第20話:大切な人

 言葉が合図となり、イクスを拘束していた不可視の糸が切れた。

 イクスはいたたまれず、路地裏の奥へ逃げるように走り出と、逃してたまるかとイクスが義姉と呼んだ女性が追いかける。

 突然の出来事にノエは戸惑い、二人の背中を眺めるしかなかった。

 この背を追ってもいいものか悩む。


『おまえの恋人を――私の妹を殺したな!!』


 黒髪を乱し悲憤の姿が蘇る。

 イクスの不安定に揺らいだ瞳がノエの心を不安にする。

 暖かかった掌から温もりが消えるのが嫌で、ノエは真っすぐ前を見据えてイクスを追いかけようと狭く迷路のような路地裏へ走り出す。



 センター区画から遠ざかり、ディス区へ踏み入れると光景が一変して薄汚れた建物が並ぶ隙間を、我が物顔でイクスは暫く走ったところで歩みを止める。

 息は乱れていないのに呼吸が苦しかった。喉に手を当てる。渇く。心を落ち着かせようと思っても、落ち着かない。


「逃がさないわよ」


 義姉が間を開けずに姿を見せてヒールをカツンと思いっきり鳴らし存在を主張する。艶を失った黒髪が風になびき揺れる。

 青い瞳が鋭く睨みつける眼光に耐えられずイクスは目をそらす。

 大切な人の姉。

 会いたくない人だった。


「おまえは、私の妹を愛していなかったのか?」

「愛していますよ。この世で一番大切な人です」


 即断する。

 その言葉は義姉の逆鱗に触れる。


「ふざけるな!! だったら、何故妹を殺した! 愛していた恋人を何故、あんな残虐に殺すことが出来たんだ!」


 憎悪と悲痛が入り混じった感情の叫びが響く。

 この街の人間は誰もが喧噪を我関せずと関わり合いになろうとしないから、野次馬の姿はないことだけは、イクスの不安定な感情の中でも研ぎ澄まされた感覚がとらえていた。

 一歩、一歩、義姉が距離を詰めてくるたびに、愛していた彼女の姿と重なる。

 薄汚れた建物も、周囲の騒めきもが視界から消える錯覚に陥るほど、イクスには義姉しか映っていなかった。


「妹はおまえを愛していた! お前のことが大好きだった! 幸せに生きていた! それなのにおまえは殺した! 何故だ! あの子が何をした!」


 苛烈な言葉にイクスの表情が歪む。


「だって、仕方ないじゃないですか」


 泣きそうで、笑いそうな微笑みを浮かべる。

 愛していた。

 彼女のことは誰よりも愛していた。

 未来永劫、彼女以上の女性と出会うことはないと断言できるほどに大好きだ。

 それは嘘偽りざる本当であり真実。

 イクスは、彼女のとの未来を夢見ていた。



 ◇

 彼女と繋いだ手は柔らかくて暖かくて幸せだった。


「イクス、怪我しているわ。大丈夫?」


 仕事中に右手首を怪我した。血が滲んでいるのを彼女の自宅に花をもって訪れたとき見つかってしまった。

 彼女は優しく消毒をして包帯を巻いてくれた。

 雪のように白い指が、イクスの手首に触れるだけで痛みなど忘却できた。


「かすり傷ですよ、この程度」

「でもちゃんと直さないと」


 心配させてしまった申し訳なさと、心配してくれた嬉しさが心に宿る。

 有難う、とほほ笑むと彼女は少しだけ困った表情をする。


「全く、気を付けてよ。イクスは本当、仕事熱心なんだから」

「大丈夫ですよ、俺より仕事熱心な人はいますから」

「本当? 私はイクスが一番仕事熱心な気がするけど」

