第29話:I am running away from home
「なんなんあいつ!?」
エントランスホールをぐるぐると無駄に回りながら落ち着きのない動作で菫が叫ぶ。
「婚約者を大切に思っている笑顔も、ユベルに殺されたっていう笑顔も両方同じとかどういうことだよ!」
今ならイクスがウルドに告げた言葉の意味を理解できた。
ウルドは『優しさ』を知らない。知らないから『優しい』を定義して振舞っているだけだ。
「婚約者を殺されて、ユベルの配下でいる神経も、ユベルに対して恨みを抱いていない神経も理解できない」
「……それを表情に表していないだけの可能背も否定はできないがな」
フェアがウルドをやや擁護する言葉を発するが菫は首を横に振る。
「いいや。それはない、違う」
断言しながらも、そうであってほしくないという感情も多文に含まれていることにフェアは気づく。
「ウルドは優しいけれど、優しくなんてない。だから笑顔を作れるんだ」
「ウルドは優しいぞ!」
ぴょこっとアホ毛が主張した。菫が下へ視線を向けるとノエがぴょこぴょこ跳ねて菫と目線を合わせようと格闘していた。
その奮闘がみのることはないので、ノエが跳ねたところを捕まえて抱きかかえる。
「優しくねぇよ」
「ウルドは優しいぞ! いいやつだ」
「ホント、お前年齢詐欺してないか?」
「失礼な。オレは十五だ! どう見ても十五歳だぞ」
嘘つけ。中身も外見も行動も十五歳ではないと内心でツッコミを入れながらも、ノエはこのまま無邪気で無垢なままでいてほしいと菫は切に願う。
「ってあのさ! なんで君たち勝手に人の家で騒いでいるのかな!?」
第三者の声が混じる。エントランスホールの螺旋階段から寝巻を着たクロシェが怪訝そうに、けれど面白いなという表情で現れる。
「クロシェ、久しぶりだな」
「うん……ってそうじゃなくて……」
フェアが堂々と挨拶するので、クロシェは肩をすくませながら階段を下りきり、フェアの元まで近づいてから歩みを止める。
フェアはクロシェを見る。退屈を嫌い、面白いことを求めるクロシェは退屈なレーゲース街で自分たちがやってきた変化を喜んでいるように思える。
ウルドの誘いを断ったのち、レーゲース街に以前いたフェアがクロシェの自宅まで案内して、勝手知ったる様で玄関から堂々とエントランスホールに入ったのだ。
レーゲース街のクロシェ邸は普段屋敷の主がいないので閑散としているし、警備を雇うことも殆どないので侵入は不用心すぎるほどに用意だった。
「フェアが此処にいるのは、気紛れ猫の家出だからいつ里帰りしても構わないけど、一体どういうことなのさ?」
「ちょっとレーゲース街に用があったから、貴族に連れてきてもらった。そいつの家に行きたくないからクロシェのとこに邪魔しに来ただけだ。問題はないだろう」
フェアが不敵な笑みを浮かべる。
「うん。そうだな。でも首輪をしていないのがいただけない。それだと野良猫だ」
「首輪は嫌いだからいらない。あぁ、でも私が首輪を欲しいな」
「は? どうするんだ?」
「私がクロシェに首輪をつけたい」
「冗談。俺がフェアに首輪をつける」
双方じりじりと距離をつめて顔と顔が近づく。その手には見えない首輪を所持しているかのようだ。どちらともなく笑った。
「じゃあどっちが先に首輪をつけられるかのゲームはあとでするとして、何があったんだ?」
クロシェとフェアの関係性がわからなくて、菫は怪訝しながら事情を説明してもいいものか迷う。
レーゲース街に足を運べた以上、必要以外の情報は秘密にしておくことも不可能ではない。
菫の中にあるクロシェ像は決していいものではないし、モルス街でもクロシェは悪評しか広まらない有名人だ。
けれどウルドの元にも滞在したくない気持ちが強かった。ノエはウルドに懐き、優しい人だと断言するが菫にはもはやそうとは一ミリも思えない。
クロシェのような悪人と称せれば楽だったのかもしれないが、ウルドは得体のしれない不気味な相手として菫の目には映るようになった。
「菫の友人でアイリーンってやつが、恐らくレーゲース街の貴族に誘拐された」
