第38話:発端
琴紗は捕縛できず、時間は刻一刻と過ぎる。
審判内部や周囲を慌ただしく審判がかける。
外に出て捜索するものの琴紗の姿はない。存在が特異なため、目撃情報を探せないのが痛手だった。
そのうち月が夜空に上り、建物の明かりが次々と消えて寝静まっていくが、審判本部は煌々としている。
眠りの訪れない内部の執務室でユベルは事務机に座り、イクスはソファーに座って互いに視線を合わせず琴紗についてやり取りをする。
散々責め苛んだ身体で見事逃走をほぼ成功させた琴紗を見つけ出せない苛立ちがイクスは募り、書類を睨みつけながら指で机を何度も叩いてしまう。
「お前が逃したからだろ。ウルドかなら逃すことはなかった」
ユベルが五月蠅い、とイクスへ火に油を注ぐ形で声をかける。
「は? そもそもユベルが琴紗の実力を正確に把握できていればこんなことにはなりませんでしたよ。ウルドならちゃんと見極められましたよ」
「そーかそーかー」
お互いに舌打ちをしながら睨みあうが、不毛な争いだと同時に視線を外す。
心地悪い空気が流れるが元々ユベルとイクスの間に朗らかな暖かい空気が流れることはない。
居心地悪さをお互いが感じることもなく、壁時計の針が進む音が静かに時の流れを告げていると、廊下から足音が聞こえてきてイクスとユベルは顔を上げる。
視線が扉の方へ向いてしまう。足音は通り過ぎるのか、止まるのか。
音は扉の前で止まり、二度ノックしてから開いた。
「只今、戻りました。審判が騒がしいですが、何かあったのですか?」
姿を見せたのは休暇を終えたウルドだ。プラチナブロンドの髪に、金色の瞳。柔らかい雰囲気を醸しだウルドは茶色のコートを手に持ち、イクスとウルドの方を交互に見て微笑む。
「えぇ。それが……」
魔術を扱う人間が――と言葉をイクスは最後まで言えなかった。
ダン、と机を足場にした音と共にユベルが跳躍しウルドとの間合いを瞬時に詰める。
ユベルの手から離れた書類が空中に散らばり地面へ落ちる。一枚はイクスの頭に乗った。
舌打ちしながらイクスが手で払う。
ウルドへ手を伸ばしたユベルは、ワイシャツを掴む。首元を露にする。血が通る血管。喉がなる。ユベルは、欲望に従い首静に牙を立てて吸血する。
ウルドは表情一つ変えず、吸血鬼が血を求めるのは当然のことと受け入れる。
吸血鬼としてのユベルの行動にイクスは苛立ちながらも立ち上がり執務室を出ていく。
血を渇望した状態のユベルではまともな会話もできない。
何処までユベルが血を渇望しているのかを図ることはできないが、ウルドが戻ってくるまで我慢などせず、引き出しの中にある美味しくない血を飲めばいいのにと心底思い、そして心底吸血鬼を嫌悪する。
「あぁ。本当に、殺したいです」
廊下に出たイクスは扉を背もたれにしながら天井を眺め呟く。
吸血鬼を実感する行動は殺意が増えるから、視界に入らないよう移動した。
真っ白の天井。白を赤く染め上げたい。
ユベルへいくら殺意が募ったところで、彼は殺せない。
殺せる日は、全ての吸血鬼を滅ぼしたあと。その時、殺させてやるとユベルは約束をした。
約束を反故にして今すぐ殺せるものならば殺したいが、現状ユベルの方が強く殺せない。
歯がゆい。
殺意は収まらない。誰でもいい。敵を殺してしまいたい。
自然と真白の刀を握りしめる。
殺したい、殺したい、殺したい、と呼吸が荒くなりイクスは顔を歪める。
深呼吸をする。瞼を瞑って、荒ぶる心を鎮めようとすると、昨夜殺した吸血鬼と交わした言葉が脳内に蘇った。
◇
刀を振るえば血が流れる。真白の刀を赤く染め上げる。
千鶴を壁際まで追い詰める。千鶴は右腕から流れる血を左手で押さえながら、満身創痍の身体で懸命に立っている。
無数に切り裂かれた服は見るも無残なまでにボロボロと化していた。
「貴方も愚かですね。見なかったことにして見捨てれば、吸血鬼だと知られて殺されることもなかったのに」
リリィを逃した千鶴をイクスは笑う。
危機に颯爽と駆けつけないで目を瞑れば千鶴は生きられた。
こうして切り苛まれることもなかった。
「そうだね。けど、仕方ないじゃん」
「何がですか?」
「だって、リリィを見捨てるなんてこと、僕にはできないんだから」
飄々とした態度で、けれど慈しむ眼差しを千鶴はこの場にはいないリリィへ向ける。
イクスのことを情報屋アイリーンから聞いていた千鶴は、嬲られることを承知の上で、リリィを助けた。
