第33話:Waking up from a dream, reality

 ◇

 アイリーンは眠りの世界から戻る。

 暗い闇の空間は心地が良かった。ただ暖かく、何もなかったことが幸せだったと曖昧な記憶が覚えている。

 出来ることなら目を覚まさず眠りの中にいたいと思ったが、身体に何か重たいものが乗っているのが気になった。

 不思議と恐怖も敵意も感じられなかった。

 恐る恐る瞼を開けてこの目で確認しようと思い、ゆっくり開く。


「おっ、アイリーン起きたか?」


 いたのはノエだった。

 アイリーンの身体を枕のようにして顔をのせている。


「……ノエ、君」


 つかの間の眠りすら幻で、今なお幻術の続きなのだろうかと身体が強張る。


「大丈夫だぞ。オレは本物だ。琴紗はもういないぞ!」


 不安な表情で今にも悲鳴を上げそうなアイリーンの様子を機敏に読み取ったノエが、アイリーンの腹部から顔上げて小さな手でそっと白髪を撫でる。


「……本当に? 嘘……じゃないの?」


 これが琴紗の幻術ではない保証はない。琴紗の幻術は現実と紛おう程精密で残酷。

 現実だと信じ込まされて何度も打ち砕かれた。

 だから、目の前にいるノエが偽物の可能性は大いにあった。


「本当だ! 琴紗の幻術くらい、フェアが打ち砕けるぞ!」


 けれど、両手を広げて笑うノエを、アイリーンは本物だと思うことにした。

 例え幻だったとしても今ある幸せに浸りたいと疲弊した心は安らぎが欲しかった。喉から手が出るほど、欲しかった。


「ノエ君!」


 アイリーンがノエに抱き着く。柔らかく小さな温もりは、依然と変わらない。


「アイリーン。遅くなってごめんな」

「そんなことないよ。どうしてレーゲース街に来られたの?」


 幻術ならば無意味な質問だ、と思いつつも気になった。

 この部屋に見覚えはないため、琴紗の屋敷ではない。

 けれど装飾品の高価さからモルス街ではないことも容易に検討がつく――例外があるとすれば、モルス街に居住を用意した悪趣味な貴族クロシェか、審判の根城かのどちらかだ――ならばここはレーゲース街のどこかだと考えるのは自然だった。


「ウルドに連れてきてもらったんだ」

「審判の……彼が? 確かに彼は貴族だから不可能じゃないけど……」


 声が掠れる。審判は軍属以上に死と隣り合わせの危険な場所なため貴族が審判になることは滅多にない。その例外の一人であるウルドならば、モルス街のノエたちを連れてくるための身分証を発行することは可能だ。


「そうだぞ。ウルドがいいよって、連れてきてくれたんだ!」


 ニッコリとほほ笑むノエに、これは現実だとアイリーンは確信した。

 ウルドがノエ達を連れてきてくれたことなんて、自分の知識にも記憶にないし、琴紗の知るよしもないことだ。

 どちらの知識にもなければ幻術でノエにこの言葉を紡がせることはできない。

 想像で幻術を演出することはできるが、琴紗もまさかモルス街に住む彼らが審判の№Ⅱウルドの手によってレーゲース街まで来たなどという荒唐無稽にしか思えないことを物語に組み込むことはしない。

