第15話 地球の記憶を食む獣(5)

「冗談はそれぐらいにした方がいいよ」

 朝が牢の扉を開けたのに、夕は扉の際まで近づいたものの、外へ出ようとしなかった。

「なんて言い草よ。それが、弟のために大罪を犯そうとしている姉に対する態度?」

「楽しんでいるだけだろ」

「……ばれた?」

 夕が厳しい目で朝を見上げると、朝はけらけらと白い歯を出して笑いだした。

「ほら、次期様からも、この頭の固い弟に言ってやって。愛のためには、どんな罪も恐れてはだめだ! って」

「えっ、あの……」

 育花は突然、振り返った朝に肩を揺さぶられた。揺れる視界の中に、夕の顔が映った。夕が朝の後ろで、頬を引きつらせている。その顔はまるで不審者へ唸る子犬のようで――「かわいい」

 育花は胸に手を強く当てた。ちょっとだけ胸やけしている。嫉妬かもしれない。「朝さんのように楽しく喋りたい」無意識に呟いた自分の声に気づいたと同時に、育花の体が火照った。慌てて頬を冷たい両手で押さえた育花は、洞窟の波打つ地面に足を取られ、固い洞窟の壁に背中を強かに打ちつけた。

「ごめんなさい。驚かせちゃった?」

 ちょっとよろけただけで、平気です。育花は心配そうな顔の朝へ、作り笑顔で返事した。

 背中から全身へ、痛みの熱さより、冷たさが伝わる。洞窟の岩肌は、初夏の夏の夜に反して、氷のように冷たかった。その冷たさが、育花を幾ばくか冷静にしてくれる。

 どこがよそよそしいのかしら。育花は短く息を吐いて、肩を竦めた。

「なにやってんだよ」夕が腰に手を当てて、朝を睨む。

「だいたいさぁ、ご当主がせっかく用意してくれた安全な場所から、どうして逃げ出さないといけないんだよ」

「確かに、ね……ざぁーんねん」

 口を尖らせた朝が顎を上げて、洞窟の天井をじっくりと眺める。

「……ご当主が、ここを、君のために?」

 育花は二人に問い直した。

「そうよ。夕を守るためにね」

「どういう意味ですか? 何から、守るんですか? 別にうちは大会社のオーナーでも、総理大臣の家でもないですよ?」

 育花は頭を抱えた。次期当主のはずなのに、育花の知らない事が多すぎる。

「矢継ぎ早ねぇ」

「朝さん!」

「わかった。ちゃんと……できるだけ説明するから落ち着いて。えぇっと、そうねぇ」天井を見上げたままの朝が指を口元へ当てる。

「動物たちが住む土地を百獣の王のライオンが守る、なんてミュージカルのストーリーって知っている?」

「最後に、ライオンの子どもが王様になる話ですよね。テレビでしていたから、なんとなく覚えています」

「ライオンの子どもにしてみれば……」朝はそう言いながら、洞窟の薄暗い中でも目立つ白い指で、育花の鼻を指す。

「責任と不自由でしかない獣の王の地位なんて、気楽な自由を捨ててまで欲しくないだろうけれど、他の獣にしてみれば、ご当主、っていうのは魅力的なのよね」

「……それはわかりますけれど」

 育花は半歩横にずれて、朝の指から逃れた。朝に指摘されるまでもなく、当主へご機嫌伺いにやってくる外の人間は、必ずと言って、育花を羨ましがった。けれど育花自身は、たとえば、誰かが外の学校へ通う自由を与えてくれるなら、次期様の立場を易々と差し出すだろう。そんな育花の気持ちを置いておくとしても……。

「次期当主の立場を得るために、襲ってくる人がいるなんて……」

「それぐらい魅力的ってことよ」

 朝が手を掲げて、弱々しく笑った。

「だとしても、それと彼を守ることと、どう繋がっているんですか? 彼を守るってことは、彼が襲われるってことですよね。次期当主はわたしなのに」

「そうねぇ。……例えば、檻の中のライオンを殺せと言われたら、どうする? ただし、檻の中に入ったら返り討ちにあうかもしれないよぉ」朝が爪を突き立てた両手を頭の上に上げて、育花へ襲い掛かるふりをして見せた。