「そんなことないですよ。いつか俺の友人とも会いましょう」

「えぇ、楽しみにしているわ。イクスを宜しくお願いしますって言わないとね。っと仕事で疲れたでしょう? 今ご飯を用意するね」

「お願いします」


 黒のストールを椅子の上にかけて、ふんわりと柔らかい黒髪をゴムで一つに縛り、白のエプロンを纏って台所に立つ彼女の姿を自然とイクスは目で追ってしまう。

 彼女との生活は幸せだった。

 夕食を食べ終えた後、イクスは密かに用意していた贈り物を胸ポケットから取り出し彼女の掌へ載せる。


「これ、どうぞ」

「ちょっと、これどこの貴族様から盗んできたの?」


 プラチナの指輪は、モルス街で生まれ育った彼女が見ても一目でわかるほど高価な品だった。


「盗んでいません! 給金で購入したんですよ」


 心外です、とイクスが笑う。宝石の飾りや純金の指輪を購入することも考えたが、銀色の輝くプラチナが一番彼女の滑らかな指に似合うと思ったのだ。


「冗談よ、だってこんないいもの……モルス街で手に入るなんて思わなかったから。つい驚いちゃった。でも、よく考えたらイクスの刀もモルス街の品とは思えない程高価だし、いるところには腕利きの職人さんもいるのね。とっても嬉しいわ、有難う。でも……高かったでしょうこれ」

「赤錆の指輪はプレゼントしたくありませんからね」

「心がこもっていれば赤錆だって嬉しいわよ」

「男として……それはちょっと……」

「ふふ。イクスは指輪ないの?」

「お揃いでありますよ、ほら」


 服の下に隠れている指輪をネックレスのチェーンを引っ張って取り出しお揃いの指輪を見せる。


「指にはしないの?」

「指輪を傷つけたくないので」


 指輪が傷つけば彼女との思い出が汚されるようで嫌だった。

 彼女は窓を開けて太陽が沈んで満月が辺りを照らしている空間で指輪を恍惚と眺める。

 やがて、雪を彷彿させる指に指輪をはめてイクスの見せる。


「似合うかな?」

「誰よりも似合いますよ」

「ありがとう、イクス」


 艶やかに微笑む彼女が美しくて、イクスは正面から抱きしめた。


「――大好きです」


 暖かくて幸せだった。


「私も、イクスが大好きよ。と、そろそろ仕事の時間だわ」


 ストールを羽織った彼女が満月のように明るい笑顔を浮かべる。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 彼女との毎日は幸せで、心から笑える日々だった。

 この日常が永遠であればいいと願った。




 ◇

 けれど。叶わなかった。


「だって――吸血鬼だったんですから」


 彼女は人間じゃなかった。

 愛した人は吸血鬼だった。


「仕方ないじゃないですか。吸血鬼は敵なんですから」

「そ、それだけなの……か」

「それ以外なになにがあるのですか」

「なっ――! それなのに、愛していると未だもほざくのか!」


 想定外の言葉に、義姉は瞳が飛び出しそうな程見開き頬を涙が伝う。


「彼女は吸血鬼だから殺しました。けれど、彼女のことは愛しているのです。誰よりも、愛おしいのです」

「なんでだっ! そこまで愛していると今でも断言できるなら! 妹を殺すのではなく助けてくれても良かったじゃないか! 人間とか吸血鬼とか! そんなどうでもいい種族の違いなんて!」


