた。
ニメが教えてくれなければノエと出会うことはなかった。
出会えたのは幸だったのか、それとも吸血鬼と出会ってしまった不幸であったのかは判断できない。
並々に濁った水をためているバケツを倒して床を水浸しにしないように気を付けながらニメの前にしゃがむ。
何があったのか尋ねると、ニメは大声で泣きだす。落ち着くのを待っていると、やがて嗚咽しながら話し出した。
「……おかあさんが、殺された……」
「どこで?」
「家……家で、おかあさんがころされて、いたの……」
「何か、トラブルは抱えていましたか?」
「わかんない……わかんないよ」
「つらかったですね」
イクスはニメを抱きしめる。
子供が泣いている。子供が悲しんでいる。
日常だ。
これは日常だ。
人が死ぬもの殺されるのも命を失うのもありふれたモルス街。
ニメだけが特別なわけではない。
それでも、目の前にいる子は助けたい。
すべてを助けられないのならば、助けられる人だけでも助けたい。
「ニメ。俺が何とかしますから、安心して下さい」
強く抱きしめたら潰れてしまいそうなほどに脆い。
「にーちゃん、助けてくれるの?」
「当たり前です。ニメがノエを助けたように、俺だって困っているニメを助けますよ」
モルス街出身ではないノエの服は豪華だった。
売れば暮らしの糧になる価値があった。
だが追いはぎをすることもなくニメは子供が倒れているから助けたいとイクスの元へ現れた。
そんな純粋な子供を放っておけるわけがなかった。
何より、ニメは敵ではない。
「あり、がとう」
泣きはらした顔にほのかな笑顔が宿った。
「ニメ。俺の家で待っていてください」
「にーちゃんはどこにいくの?」
心細そうに服を掴まれたが、イクスは柔らかくその手を離させる。
「蠅がうっとおしいので掃除してくるだけですよ」
「……? はえなんて、いないぞ?」
ニメが首を傾げたので、手を伸ばしてくしゃくしゃと頭を撫でる。
「気にしないでください。俺が気になる蠅です。掃除したら、ニメが安心できるようになりますからね」
「う、うん?」
イクスの言葉が理解できないニメだが、イクスがそういうのならばそうなのだろうと頷く。
「では、ここから出ては駄目ですからね」
念を押してからイクスは家が壊れないようにゆっくりと外に出る。
慣れ親しんだ淀んだ空気は、外に出たことで風通しがよくなり緩和される。
表情から色を消す。ニメの母親を殺害した人物は敵だ。
敵は殺さなければならない。生かしておくことはできない。
耳を澄まして、怒声や罵声、悲鳴が上がっている方向へと進んでいく。
道中、暴行にあっている人を見かけたので、拳で何度も殴っている男を適当に痛めつけてからニメの母親について情報を知らないか尋ねる。真っ赤だった顔が真っ青になったところで知らないと判断して殺す。
殴られていた人物は額から血を流しながら悲鳴を上げて逃げていった。何故逃げるのだろうとイクスは疑問に思いながらも、次なる敵を探す。
蛇の道は蛇。人殺しは人殺し。その辺を闊歩する敵に聞けばいい。
敵と判断した相手に尋ねながら殺す。
白の刀は血に塗れ、痛みに呻く人物へ容赦なく切り裂き、生は与えない。
幾人目かを殺した時、ようやっと目的の情報が手に入った。ニメの母親は見てはいけない場面を目撃して、殺害されたのだ。
イクスは笑みを浮かべる。
「良かった。これでやっと俺の敵を殺せます」
向かう途中で出会った郵便を生業としている少女に、金銭を多めにした封筒を手渡す。
宛名を見た瞬間、少女の表情は露骨に歪んだが金額とリスクを天秤にかけた結果引き受けた。
矢継ぎ早に歩き、ディス区の商店街へたどり着く。
老若男女問わずごった返したレリック区とはまた別の雑多な賑わいを見せる場所を進み、中心地から路地裏へ入る。
ディス区は迷路のように入り組んだ場所が無数に存在する。
