第16話 地球の記憶を食む獣(6)

「きゃっ!」育花の足に草が絡みつく。

 夕は前に倒れそうになった育花の手を引っ張って救い上げようとする。

 しかし下りの坂道を駆け下りた勢いで、育花の体が夕の腹に飛び込んだ。

「くそっ!」

 夕がどれだけ腕と足に力を込めても、育花の体を受け止められなかった。

 満月の青白い光で隅々まで照らし出されていた白詰草の原っぱに、二人はもつれ合って転がった。

 どうして屋敷の奥にある洞窟から、屋敷ではなく、山の麓の白詰草の原っぱへ逃げてしまったのか? 転がりながら、夕はいまさらそんなことを考えていた。育花にとって、安心できる場所は、傅く人のいる屋敷ではなく、一人になれる原っぱだったのかもしれない。

「ご、ごめん」

 柔らかい育花が息苦しそうに、夕の腕の中で強くもがいていた。

 夕は慌てて手を踏ん張り、下に敷いていた育花から退いた。

 育花は、抱きついていた夕を睨むことなく、「こっちこそ、ごめん」と囁いた。

 気にしないで。夕はそう返答して立ち上がろうとした。

 そのとき突然――、

「な、なに?」驚いた夕が、半音高い声を上げる。

 夕の堅い片腕を、育花が両手で掴んでいた。

「……朝さんも、逃げられたかしら」

 育花の声は途切れがちだった。けれど荒い呼吸を整えるのも後回しで、育花は夕にそう尋ねずにはいられなかったのだろう。

 不安そうな育花の瞳に何か答えようとすればするほど、夕は言葉を失っていく。

 夕は小刻みに唇を動かしただけで、一言も育花へ答えられなかった。

「……逃げて良かったのかなぁ、あっ、その、ごめんなさい。君が襲われそうになったのよね」

 その言葉を聞いた瞬間、夕の中の育花に対する気持ちが反転した。

 何も知らない幸せな次期様。夕は頭の中だけで毒づいた。


 わたしが引きとめている間に!


 あのとき、不審者の女の両手首を掴んだ朝が、二人に叫んだ。

 次期様のためだけに存在せよ――夕の耳の奥で何回も繰り返して聞こえてくる祖父の言葉。お前は、次期様を守るために、これから生きていくんだ。祖父と二人きりで修業した五年間、毎日言われ続けた言葉だった。

 祖父たち、姉も、自分自身も含めて、育花は死んででも守るべき存在だった。

「お姉ちゃんのことが気にならないの?」

「おっ……なんでもないよ」

 育花が怪訝な顔で首を傾げる。

 お前のために残ったんだぞ。その言葉をぐっと喉を引き締めて体の中に留めた。それに反応するかのように、夕の心臓が痛くなる。

 夕はどうしても、育花を睨みたくなる。育花も夕から目を逸らさない。

「早く逃げなくちゃいけない……」

「本当にいいの? お姉ちゃんを助けに帰らなくても? ……君は逃げて。わたしが何とかする」

「違うっ。……狙われているのは……」お前だ。

 はっと、夕は寸前のところで口を手で覆った。

「きっと大丈夫だ、よ」

「だったらいいけど……」顔を近付けた育花の息が、夕の鼻を温める。

 夕は唇を噛みしめた。四つん這いの格好から横へ倒れるようにして育花から離れた。育花からさらに離れるために原っぱの上で数回転がり、仰向けに両手両足を原っぱへ投げ出した。草の苦い匂いが、喉の奥を刺激する。そして、育花を睨む代わりに、白銀の月を睨みつけた。

「それに、もう逃げなくてもいいみたいだ」

 夕の視界の端で、山の上の屋敷に橙色の灯りが点った。

 育花も夕の言葉につられて、屋敷へと顔を向ける。

「屋敷の人も、不審者に気づいたみたいだ」

 夕はそれだけ言うと、大きく息を吐いた。

 きっと朝が上手く逃げ出し、館へ逃げ込んだのだ。屋敷には女性しかいない、けれど人は多い。不審者がどれだけ強く、残忍だとしても、騒ぎになれば逃げだすはずだ。

 これで育花を恨まなくてすむ。夕は肘を地面へ突いて、上半身を起こした。夕は、優しい気持ちで、育花と目を合わせられた。

「あの人は、君だけを、襲うの?」

「……そうかな。わからないけれど、プロだったら、こんな状況で、ターゲット以外の人間を襲ったりしない」

 夕は自嘲しそうになるのを、懸命に堪えていた。自信のない自分を見せて、育花をこれ以上怯えさせないためだ。

 言葉に根拠はない。プロとか、ターゲットしか狙わないなんて、マンガとアニメの受け売りだった。もちろん夕に暗殺者の知り合いなんていない。それに殺人鬼ならば、手当たり次第だろう。