「また、例え話。もっとわかりやすく……」

 夕が育花と朝の話の腰を折ろうとした。

「夕くぅ~ん。お姉ちゃんに指図するつもりかしらぁ~」朝が足元を照らしていた蝋燭を拾い上げると、下から自分の顔を照らす。さらに恨めしそうな声で、夕へ迫る。

 名前を呼ばれた夕が体を縮ませたかと思えば、後ろへ素早く飛び退いた。

「さっきもそうだけれど、もしかして怖がりなの?」育花は閉じた唇に力を入れて、噴き出すのを堪えた。

「ゴホン、ゴホン。弟の名誉のために話を戻すわね」

 夕は、うるさいと一言だけ言って、横を向く。

「檻の中のライオンをどう殺す?」

「え、えっと、あの、外から、銃で撃つとか?」むくれた夕に見惚れていた育花は、突然の質問に、あたふたと答えを返す。

「そりゃそうだ! それが安全で、確実だね」

 お腹を抱える夕の笑い声が、洞窟全体に響き渡った。

「お姉ちゃんの例え話が悪いんだよ」

「うっさいわねぇ!」朝は夕へ手を振って、牢に戻るように急かした。

「……銃だと、警察に捕まるかもしれないでしょう? 自分が全く傷つかないようにライオンを殺すとしたら……ってこと」

 だったらわかりません。育花は、後ろで手を合わせて謝る夕に気づいて、朝へ首を横へ振った。

 胸を張った朝の鼻が大きくなる。

「実は簡単なのよね。餌よ。ライオンに餌を与えなければいい。つまりライオンを殺すなら、餌を無くすのが一番簡単なの」

「はぁ、そうですね」

 また餌? 育花はいい加減、聞き飽きていた。そもそも、それと夕を守ることの関係が、育花の頭の中で、一片も見えてこない。

「例えが悪すぎるよ。困っているだろ?」

「えぇっ! そうなの? 恋愛マンガとかだと、恋愛上級者が思わせぶりな例え話を出すのって定番なのになぁ」

「どこの定番だよ。そんなの一つも知らないよ」

「男の子の夕に言われたくない!」

 二人の応酬する声が徐々に熱を帯び、洞窟の外の虫や動物まで少し騒ぎだした。

 とうとう二人がキスしそうなぐらい近付いて睨みあう。

「止めて!」育花は微笑ましい姉弟喧嘩に割って入る。

「ごめんなさい。思わず……」

 育花は、ぱっと二人から離れると、腰から体を曲げて二人に謝る。

「嫉妬しちゃったのかな?」

 先に朝が、呼吸を整えて、微笑みを取り戻す。

 夕は、むすっと口を真一文字に閉じて、牢の格子に背中を預けた。

「ここはね、もともと、人を襲ってしまったライオンを餓死させる……みたいな場所なの。この青い洞窟の中では、ライオンの無敵の牙も、不敗の爪も使えなくなるのよ」

「……ごめんなさい。やっぱり意味がわかりません」

 育花は率直に答えた。

「ごめんなさいね。言葉を選ばなければ、わたしまでご当主の不興を買ってしまうから」

「こちらこそごめんなさい」育花は驚きすぎて、声を裏返させてしまう。

「もう答えなくて構いません。無理を言ってすみません」

 自由奔放、あっけカランとした朝でさえ、育花の後ろに、当主の姿を見ていた。その事実に育花は奥歯を軋ませ、自分の足元を睨んだ。やっぱりみんな、わたしだけを見ていない。いまさらで、いつものことだ。それなのに悔しさと、残念と、寂しさが育花の心の中でぐちゃぐちゃに混じり合う。