家が増えたり、家がなくなったりすることで日に日に迷路は変化する。正確無比な地図を製作することは不可能だろう空間を迷いない足取りでイクスは進む。
腐敗する匂いに満ちた狭い道を進むと、一気に視界が開ける。視界は開けたが、腐敗した匂いは変わらないどころか一層強くなる。
淀みに淀み、廃棄されたもので溢れた場所。
積み重ねられた瓦礫の山はイクスの家よりも複雑怪奇な形をしている。鉄骨を椅子代わりにして座る若者の顔は死んでいるのにも等しい程悪いのに、目だけが浮き上がる程異様に輝いている。イクスが姿を見せても反応がない。彼は敵ではないと判断して、ニメの母親を殺害した集団が根城にしている倉庫へ向かう。
嘗て、モルス街のレリック区で勢力を誇っていた組織が何かを作ろうとしてとん挫した場所。
完成すれば玄関部分になっていただろう場所へ足をのせると、最初から手抜き工事だったのか、足音が響いた。
空洞部分が多いのだろうか、とイクスは思いながら立て付けの悪い扉を強引に横へ引いて開ける。
古びた段ボールが積み重ねられており、外見よりも狭く感じる。窓のない建物は蝋燭の明かりを頼りにしておりほの暗い。
イクスはさっと目を動かし人数を確認する。十五人。
組織にはなれなかったごろつき集団の数としては妥当か、と判断する。
彼らの瞳は、薄汚れた白のコートに新鮮な赤い血をまだら模様につけ、むき出しの刀が鮮血に染まっている突如現れたイクスを色濃く警戒する。
歓迎されていない雰囲気はイクスにとって驚く程心地がよい。
「貴方たちは、いえ。詳しくは問いません。別に貴方たちが誰を殺そうとも構いませんから、ですから一つ尋ねます。貴方たちは俺の敵ですか――?」
「当たり前だ」
代表格の人物が宣言すると、答えが間違いだったと悟るほど凄惨な笑みをイクスは浮かべた。
思わず後ずさりをしてしまいそうになるほど気圧されたが、しかし逃げ道は入口一か所しかない。
入口にはイクスがいる以上、逃げるわけにはいかなかった。
彼らは互いに目くばせしあい、それぞれが武器を手に取り、イクスを排除しようと動く。
先手必勝だ、と駆けだし、斧を振りかざす人物にイクスはこの場に不釣り合いな破顔をする。
刀で受け流し、そのまま剣先を斜めに心臓を突き刺す。刀を抜き取ると血しぶきが上がって顔にかかる。袖口で拭う。
笑う顔は、人殺しを心地よいとすら感じさせるものだ。
赤に濡れたイクスに対して一瞬の怯みののち、三人が一斉に襲いかかり、その間を縫うように銃が発射される。
イクスは銃の軌道を読み取り、一人の首を掴み盾にする。
銃弾は貫通することなく、身体の中で止まる。居合切りしてきた相手へ、死に至った身体を再利用して刀を防ぎ、そのまま死体でたたきつける。
昏倒したところを刀で脳を突き刺して殺す。
残った一人の元へ加勢がくる。
前後を挟みタイミングを合わせてきたので、しゃがんで範囲から外れる。
息を吸うように滑らかな手つきで刀を一閃する。足を切られた二人は倒れる。過程でさらに切り裂き息の根を止める。
残り、十人。
拳銃を手にした三人が邪魔だ。片付けてしまおうと駆け出す。
力量差を見せつけて圧倒してくるイクスに、男の手は震え標準を合わせられない。その様子にイクスは笑う。
「この程度で死に怯えるなんて愚かですね」
悲鳴を上げながら男は死にゆく。
「殺すのに殺される覚悟を持ちなさいとはいいませんよ、そんなこと愚かですから。けど――簡単に殺してもらえるのに死に怯えるのは愚かです」
イクスは段ボールの影に隠れ銃撃が鳴りやむのを待つ。
リロードの瞬間、飛び出し的確に殺し、容赦なくその数を減らす。
残り七人に減ったところで、青年が武器を捨てて逃げ出した。イクスは舌打ちする。
入口から移動してしまったため、逃げ道を作ってしまった。