 アイリーンの瞳から涙が零れた。一度零れると次から次へと流れてきて止まらない。


「ど、どうしたんだ!? どこか痛むのか? 痛いのは、飛んでけだぞ!」


 ノエが慌てて手をパタパタとさせるのがおかしくてアイリーンは涙を零し続けながら笑った。


「違うよ。嬉し涙だよ。ここが、現実だと理解できたから」

「それなら良かったぞ」

「うん。良かった……良かったよ……ノエ君だけ?」


 菫ちゃんはいないの? と暗に告げていたのをノエは読み取り満面の笑顔を作る。


「菫もいるぞ。アイリーンが目覚めたときに、大人がいっぱいいたら取り乱すだろうからって別室で待機中だ」

「いっぱい……?」

「フェアやクロシェも一緒だ、そうそ、此処はクロシェの屋敷なんだ」


 成程とアイリーンは思う。

 そういえば、おぼろげな記憶で誰かにこの屋敷まで運ばれたような気がした。黒くて大きくて、暖かい温もり。

 あれも現実だったのだろうか――いや、あれは幻だと考えを改める。

 あの知っている温もりを放つ存在はもうこの世にはいないのだから。


「それにだ。メイゼンも一緒だ」

「めい……ぜん?」


 幻は現実だったのか? とアイリーンは困惑と期待が宿る。

 何度も幻術と現実を繰り返されたせいでアイリーンの中で起きた出来事は、どれが現実であったのか判断がつけられない状態だった。


「めいぜん……生きて、たの? 僕の、せいで……殺されたんじゃ、ないの?」

「生きているぞ。メイゼンがアイリーンをここまで連れてきたんだ」


 ずっと誰かを掴んでいたような気がすると、曖昧で不確かな記憶が脳内に蘇る。


「今、皆を呼んでくるから待っているんだぞ」


 立ち上がったノエにアイリーンは慌てて声をかける。


「待って」

「どうしたんだ?」

「ぼ、僕も……一緒に行く。一人に、しないで」


 一人だとまた琴紗が襲ってきそうで怖かった。


「わかったぞ。一緒に行こう」


 そうはいったものの、何処に菫たちがいったのか知らなかったノエは、フェアの吸血鬼の気配を辿った。

 たどり着いた部屋のドアを開けると一瞬全員が身構えたが、すぐにノエと、ノエのマントを羽織りノエと手を握ったアイリーンの姿を見ると安堵の表情を――クロシェだけは面白い笑みを――浮かべる。


「アイリーン! もう大丈夫か?」


 かけよった菫が手を伸ばすとアイリーンの身体が反射的に震えた。


「だ、大丈夫……ごめん、菫ちゃん」

「何を謝っているんだ? お前が謝ることなんて何もしていないだろ」


 ポン、と頭を叩く。跳ねるように震えられたが、菫は気にしないでくしゃくしゃと髪が乱れそうな程撫でた。

 次第にアイリーンの震えは収まる。

 錯乱して何かを菫に言ったような気がする。でも、それを含めて菫は何もしていないというだろうと思いアイリーンは吐き出そうとした言葉を別の形にかえた。


「助けてくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

「……メイゼン」


 アイリーンがゆったりとした足取りでメイゼンの前に立つ。

 五年ぶりに見るメイゼンの身体は、以前と比べて筋肉が減り、衰えが感じられた。

 それでも黒々とした髪は、青い意思の強い瞳は、大きな身体は、昔と何も変わっていなかった。

 白髪赤目の子供を懸命に守ろうとした母親が病気になって、母親を守りたいと思い貴族の前に姿を見せた自分を助けて、守ってくれた人。


「メイゼン……」

「オレに対しても何も言うことないからな」

「うん……」

「アイリーン。五年も無事に生きていてよかった。ずっと心配だったんだ。琴紗がアイリーンのことを見つけられないことを祈りながらも、見つけられないってことはもう生きていないんじゃないかって不安があった」

