第35話:The most important person
◇
リリィが飛ばされた場所はディス区のどこかだった。衝撃が全身を襲う。場所は知らない。ただ、汚れに塗れた場所に落とされたのはわかった。
身体の節々が痛むが、それ以上に心が痛んだ。
その場から起き上がろうと思うのに起き上がれない。
戻って千鶴を助けなければと思うのに、身体が拒否している。心が否定している。
「千鶴……お前、吸血鬼だったんだ」
怪我をした掌が染みる。透明な滴が降っていた。雨ではなく、瞳から流れていた。
千鶴は吸血鬼であることを隠して、リリィに血を与え続けていた。
吸血鬼が血を失うことは苦痛でしかないのに、笑って受け入れていた。
血を欲するリリィに、いつだって千鶴は血をくれた。
渇望状態で苦しんだだろうに、笑顔で隠していた。
眩しい笑顔が脳裏に焼き付いて取れない。果たしてその笑顔はいつ見せてくれた笑顔だっただろうか――千鶴の笑顔がありすぎて判断がつけられない。
胸が痛い。胸が痛くてたまらない。
叫びたいのに声が出ない。
千鶴は何度だって何回だって数えきれない程、吸血鬼だと告白する機会はあった――千鶴が子供の時から一緒にいた――けれども人間のふりをずっと続けていた。
人間のふりを続けさせたのは紛れもなく自分だと断言できた。
千鶴の血が欲しいからとせがむ吸血鬼に、吸血鬼だと告白できなかったのだ。
どうしようもなく自分は愚かだと、リリィは嘆く。
千鶴が告げなくとも、人間のふりをしていても、気づけばよかった。気づける機会はきっとあった。それなのに血に溺れて気づけなかった。
「くそっ……千鶴……」
隠し続けてきた正体を千鶴は、リリィを助けるために明かした。
即ち――と思考が回ったところで、それを否定したくて頭を振るが、嫌だと思っても思考はいうことを聞かない。
吸血鬼を審判の男は許しはしない。千鶴は殺されてしまう。
自分より弱い千鶴が、自分より強い男に勝てる道理はない。
「はっはっはは」
渇いた笑いが漏れる。
何もかも忘れて眠ってしまえれば楽だろうか。
眼が覚めたら、何もない日常に戻れるだろうか。
千鶴を人間だと思って、血を貰って、一緒に過ごす時間に帰れるだろうか。
「――違う」
千鶴をあの場に残したまま、眠ることなんてできない。
死ぬこともできない。
千鶴はきっと、戻ってくることを望んでいない。
望まないから笑顔で『さよなら』といったのだ。
けれど、それでも戻らない選択は出来ない。
千鶴が望まないことだと知っていてもなお、千鶴の元へ向う。
痛む身体を無理やり立たせる。血が流れた。激痛が身体を支配して倒れそうになるが、唇を噛みしめて一歩踏み出す。
意識が朦朧とする。意識が不明瞭になる。意識が消えそうになる。
倒れる。両手を地面につけて立ち上がる。
千鶴の元へ戻ろう。千鶴を助けなければ。千鶴に助けられたからって、千鶴のことを放ってなんておけない。
千鶴、千鶴、千鶴とリリィはひたすら自分に血をくれた青年のことを思いながら――意識を手放した。
◇
「さてと、あの男を追いますか」
イクスは血に塗れた刀をふき取り鞘に戻す。
吸血鬼は死体となれば用はない。
敵は殺したいだけ、吸血鬼は滅ぼしてしまいたいだけ。
殺せればいい。
吸血鬼の肉体を切り刻んで、その悲鳴を、その死にゆく様を、この手で実感できればいい。
もう一人の吸血鬼――劇団の演者で、曲芸を披露していた男を殺そうと思い一歩踏み出したところで思いとどまる。
「(
イクスの視線が殺した吸血鬼へ向く。『なら、時間稼ぎは君がしてくれる』とほほ笑んだ吸血鬼の目論見通り、一撃では殺したくなかったイクスは、時間稼ぎをしてしまった。
どの程度、時間を経過させてしまったのか、わからない。
何より、リリィがどこに飛ばされたのか――しかも、洗練された動作では決してない乱暴な魔術――方角から判断すればセンター区からディス区の方向だろうと憶測はつくがその程度で、何処にいる不明。探し出すにも時間がかかる。
ならば、ここで待っていればいい。
「(この男が願ったのは、あの男が生きること。死なせないために自分の命を使いましたが、しかし。その願いの意図を汲んであの男が何もしないままでいれるとは思いませんね)」
大切であるからこそ、その願いを汲むことはできないで動くことがイクスには手に取るように想像ができた。
「(ならば愚かとわかりながらも戻ってくる。そこを、殺せばいいだけですね)」
イクスの口元が自然と緩む。
吸血鬼を殺せるのは嬉しい。
吸血鬼をもっともっと殺したい。
「早く、戻ってきてください」
――俺が、殺すために。
木材を適当に集めて、椅子代わりにしていると、此方へ向かってくる足音が聞こえた。吸血鬼かと一瞬期待したが、軽快な足音からすぐに違うと判明して落胆する。
現れた人物は白と赤を基調にまとった審判の同胞だった。
イクスの方へ真っすぐと向かう。濁った瞳は、吸血鬼を殺すものの色。
「どうしたんですか?」
「休日にすみません」
「構いませんよ。吸血鬼でも現れましたか?」
ならばいつだって殺しに向かうとイクスは尋ねるが、審判は困惑したように首を横に振った。
「いえ、違います。ユベル様が呼んでいます」
「ユベルが? ウルドではなく俺を?」
「はい」
「無視します」
吸血鬼であるユベルの命令を聞く必要はないと、切り捨てる。
「それが、どうやらユベル様が、人間なのに魔術を扱える男を捕らえたそうなんですよ」
「は? それは、どういうことですか?」
意味が理解できない言葉に、イクスは驚愕しながら尋ねる。
人間が魔術を扱うことはできない。
それがこの世界の常識だ。
魔術を扱えるということは、吸血鬼であり人間ではない。
けれども、吸血鬼か人間かを判断できるユベルが、吸血鬼と人間の区別を間違うことはありえない。
ならば、ユベルがとらえた人物は理解の外にいる。
「わかりません。ただ、だからイクスさんを呼んで来いとしか……」
「わかりました。ユベルの元へ向かいます」
正体がわからない魔術を扱う人間と比べれば、イクスが待っている吸血鬼の素性は割れている。
後々いくらでも殺せる。
「では、行きましょうか」
同胞をこの場において、
誰かが吸血鬼を殺してくれるのはいつだって歓迎だが、自分の手で殺せる吸血鬼ならば、誰かに殺させるよりも自らの手で吸血鬼の最期を見たい。
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