追いかけて殺そうとするが、自暴自棄に振り回しているだけのこん棒が襲ってきた。正面から受け止めこん棒ごと両断する。
喚き声をあげながら短刀を投げられたので指と指の間に挟み受け止める。受け止められた事実に驚愕し目を見開く人物を無視して、逃げ出そうとする人物へ手にした短刀を投げようかと思ったが、第三者の足音が響く。
一瞬だけの静寂。
その後は混沌が訪れる。
イクスは口元へ笑みを浮かべ、逃げ出そうとした人物を無視して短刀を投げた人物へ短刀を投げ返す。
殺せると思ったところで躱された。意外に思いながらも勢いよく駆け出し距離を詰める。眼前に迫った刀を映した瞳は恐怖に彩られていた。脳天を貫く。
第三者の足音はやみ、蝋燭の明かりに照らされたほの暗い空間に姿を見せる。
闇に混ざる黒と、闇を浮き上がらせる白。それらを調和するかのような赤が存在を主張する。
逃走しようとした人物は出口へ向けて手を伸ばす。その腕をつかみ、宙へ浮かして地面へと第三者はたたきつけた。
第三者を恐れて、イクスを殺そうとしていた殺意が霧散している。
イクスはたまらなくそれがおかしかった。
そんなにも審判が恐ろしいか、と。大声で笑いたくなる。
白と赤を象徴とし、高位の実力を示す黒のマントを羽織った存在は審判だ。
吸血鬼を殺すエキスパート。その存在が目の前に現れて恐慌する姿は無様。
眼前で殺戮を行っているイクスもまた制服を脱ぎ捨てているだけで、審判なのにそれに気づかない。
彼らを見れば見る程、滑稽だった。
手早く恐慌してまともに動けない残りをイクスは殺す。
「ふう」
イクスはため息をついてから、かつかつと足音を立てて、逃走を図り審判の手で気絶させられた青年の元へ向かう。絶望の中、間抜けに気絶した顔へ止めをさす。
潰れたカエルのような断末魔を上げて死んだ。
「ウルド。殺してくださいよ。仕事中でしょう」
イクスが審判であり唯一無二の親友であるウルドへ声をかける。
緩やかなウェーブがかかったプラチナブロンドの髪は柔らかく光輝くような艶があり、柔和な表情は、殺戮集団とまで称される審判にはふさわしくない。
「なら、仕事中の僕を呼びださないでほしいな」
ウルドは白の手袋に挟んだ薄汚れた手紙を見せる。イクスが郵便屋に賃金割り増しで頼んだ手紙だ。
「それに、仕事中だから見境なく殺すわけじゃない。それとも何? 彼らは吸血鬼だった?」
「いいえ。人間ですよ」
「だろうね。吸血鬼ならこんな簡単にイクスが殺すわけがない」
イクスの金色よりも明るい瞳が、殺害された彼らの傷口へ向く。
死をもたらすための傷口は、吸血鬼に対する苦痛をもたらすための手段とは異なっている。
イクスは吸血鬼であれば甚振って死の間際まで苦痛を与えるが、人間は殺すだけ。
だからウルドは、彼らは人間だと判断して命を奪わなかった。
尤も、敵と認識したイクスが見逃すわけがないとも理解はしていた。
「で、イクス。僕に子供を保護する場所を顔利きしてほしいって?」
「そうです。俺がやるよりウルドの方が確実です」
「その子は特別なのかい?」
「いえ、別に。ただ、困っていたので助けたいと思っただけです。何より子供ですよ? 放ってはおけないじゃないですか」
「わかったよ。君が助けたいというのならば、それで構わない」
「本当は全ての困っている人を助けられたらいいとは思いますよ。けれど現実的に考えてそれは不可能です。なら、目の前で困っている人を助けたいじゃないですか」
「その結果、助ける人より殺す人の方が多くなっても?」
「えぇ」
淀みなく答えるイクスに、君はそういう人だからねとウルドは言葉を返す。
「仕事が終わったあと僕が何とかしよう。今からでも構わないけれどもこの恰好ではない方がいいのだろう?」
「そうですね。今だと歩くだけで道が出来てしまいます」
審判を恐怖の象徴として見るのは大人も子供も変わらない。