 けれどあの不審者は仕事と言った。夕はその言葉を信じるしかなかった。

「じゃあ、わたしは君を守ればいいだね」

 育花が確かめるような強い声で言った。

 突然現れたあの女は次期様を、容易く殺すため、僕を殺そうとしている。

 つまり、獣を殺すには餌を断つ、というわけだ。

 姉の言葉を思い出したとき、夕はやっと自分の手の震えに気づいた。祖父も口酸っぱく教えてくれた次期様の餌である贄の宿命が、急に現実を帯びてくる。

「主人公やヒーローを献身的に助ける役に憧れるけれど……」僕は次期様のために用意された餌。平気だと思い込んでいたのに。夕は手に力を入れて、震えを止めようとする。けれど指の関節さえ動かない。


 記憶喰いは一度、記憶を食べ始めれば、定期的に記憶を食べ続けなければならない。その食事になる記憶を無条件で差し出すのが『贄』なのだ。


「君は、誰にもあげない」

 育花が上半身を起こしながら呟いた。

「次期様?」

「君は、わたしのもの」

 育花の声は、どこか熱っぽかった。夕の心臓が、いつの間にか高ぶっていた。月明かりを背にした育花の表情を、夕は見られない。それなのに夕は、育花の吐く深い息を見た気がした。まさか、夏なのに。夕は瞼を擦った。

「他人にとられるなら、いっそ……」

 育花の声が耳元で聞こえた瞬間、夕は驚いて目を開けた。育花が夕の傍らまで近寄っていた。

 育花は頬を上気させ、目を潤ませていた。開けた口の下から白い歯が見える。上と下の歯は糸を引いていた。夕はすぐに涎だと気づく。

「次期様……うっ!」

 育花が夕の肩を押さえつけた。歳の近い女の子の力と思えないほどの圧力で、夕はなす術もなく原っぱへ押し倒された。土と白詰草へ、頭が沈む。目の前に広がっていた夜空を、育花の顔が隠した。下から涎が落ちて、夕の上唇を濡らす。涎はゆっくりと耳元へ流れていく。育花の涎は不思議と、甘かった。


 お仕えする次期様が、もしも普通でなくなったら……。


 夕の頭の中を、厳しい祖父の声が駆け巡った。このとき、贄として、しなければならないこと。それを五年間も学んできたはずなのに、夕の体はとっさに動かない。何故だろう? そう自分に問うても、夕は答えを出せない。ただ、育花の上気した頬、潤んだ瞳、そして甘い涎を滴らせる口を見れば見るほど、体は固まっていく。

 完全に硬直した夕の頬を、育花の両手が挟む。


 次期様が食欲を抑制できなくなれば、お前の記憶を食い尽くされる。存在の死がお前に訪れるのだ。贄は餌であると同時に、全人類の記憶すら喰っても喰い足りない獣を調教する役目も背負っているのだ。


 そんなのこと言っても、何もできないよ。夕は幻の祖父へ、弱音を吐いた。

 夕という存在を形成する全てを食べ尽されれば、夕の体は残ったとしても、夕はこの世から消える。それを防ぐ方法を五年間、祖父から学んだのに……。夕は自分の意気地なさに苛立つ。

 しかし、育花の動きもそこで止まってしまった。

 育花の視線と同じく、育花の手が何かを求めるように、夕の顔を弄る。しかし気持ちいいだけで、何の害も夕へ及ぼさない。

「……次期様?」

 夕が瞼を開けて、育花の手を、掴んだ。

 その瞬間、育花の周りの景色が、真っ青に染まった。フィルムか反物のような青色の帯が、二人の周囲を七重八重に覆っていく。月明かりで照らさていた青白い原っぱが、南国の海のように真っ青に、どこまでも広がっていく。

「あら? 儀の前から、能力が使えるなんて、さすが次期様と言うところかしら。生まれながらにしての記憶喰いとは、やはり獣の一族らしいわね」

 女の声と拍手が、夕の耳を劈いた。次の瞬間、周りの景色が本来の色を取り戻す。幾重にも重なっていた『何の意匠もない』青一色の帯も消えていた。

 夕の上半身から、育花の重みも消えていた。夕が体を起こすと、夕の隣で、体を縮めた育花が自分の腕で自分を抱きしめていた。

 夕はそっと自分の頬を撫でた。もし何もせずに、このまま喰い尽されていたら、僕は僕でなくなっていた。夕は唾を飲み込んだ。まさか自分を殺しに来た不審者へ感謝するなんて、夕にとって予想外のことだった。

「……私、君に何をしようとしたのかしら」

 獣――。焦点の定まらない育花の瞳と、夕は目を合わせた。顔が白いのも、月明かりだけのせいじゃないはずだった。

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