「見捨てることが出来たら、それはもう僕じゃない」
リリィが生きていてくれるならば、命は惜しくなかった。
リリィが悲しんだとしても、リリィが千鶴の血を吸えなくなったとしても――それでもリリィが生きていることが千鶴にとって大切なことだった。
「そうでしたか。その考えは嫌いじゃありませんよ。無謀な行為のお蔭で一匹多く吸血鬼を殺せるのですから」
「……どうして、君はそんなに吸血鬼を殺したいのサ」
イクスが一歩踏み込む。千鶴は逃げようとするが、覚束ない足取りでは避けられない。刀が太ももを貫き悲鳴をあげる。血が壁に飛び散る。
「どこにでも転がっているようなつまらない理由ですよ」
地面へ倒れた千鶴の足掻きを封じ、刀で太ももを抉る。
「そ、それは何……?」
血管が千切れ、肉と血液と骨を混ぜられる感覚に脂汗を流しながらも千鶴は尋ねる。
「家族を吸血鬼に殺されました。ただそれだけです。ね? 道端に転がっているような話でしょう」
指一本動かせない状態の千鶴の腕に刀が押し当てられる。痛覚の麻痺を願うほどの痛みが襲い絶叫する。
イクスは腕を切り落としながら言葉を続ける。
「父親と、母親と、妹と、弟が殺されました。でも、吸血鬼に殺されなかったとしても、明日の食事にも困るような生活をしていた家族でした。誰かが栄養失調で死んでも不思議ではない。誰かが野党に殺されても不思議ではない。人間に殺されてもおかしくない。死は特別視することのない日常の一部でした」
トタンで作られた雨風がしのげるだけの家に帰宅途中、幼いイクスが目にしたのは雨で薄れた血が池のように広がり、死体が転がる光景。
「でも殺したのは吸血鬼だったんです」
割れた眼鏡の隙間から千鶴は形容しがたい表情になる。
それは哀れみか、同情か、痛みか。
「……君の、家族を殺した、吸血鬼は殺せたのかな?」
「えぇ。殺しました。その時、分かったのです。俺の敵は殺さなければならないとね。生かしておいてはいけない。殺さなければならない。だから、敵である吸血鬼を全て殺したい」
殺意に塗れた笑顔は一種の強迫観念にすら千鶴には思えた。
「その、結論はおかしいでしょ」
「そうですね。でも、俺は殺したいんです」
吸血鬼を殺したいから、本来モルス街の住民ではなれない審判になるために、貴族の養子となった。
審判を選んだのは最も効率よく吸血鬼を殺せるから。
殺したくてたまらないから、殺している。
「君は哀れだね。君は、吸血鬼を殺したら……今度は、人間を殺したくなるよ。君にとっての敵に、人間全てが映る」
千鶴は弱弱しくも笑う。
ただ、この男は殺したいだけだ、と。
自分にとっての敵と名義した存在ならば殺していいと殺害理由を作っているだけ。
イクスは微笑みながら千鶴を甚振る。心地よい悲鳴は甘美。
悲鳴を上げながらも、千鶴は言葉をつづる。
「発端は、かぞくが、殺されたことなんだろうけどサ……でも、それは発端であるだけだ」
「それでいいじゃないですか。だってそれで俺の敵を殺せるのですから」
――なら、やっぱり僕の言葉は間違いじゃない。
――今は敵と認識した存在だけ殺すのだろうけど、そのうちその枷は外れるよ。
千鶴は声に出したつもりだったが、声は出ず掠れたうめき声になる。
抵抗する気力もなく刀に切り付けられ、千鶴の視界は徐々に暗くなり、やがて暗闇が訪れた。
◇
今は吸血鬼という敵がいるが、全ての吸血鬼がいなくなったら、きっと人間を殺し始める。今だって敵と認識した人間は数多殺している。
けど、それで構わなかった。
それで問題はなかった。
イクスは掌を眺める。褐色の手が、一瞬血に塗れた色に見えた。
錯覚だが錯覚ではない。
殺したたびに血が浸透しているのならばこの両手はすでに赤に塗りつぶされている。
「ただ、俺は殺せればいいのですよ。俺の敵を」
敵がいなくなればそれでいい。
「それが俺の望むことなんです」
呟かれた言葉は、果たして誰に向けてだろうかとイクスは自嘲する。
そろそろユベルが吸血に満足した頃合いだろうと執務室へ戻ると二人はソファーに向き合う形で座っていた。
ウルドを一瞥するが、血された跡はボタンをしめられたワイシャツで見えない。
イクスはウルドの隣に座り、腕を組む。
「イクス、話してもらえる?」
友人にだけ砕けた口調で話しかけるウルドに、イクスは微笑んで答える。
「えぇ、もちろんです」
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