第17話 地球の記憶を食む獣(7)

「次期当主様専用の餌、いったいどんな美味かしら」

 舌舐めずりした不審者を見た直後、悪寒が夕の背中を這った。

 不審者は、大人の女性らしい鼻筋の通った顔を歪め、まつ毛がくっきりと目立つ瞼を半ば閉じ、瞳をうっとりと濡らしていた。

 夕はその瞳に絡み取られ、つい唾を飲み込んだ。いつも抱きしめてくれた母の優しい瞳でも、朝の意地悪だけれど見守ってくれる瞳でも、そして育花の……。そのどれとも、不審者の瞳は違っていた。

「お前の餌じゃない」夕は顔を足下の白詰草に向け、吐き捨てるように呟いた。

 記憶喰は、人の記憶を食べて生きる。

 そして人の記憶しか食せない。

 それは祖父から教わったことだ。そのための贄――腹を空かせた記憶喰が飢餓で狂い、万象の記憶を食らい尽してしまう見境なしの獣とならないよう、自分の記憶を差し出す。

 つまり夕はいずれ、育花の一日三食の餌になるのだ。

 けれど夕は、人の記憶を食べる記憶喰、を見たこともなかったし、ましてや、自分の記憶が食べられる状況なんて、想像していなかった。両親や姉、祖父、一族全てが記憶喰の存在を信じているので、夕もそれを信じているだけだ。

 神様を信じているようなものだ。

 姿形は見えずとも、血の連なるすべての者たちが信じている存在――「まさか、本物……本物に襲われるなんて」

 夕は後ろで固まっている育花をちらりと見る。

 次期様も、あぁなってしまうのか。夕は生唾を飲み込んだ。冷たい汗が夕の首筋を流れる。

 お前も、同じだ。近寄るな。

 もしも夕が禁を破り、儀に前の育花に真実を告げればどうなるだろう。

 育花は獣になることを拒否し、自ら死を選ぶかもしれない。白詰草を愛で、里から一歩も出たことのない育花の初心な瞳を見て、夕はそう思った。

 だから朝や当主様は必ず口と噤めと夕を叱咤したのかもしれない。

 少なくとも、あの気味の悪い瞳をした不審者と同じ獣になど、育花はなりたいなんて思わないはずだ。

 そして夕は育花の贄であり、育花が獣にならないように守るための存在なのだ。

「必ず守るから……」

 育花の膝は、生まれたての子馬のように弱々しく揺れていた。

 守るんだ。僕はそのために……そのための贄だ。

 だからこそ夕は不審者に自分の記憶を食らいつくさせるわけにはいかない。

 覚悟を決めた夕は、両手で頬を叩いて気合いを入れた。その勢いに任せて、不審者に向って仁王立ちしてみせる。

「いいわぁ。いいわよぉ」不審者は腕を組み、胸を押し上げ、月へ向って、吠える。

「生造の魚を食べるのってこういう感じかしら? それとも狩りの醍醐味? 懸命に生きようとする獲物を食べる贅沢。本当にいいわ。素敵。あきらめきった餌を食べるより、ふいのことにきょとんとした無防備な餌より、断然いいわ。……気が変わった。契約違反になるけれど、あなたの記憶、一片たりとも、次期様にあげないわ。食べ尽くしてあげる」

 次の瞬間、不審者が僕との距離を詰めた。

「君はわたしのものよ! 他の人になんて渡さない」育花は叫んでみせたものの、その瞳は弱弱しかった。

「いいから離れろ!」育花まであんなのになっちまう!

 夕は前に出ようとする育花の胸元に両手を当てて、そのまま後ろに突き飛ばした。白詰草の原っぱに、育花は仰向けに倒れる。小さな悲鳴をあげたとき、育花の白い歯が見える。

 血の成せる業なのか。育花の上下の歯の間を糸引く唾が、月明かりで白銀色に輝いていた。成人の儀まで抑え込まれているはずの育花の食欲が、不審者によって無理に引き出されそうとしているのかもしれない。