「僕は、大丈夫。大丈夫だよ。メイゼンも生きていてよかった、生きていてくれてありがとう」


 死んだと思っていた。もう生きていないと思っていた。

 生きていることが、嬉しかった。


「おう。大丈夫だ。たった五年、親友と一緒にいただけだからな」


 笑うメイゼンに、アイリーンは柔らかく微笑んだ。

 その様子をクロシェがまじまじと眺める。


「やっぱり白髪赤目は綺麗だし、顔立ちも可愛い。小柄だし、声もいい」


 クロシェの言葉に反応したアイリーンが慌ててメイゼンの身体に隠れる。

 メイゼンがクロシェを睨みつける。


「おい」

「悪い。つい正直に思ったことが口に出た」


 この男は、とメイゼンがため息をついてからアイリーンと向かい合う。


「アイリーン。今日は休んだ方がいい。このベッドがちょうどいいな、ここで寝るといいよ」

「うん。そうさせてもらうかな、まだ……寝ていたい」

「ちょ、そこ俺の」


 口を挟もうとしたクロシェの口をフェアが両手で塞ぐ。お前はもう余計なことを言わなくていいと語っていた。


「オレたちはもう少し話すことがあるから、近くにいる。何かあったら呼ぶんだぞ」

「メイゼン、わかったよ……ノエ君。一緒に寝よ」


 アイリーンが手を伸ばすとノエが飛びついてきてその手を取る。


「おう、もちろんだぞ! 一人は寂しいもんな」

「うん」


 仲良く潜り込む二人を見ながら、クロシェはフェアの手をどける。フェアが舌打ちをしたがお構いなしに思ったことは言葉になる口が開く。


「そういえば、アイリーンって女? 男?」

「は?」


 全員の視線がクロシェに集中した。


「え? 俺なんか変なこといったか? だって男にしては女っぽいし、でも女にしては胸がないから、どっちだかわからないだろ」




 ◇

 同時刻のモルス街レリック区

 中心部に広大な敷地で構える華美に華美を重ねて着飾った空間の外側。脱走防止の高い柵で囲まれた壁を背もたれにしながら、リリィは煙草を吸う。

 煙を吐き出すと、闇夜に薄汚れた灰色の雲が出来上がる。

 誰か、殺したいなと思った。殺そうと思っていると、煙を迷惑そうな顔で払う千鶴が現れた。

 殺したい欲求は一時的に収まり、代わりに血への衝動が襲ってくる。

 リリィは煙草を投げ捨て、火を足で踏んで消す。


「千鶴か、どうした」

「公演前のリリィにもう一度会おうと思って。さっきは用件聞いただけですぐに帰っちゃったし」

「用件? なんのことだかは知らないがちょうどいい」


 あっと千鶴が顔を顰めるがそれより早く千鶴の腰に手を回し引き寄せる。首元のシャツを剥いで牙を突き立てる。

 血を吸いたい。血が欲しい、と血を貪る。

 リリィは千鶴以外の血は嫌いだった。

 その代り、千鶴の血は極上に美味しくて、全てを吸血してしまいたい欲求さえ訪れるが、それでは殺してしまうと我慢して名残惜しそうに牙を抜き取る。


「ちょっと……人が見ていたらどうするの、吸血鬼だってばれたら困るよ」


 千鶴は首元に手を当てながらリリィに抗議をする。


「別に誰も見ていないさ。ここに集まる奴らは、周囲のことなんて気にしない。この中のことを想像して欲望をぎらつかせているだけだ」


 柵をリリィは一瞥する。ここは『劇団』の本拠地。劇団が毎夜毎夜公演を行い、貴族やレリック区でも比較的金銭に余裕のあるものが娯楽として訪れる場所。


「……ってか、珍しいね。数時間のうちに人格が変わっているなんて」

「あぁ、俺じゃない俺の方に用件があったんだな」


 リリィには二つの異なる人格が存在した。

 劇団を心底嫌悪しながらも、劇団に縛られるリリィの環境がそうさせたのだろうと千鶴は推測しているが、真偽は不明だった。

 双方の記憶は混合せず、個々として別れている。

 必然記憶の欠落が生じるため、『リリィ』はお互いに別人格が存在するのを承知している。

 承知した上で、お互いに不干渉を貫いていた。

 そして、それを理解した上で、千鶴もリリィと接している。どちらのリリィも『リリィ』だと。


「そう。白髪赤目を劇団で見ていないかって尋ねたんだヨ」


 千鶴は眼鏡をかけなおしながら答える。

 リリィは劇団での演者の一人だ。だから劇団内部に詳しく菫へもたらしたものはリリィを訪ねて得た情報だった。


「白髪赤目そんなものがいたら、劇団はお祭り騒ぎだな」

「でしょう、ネ」


 千鶴の肌にごくりとリリィは喉が鳴った。

 まだ、血が欲しかった。千鶴を見ると血が欲しくてたまらなくなる。