フェアが菫の心情はお構いなしとばかりにクロシェの疑問に答える。
「へぇ。それは見目麗しいとか、それともフェアのように珍しいどっちのタイプでだ?」
「後者――白髪赤目だ。とはいえ顔立ちも中性的で整っている。年も十代後半と若い」
「へぇそれは俺のコレクションに加えたくなるほどの珍しさだ! 白髪赤目とは俺も出会ったことはないし、その上造形までいいなんて贅沢品だ」
興味津々のクロシェの態度に菫は嫌悪感を抱きながらも、ノエと共に会話の成り行きを見守ることにした。
クロシェのことはフェアが一番よく知っている。
「お前のコレクションは私一人で十分だ」
「ははっそのくせ家出ってか。まぁいいよ。君が俺の元からいなくならない限りは――な」
クロシェが目を細めて虹彩異色症の瞳を見据える。
フェアは猫を彷彿させる独特の髪型に緩やかなウェーブがかかった緑黒の色を持ち、ゆったりとしたロープに身を包んでいる服装はクロシェが買い与えた高価な品を今でも着ている。家出する前との変化があるとしたら吸血鬼の力を封じ込める首輪の有無だけだ。
クロシェは、フェアが自分の元からいなくなったのをただの気まぐれな家出だと認識していたので、自分の元から逃げ出したフェアを殺そうという思考は微塵もない。
「誰に誘拐されたかはわかっているのか?」
「恐らく琴紗だ」
「は? あの優等生が? ……にわかには信じられないんだけど」
「だが、可能性は高い。琴紗はどんなやつなんだ?」
「国に忠誠を誓い、信頼が厚い貴族だ。国を守るために裏切り者のメイゼンを殺害してからはなおさらのこと信頼と称賛を手にしている。誰に対しても優しくて親切。あまりにも善良なので、裏があることを疑う人間もいたが、怪しい噂は一つも発見できず、疑った人間にすら手を差し伸べる。善良の見本のようなやつだ。けど、そんな奴が白髪赤目を誘拐……購入か? 手に入れるなんて――面白い」
クロシェの口元が歪んだ。不謹慎だ、と菫は喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「モルス街での評価も一貫していい人だ。だが、アイリーンが誘拐された可能性がある以上、琴紗の元へ行く必要がある。手を貸せ」
「いいよ。琴紗の自宅なら知っている、あいつも貴族だからな……貴族街の邸宅で暮らしているよ」
指先をピンと伸ばして琴紗がいるだろう方角を示す。
「……ん? 待て。裏切り者のメイゼンってどういうことだ!?」
菫が問い詰める。先刻は不謹慎な態度の方に気を取られていたが、改めてクロシェの言葉を吟味すると裏切り者のメイゼンという言葉が引っかかった。
メイゼンは嘗てモルス街に生きる希望を与え――そして希望を奪った人物の名前だ。
モルス街の人間に貴族とは思えない程分け隔てなく接し、食料を恵、モルス街の治安をよくしようと尽力した。
その姿にモルス街は生まれ変われるのではないかと人々は、メイゼンに希望を抱いた。
だが、それはつかの間の希望。いつしかメイゼンは姿を見せなくなった。希望を抱いた反動の絶望は大きかった。所詮貴族の暇つぶしだったのだと、誰もが落胆した。
「モルス街に希望を与えた風変わりな軍人であったメイゼンが、モルス街から姿を消したのは、彼が殺害されたからだ。琴紗にな」
「……裏切り者っていうのは」
「メイゼンは他国のスパイだったようでね、それを親友の琴紗が突き止め、投降するように部下を引き連れて現れた。けれどメイゼンは親友の言葉に耳を貸さず、琴紗の部下を皆殺しにした。結果、琴紗がメイゼンを殺害したんだ。死んだからメイゼンはモルス街から姿を消した。それが真相だ。尤も、国を裏切っていたのだから、モルス街を裏切ったといっても間違いではないけどね」
菫の驚愕した顔が楽しいとばかりに笑いながらクロシェがメイゼンについて本を朗読するように語る。
菫はメイゼンが死んでいるとは思ってもみなかった。モルス街で殺害されたのならば、間違いなく軍属が動きその犯人を捕まえる。動きがないということはモルス街に足を運ばなくなっただけだと思っていた。
レーゲース街は法に守られた平和な街。ゆえに、生きているものだと思っていた――菫だけでなくモルス街の誰もが。