 泣きそうな微笑みを浮かべるイクスが益々もって許せず義姉は叫ぶ。


「だって、仕方ないじゃないですか」


 だって、と言い訳のように言葉を繰り返しながらイクスは滔々と語る。


「だって、好きでも、愛していても、大好きでも、敵は殺さないといけないんですから」


 笑顔を向けるイクスに義姉は開いた口が塞がらなかった。

 結婚こそしていなかったが、おしどり夫婦のような仲睦まじい姿を見てきた義姉は、イクスならば妹を幸せにしてくれると確信していた。

 彼ならば、妹が吸血鬼だと知っても受け入れてくれると思っていた。

 だが現実は非情だった。

 妹の無残な亡骸を見た。イクスは妹を殺して姿を晦ました。

 けれど、何故殺されたのかは知らなかった。

 のっぴきならない事情があるのではないかと――例えそうでも絶対に許せないことではあったが――微かな希望があった。

 けれど、イクスから語られた言葉は、非道を突き付けられるだけだった。

 愛は本物だと確信できると同時に、殺意も本物だと理解してしまった。

 愛と殺意が入り混じった感情が許せない。

 絶対に許せなかった。


「義姉さんこそ、何故、今更俺の前に姿を見せたのですか、どうして俺を探したのですか」


 イクスは手を握りしめる。

 現れないで欲しかった。姿を消したままでいてほしかった。

 そうすれば、そうすれば――とイクスは思う。


「妹を殺したおまえを、殺すために決まっているだろ!」


 再会する前は、激怒こそあれ、妹を愛していた姿を知っていたから、殺意まではなかった。

 けれど、イクスの歪んだ笑顔に、語られた言葉に、殺意が宿り爆発した。

 駆け出して手を伸ばす。

 イクスを、妹を殺した敵を殺すために。

 義姉の殺意をうけて、イクスは顔を歪ませる。


「吸血鬼と人間の間に子供は生まれません。吸血鬼は吸血鬼の両親から生まれ、人間は人間の両親から生まれます。つまり――彼女と血の繋がりがある、義姉さんも吸血鬼です」


 空を見上げれば曇天とした空が広がり、太陽を覆い隠す。


「貴方も――俺の敵、です」


 握りしめていた刀を抜き取り、滑らかな動作で飛び込んできた義姉の身体を容赦なく切り裂く。

 鮮血が飛び散り、口から吐き出した血の塊がイクスに降り注ぐ。


「敵は、殺さなければいけません」


 笑ったイクスの顔に、義姉は表情を歪ませた。



 ◇

「はっ、はっ、はぁ……」


 イクスは荒い呼吸を整えようとしたが無理だった。

 息が苦しい。胸が苦しい。可能なら掻きむしってしまいたい。

 目の焦点が合わない視界の中で、前を見ると義姉の無残な死体があった。

 両手を眺めると、肌の色が隠れるほど赤に染まっていた。


「何故……死んでいるのですか」


 掠れた声で問いかけるが、死体に返事はない。

 義姉を何度も繰り返し刀で刺した。

 憤怒は途中から悲鳴に変わり、最期には懇願に変わっていた気がする。

 助けて、と叫んでいた気がするが、記憶はおぼろげだった。

 殺したのは間違いないのに実感が湧かない。

 肉を貫く感触が手にはあった。真白の刀は深紅に染まっている。


「あぁああ……」


 イクスは両手で顔を覆う。

 彼女の義姉だった人を殺してしまった。

 殺したくないのに殺してしまった。

 どうして、義姉は目の前に現れたのか。


「俺の前に、姿を現さなければ……貴方は生きていられたのに」


 そうすれば、殺さずに済んだのにと声にならない悲鳴を上げる。

 大切な人の姉だった。

 でも、吸血鬼だった。


「けど……仕方ないですよね。だって吸血鬼なんですから」


 脳裏に恋人と過ごした思い出が蘇り、走馬灯のように流れる。

 愛していた。

 大好きだった。

 でも、殺した。

 吸血鬼だと露呈した彼女の前に現れたとき、涙しながら笑顔を見せて安堵した姿をイクスは忘れられない。

 助けて、と彼女は懇願した。

 でも、イクスは刃を振るって殺した。

 何度も、何度も刀を突きさした。

 涙をこぼしながら、笑いながら、殺した。

 だって、吸血鬼だったから。


「……っ」


 苦しい。胸が苦しい。

 何故、大切な人は吸血鬼だったのだろうとイクスは涙のない泣き笑いをする。


「い、イクス」


 震えと怯えを含んだ声に、一瞬幻聴であれとイクスは願った。

 けれど現実だ。

 慌てて背後を振り返ると、壁に両手をついて困惑の瞳を浮かべるノエがいた。


「ノエ、どう、して……ここに」


 絶望に声を震わせながら立ち上がったイクスの手には――刀が握られていた。

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