「千鶴。もっと血をくれ」

「はっ!? ちょ、流石に」


 千鶴の要望を無視して、リリィはかぶりつく。

 牙が体内の血を奪う。血が失われる快楽と、血を渇望する苦痛が入り混じるが千鶴は表情を苦悶に変えないように神経を使う。

 吸血鬼である千鶴にとって血を吸われることは苦痛。

 血が体内から抜けていく。千鶴はもう無理、と身体を捻ろうとするが両腕をリリィに掴まれて構わない。牙が深く食い込む。

 足の力が失われ立っていられなくなるが、リリィが身体を支えているため倒れることもできない。

 暫くして牙が離れる。渇望が酷く朦朧とする。血を今にも飲みたくて飲みたくてたまらなかったが、千鶴は強固な意志で我慢する。

 吸血鬼であることを、リリィにだけは知られたくない。

 苦痛を我慢してでもリリィの傍で血を上げたい。その気持ちの方が遥に凌駕しているから。

 何故と言われれば千鶴は笑って答える。リリィだから、と。


「ご馳走様」

「どういたしまして、全く。リリィ、見境がないよ。どうしたのさ」


 リリィの頬に千鶴は手を伸ばす。二度も外で吸血されることなど滅多になかった。


「いや、仕事のストレスが溜まっていただけだ」

「そっか」


 それなら仕方ないね。と千鶴は微笑む。

 リリィの肩を露出した姿に、喉が鳴る。油断すればリリィに牙を見せて血を啜りそうだ。


「僕は帰るよ。リリィ」


 これ以上、渇望状態でリリィの傍にいるのは危険だ、と千鶴は判断した。


「そうか。じゃあ、仕事が終わったら行くから」


 リリィはこれから劇団で仕事があった。


「わかった、待っているよ」

「千鶴。血を動けなくなるまで貰ってもいいか?」

「それは、ちょっと困るかな」

「えー」

「えーじゃないから。まったくも。じゃーね、リリィ。あとで」


 千鶴はひらひらと手が隠れるほど長い袖を揺らしながら手を振り、背を向けて歩き出す。

 リリィの姿が見えないところまで移動すると壁を背もたれにして倒れる。


「――血」


 血が欲しくてたまらない。けれど、こんな場所で誰かの血を吸うわけにはいかない。

 吸血鬼だと万が一にもばれては困る。

 震える身体を必死に起こして、壁に手を付けて一歩一歩踏み出す。

 自宅までの距離が果てしなく感じられた。視界は歪み、血への渇望が脳を支配する。渇きが酷い。無関心に通り過ぎる人間を見ると、無我夢中でのどもとに食らいついて干からびるまで血を吸いたい。

 衝動を必死に我慢して千鶴は、やっとの思いで自宅へ到着する。震える身体で棚を開けると牙でパックを破る。血が飛び出す。血を舐める。足りない、もっと、もっと、もっと欲しいと次から次へとパックを空にする。

 我に返ったとき、床は零れた血で満たされていた。


「はぁ」


 血で汚れた服を見ながら千鶴はため息をつく。仕事を終えたリリィがやってくる前に、血の痕跡を掃除しなければいけないと思い、重たい身体を起こす。




 劇団での仕事を終えたリリィは殺したくてたまらない殺戮衝動が抑えきれなかった。

 殺して安心したい。

 千鶴の血が足りない。血がもっと欲しい。血は足りているのに心がもっと血を求める。

 殺人と血の間で心が乱れていた。

 だから、殺そうと思った。

 千鶴の元へ行く前に、一度誰かを殺して気持ちを抑えることにした。

 人間が殺されても、貴族やよほどの人物でない限りこの街は日常として受け入れる腐った場所。

 リリィの獲物はいつだって転がっていた。

 転がっていたから、殺したくてたまらないから、目の前に現れた男を殺そうと襲いかかった。

 殺して、安心しようと思った。

 だが、男は殺意に振り返り、凶器を真白の刀で受け止めた。


「いきなり切りかかってくるなんて、酷くありませんか?」


 柔らかい口調で、けれども容赦のない金色の瞳で、男は問う。


「お前を、殺させろ」


 殺意をむき出しにしてリリィは言い放つ。


「まるで血に飢えた獣のようですね。けど、俺は殺されたい願望はありませんよ。その俺を殺そうとするということは」


 ニッコリと歪んだ笑みを、男は見せる。命を狙われているのに対し不自然なほどの落ち着きにリリィは眉を顰める。

 珍しい白髪を褐色の肌がより一層明るく見せ、味気ない黒のシャツに白のコートを羽織っただけの男は、真白の刀を構えていった。


「貴方は、俺の敵ですね」

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