「以上。俺が知っている情報だよ」
「琴紗の自宅はどこだ、今からいく」
「夜にか? どうせなら一泊して明日にすればいいだろ」
「ダメだ。琴紗に誘拐されたのならば一刻も早くアイリーンを助け出したい。明日までなんて待っていられるか!」
「そうだぞ」
菫の力強い言葉にノエも手を挙げながら同意をする。
「アイリーンが悲しい思いをつらい思いをしているかもしれないんだ」
既に、レーゲース街に来るために夜まで待つ羽目になっていた。これ以上時間を無駄にはしたくない。早く、アイリーンの無事を確認したい。
ノエと菫の強い瞳に気をされてクロシェやれやれと呆れながらもその表情はどこか楽しげだ。
「わかったよ、じゃあ道案内もかねて俺もついていこう。だが、どうやって確認するんだ? 貴族の俺が一緒だったとしても、白髪赤目を手に入れましたねなんて言ったってはいそうですって誰も認めないぞ。強行突破で部屋に侵入して確認するか? だが、外れだっだ場合はどうする? 憲兵を呼ばれて終わるぞ、リスクはちゃんと考えているんだろうね?」
クロシェの言葉に菫は無言になる。
「はぁ、考えていないわけか。よし、じゃあ行き当たりばったりでいくか!」
それはそれで楽しいとクロシェは乗り気になる。物事にトラブルはつきものだ、と言わんばかりの態度は不快だが、同時に頼もしくもあった。
「ただし、俺は別に楽しいことならいつだって大歓迎だからいいけど、ここへ君たちを連れてきた貴族に迷惑が掛かる可能性だけは考えておきなよ」
レーゲース街にモルス街の住民が入れる道は一つだけ。貴族に身分証を発行してもらうこと。即ち、菫たちがレーゲース街にやってこられたのは貴族を頼った以外にはありえない。
「あう……それは」
ノエがどうしようと困惑したので、菫は大丈夫だと優しく抱いたままのノエをぎゅっとする。
「大丈夫だ。連れてきてもらった貴族はウルド。何が起きたって迷惑にはならないだろ」
「――ウルド・ユーツヴェル……確かに何が起きたってもみ消せる力はあるし、不問にさせられるだろうけど……吸血鬼が審判を頼るってどういう了見さ……」
クロシェの瞳が吸血鬼のフェアを不安そうに見える。吸血鬼と審判が一緒にいるなど、吸血鬼を殺してくださいと両手を広げて歓迎しているようなものだ。
いつフェアが殺されても不思議ではなかった状況はクロシェとしては歓迎できない。
「非番の時、あいつは吸血鬼を殺さないから……まぁ問題はないだろう」
「そういう問題でもないんだけど……そうだ。一つ聞きたかった、どっちが吸血鬼? 俺の予想だと子供の方だと思うんだけど」
クロシェがノエと菫を交互に指さす。
「オレが吸血鬼だぞ」
「なるほど。じゃあフェアの首輪を外したのは簪をしている君の方か」
「何か問題はあるか?」
菫がクロシェを睨みつける。
「いいや。ただ吸血鬼の首輪を外す物好きがいるなんて、予想外のことだったからさ、気になったんだ。疑問も解消したしさぁ行こうか! と、寝巻だから流石に着替えてくるわ」
クロシェが流石に外出には適さないと藍色の寝巻を指さして、着替える間、応接室で待っていてとフェアに案内を命じた。
「早くしてくれよ。一分一秒でも無駄にしたくはない」
「了解。で、君たちの名前は?」
「ノエだぞ!」
「俺は菫だ」
「おーけ。俺のことは知っているだろうけどクロシェ。もしも何かあったら、ランゲーツ家のクロシェって名前を出しな、大体は解決するからそれで」
クロシェは二段飛ばしで階段を駆け上がっていった。
菫はノエを床に降ろす。フェアの案内で応接室まで進んだ。広々とした空間は菫の家を分解して横に並べるよりもまだ広い。
菫は身体を包みこむように沈むソファーに座りながら、クロシェを頼ったことが正解かを思案する。
正解かはわからない。
思考回路は面白いか面白くないかの二択で回る悪質な男。
けれども、貴族街に限っては頼もしいことだけは確かだな、と結論づける。
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