 次期様を獣にさせない。

 育花が次期様である限り、記憶喰になることは決まっている。だからこそ、贄である夕は次期様に出会えた。

 夕は、心の底から、この育花を獣にしたくなかった。

 一生、記憶喰の本能を心の奥底で閉じ込めたままに、してあげたい。

「あらあら、いいのかしら? 次期様の心配をしていていいの? こちらの目的は君の、美味しそうな記憶なのよ」

 不審者が僕の背中へ手を合わせる。

 しまった! と言う隙間もなく、僕の周りに青い帯が数多に重なっていく。

「あなたの記憶を喰い尽せば、鎖を失った次期様は外道に落ちる。あなたの守りたい人は見境なく人の記憶を食べる獣になるしかないわね」

 さっきの育花のときと同じ……ではなかった。

 その帯の一つ、一つに、色んな年齢の男の子が映っていた。写真のように動かない男の子もいれば、コマ送りに動く男の子もいる。

「これ、全部、僕……」

「あら、記憶を全部浮き上がらせたのに喋れるの? さすが次期様の贄ね。大した精神力だわ」

 声しか出せず、身動きできない僕を尻目に、不審者は青い帯に映し出された赤ん坊の、僕、へ近寄った。

 お母さんに抱かれた僕。足元にはお姉ちゃん。少し離れたところに父と祖父がいる。

「幼い頃の記憶って、生臭くなくて、柔らかくて、特に美味しいのよね」

 不審者は鋭く尖らせた指を、赤ん坊の僕へ穿つ。

 苦しい。痛いより、苦しい。僕は奥歯を噛みしめて、心臓を締めつける苦しみに堪える。

「いただきます」

 不審者の綺麗な唇が醜いほど上下に開く。その下から現れた白い歯が一気に、青い帯に映る僕の記憶を食いちぎった。赤ん坊の僕の顔、その鼻から上がなくなる。歯型が残る断面から、血が噴き出すように、青い血が噴きあがる。

 青い液体の量は、記憶に残る感情の濃さを表しているらしい。そんなのわかっていたって、最悪で気持ち悪い。夕の喉が、勝手に逆流した胃液で焦げる。

「おいしい……」咀嚼する不審者の頬が上気する。

 けれど行儀悪く食べながら、うっとりとした声を漏らしていた不審者の口から突然、獣のような唸り声が発せられた。不審者はその細い指で、自分の喉を掻き毟り、白詰草の上を転がった。月明かりの青い草の上に、赤色の吐瀉物を吐き散らす。

「……赤い」

 育花の声が、夕の耳に届く。

 青かったはずの、記憶を映し出していた数多の帯の色が、赤に代わっていた。帯に囲まれた内側の空間だけが夕焼け色に染まった。

「やるわね」

 不審者が腕で口元の汚れを拭いつつ呟いた。「良い毒だったわ」不審者の足はふらつき、だらりと両手を下し、手はときどき大きく痙攣している。それでも、瞳の妖艶さはさらに増していた。

「さすがは最強の獣を手なずける毒ね。いいわ。とても素晴らしい攻性記憶」

 夕は、不審者の瞳の強さに負けないよう、不審者と合わせた目を外さなかった。厳しい修行で身に付けた真っ赤な嘘の記憶――攻性記憶。本物の青い記憶が記憶喰にとって飴ならば、赤い記憶は、記憶喰が欲求のままに記憶を食べすぎないよう躾けるための鞭だ。

「あっという間に、記憶を塗り替えたわね」

 不審者は痙攣したままの指で、夕を指差した。「でも毒があるからこそ、美味しさも増す」

 帯だけではなく、映っていた記憶の中の夕も、全て今の夕と同じ姿になり、真紅色に染まっていた。そして大勢の夕が弓を構えていた。鏃は全て、不審者へ向いている。

「スペックはそちらが上でも、ね。記憶喰との戦い方も知らない坊やに負けるつもりもないのよ」

 不審者は両手、両足を振った。痺れは取れてしまったらしい。舌舐めずりすると、膝を軽く曲げ、上半身を前へ倒す。だらりと地面へ向って落とした腕は、獣の前足のようだ。

 不審者が白い歯を剥き出した。

 夕は瞼を擦った。不審者の口に、あるはずのない二本の牙を見たからだった。

「くそっ!」恐怖に負けて焦った夕は全ての赤い矢を、射程外の不審者へ向けて放った。

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記憶喰 @9mekazu

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