白と赤で彩られた審判の姿を見れば、いかに純粋なニメとはいえ卒倒してしまう。
「では、仕事が終わったらうちにきてくださいって……ディス区にある自宅しりませんよね」
「そうだね。場所を教えてもらえるかな」
ウルドとは親友同士だが、イクスが審判を辞めて以降は交流が途絶えていた。
イクスが審判を離れたのならば、審判との交流は避けた方が彼のためだ、とウルドは思ったし、吸血鬼を殺したい衝動を抑えるためイクスも審判に近づくのを避けていた。
「わかりました」
イクスは口頭で場所を伝える。複雑な迷路のように入り組んだ場所が数多存在するモルス街だが番地は存在する。
「では、あとで向かうよ」
ウルドは老若男女問わず丁寧な言葉遣いで話すが、友人に対しては砕けた口調だ。
それを聞くと、殺したいのに殺せない
ユベルはウルドに依存している。
だからこそ、ウルドに砕けた口調で話しかけてもらいたい望みを抱いているが、ウルドは上司相手にそれは出来ないと断っているのだ。
「宜しくお願いします」
「わかった。あ、イクス。あの人との指輪が表へ出ているよ、君の血に染まってしまう前にしまった方がいい」
「あっ……」
慌ててイクスが視線を胸元へ向けると、普段は服の下にしてあるネックレス上にした指輪が表へ出ていた。
殺戮をしたばかりで顔から血は滴っている。
銀色の指輪が血で汚れることは避けたい。しまおうと手を伸ばしたところで、その手もまた血に塗れていることに気づいた。
ウルドが微笑しながら代わりにネックレスを服の下へしまう。
「ありがとうございます」
「大切なものなのだから、気を付けなよ」
「そうします。彼女との、思い出の品ですからね……大切な、大切な」
ふと、ありし日の日常が蘇った。
ウルドに彼女を自慢したくて、彼女にウルドを紹介したくて、レリック区に居を構えていた時、ウルドを招いたことがあった。
品性方向なウルドに彼女は目を丸くして驚いた。
モルス街にも善人がいたのだ、と。感激さえしていた節がある。
ウルドがモルス街の住民ではないことも、王家に次ぐ権力を持つ貴族出身であることも、審判であることも彼女には告げていない。
ただの同僚として紹介した。
イクスは彼女に仕事が審判であることも、吸血鬼が嫌いであることも告げなかった。
そして彼女もまた吸血鬼であることをイクスに告げていなかった。
お互いに秘密を知ったのは、イクスが彼女を吸血鬼として殺すとき。
お互いに秘密を抱えていた時は、何も知らないまま幸せで夢のような日々を過ごしていた。
思い出しては胸が痛くなる。
彼女の優し気な表情が作り出す笑顔は、忘れられない。
彼女の笑顔は愛おしい。柔らかな髪に触れた感覚も、暖かなその手のひらも、全てが記憶となり残っている。
突然、突拍子もなくノエと彼女の姿が重なった。
そしてイクスは気づいた。
ノエを殺したくないのは、吸血鬼であるのに敵だと思いたくないのは――彼女とノエがどことなく似ていたからだ。
似ているから、もしもを夢想してしまう。
もしも、彼女と結婚して子供がいたら――ノエみたいな子だったらいいな、と。
ありえない未来。
叶うことのない未来を描いてしまう。
自分の手で恋人を殺しながらも、もしもを思ってしまっていたことにイクスは自嘲する。
愚かに拍車をかけて愚かだ。
閉鎖された空気に耐えられなくなって倉庫から外に出る。空を眺めれば雨でも晴天でもない曇り空。
中途半端な空気がこの上なく滑稽な自分に似合うと笑う。
彼女が吸血鬼である以上、イクスは彼女を殺す。
だから、もしもは存在しない。
「過去をやり直せたとしても、俺は
もしもを叶える手段があったとしても、イクスは己の手で壊してしまう。
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