「気にすることないよ。お姉ちゃんの例えが下手すぎるだけ」夕が朝の前に出る。

 君は違うよね。育花は口から出そうになったその言葉を必死に喉へと押し戻した。夕が欲しい答えをくれる確信を育花は持っていた。けれど怖くて、どうしても聞けない。

 好きになった夕だけは、次期様としてのわたしではなく、わたし自身を見て欲しい。育花は夕の顔を見ずに、ただ唇をきつく食んだ。

「でも、お姉ちゃんの例え話を拝借すれば……」

「はいしゃくすれば?」朝は胸の前で腕を組んだ。

「ライオンが出られない檻の中なら逆に、外のライオンも中に入れないだろ? ここはご当主が用意してくれた世界で最も安全な場所だよ」

「君を襲う人は、この洞窟に入ってこられない、ってこと?」

 育花は眉を顰めながら、開放された牢の扉を見た。ここは屋敷で働く女性さえ見周りに来ない場所だ。誰でも自由に出入りし、朝は鍵さえ盗んで来ている。それなのにここが世界で一番安全な場所? 育花にとって、夕と朝の言葉はわからないことだらけだ。当主の次に偉いはずの次期様が、今日明日、来たばかりの人より、この屋敷のことを知らない。

 屋敷で働く女性ならばこれ以上聞いても何も教えてくれない、と育花は尋ねるのをあきらめるところだ。しかし育花は喰い下がった。

「もっとちゃんと教えて。君が、わたしの家で襲われるなら、それってわたしの責任になるんだもの」夕へ顔を突き出し、捲し立てた。

 夕がやれやれと呟きながら首を竦めると、朝が苦笑しながら、夕に迫る育花の前へ出た。

「安心して。ここなら本当に大丈夫だから」

 育花を抱きしめた朝が、育花の耳元で囁いた。


「確かにそうだけれど、あなた方の言うライオンが全員、飼いならされた愛玩動物なんて思わないでね」

「誰だ!」

 朝の声が一変する。

 育花は、朝の男の人のような低くて厳しい声に、驚く暇もなかった。朝は育花を後ろの夕へ放り出した。

「痛かった?」何が起こったかわからず目を泳がせる育花を、夕が抱きとめた。

「なんなの……」

 夕は育花の質問に答えず、洞窟の入り口方向をずっと睨みつけていた。

「喰い尽して、合法的……いいえ、法の適用外で、殺すなんて。ここではできないでしょうけれど……」不審者は洞窟の手前で立ち止まり、中へ入ろうとしない。

 月光を背負った不審者は、レギンスにヒールの低い靴を身に着けていた。さらにゆったりとしたチュニックに、大きめの眼鏡。背筋を真っすぐ伸ばした不審者の立ち姿は、まるでベテランのモデルようだった。

 こんな場所で出会わなければ、育花は朝に抱いたように、この不審者の女性に好意を抱いただろう。朝が、育花にとって身近な理想なら、不審者の颯爽とした姿は将来の理想だった。

 けれど、出会いを喜べない。むしろ怖い。育花は理由を上手く言語化できなかったけれど、夕の華奢な背中をぎゅっと抱きしめる。夕の傍から数ミリでも離れたくなかった。

「だけどね……」

 女性が背中から何かを取り出す。白い月明かりを反射するそれは、間違いなく、刃物だ。

「力が使えなくたって、贄は殺せるのよ。でも、ここならご当主でさえ楽に殺せそうね。屋敷の人間も、ここに近づこうとしないから、邪魔も入らないでしょうね」

 不審者は大きな一歩で、洞窟の中へと侵入した。

「そんなことすれば、警察に捕まるわよ」

 朝が抑揚のない落ち着いた声で、不審者へ言い返す。しかしその背中は、もしかしたら蝋燭の揺れる灯りのせいかもしれないけれど、震えている。

 次期当主の座が欲しいなら、こんなことしなくたって上げるわよ。そう言いたくても、乾ききった喉は、育花から言葉を奪った。怖い。怖い。怖い。冷静な判断が、どんどんと頭の中から堕ちて、夕を抱きしめる手の感覚がどんどんなくなってくる。半ば冗談で聞いていたことが、現実になったことを、育花は整理しきれない。

「愛玩動物ばかりだと思わないでね。仕事のためなら、法を犯すことも厭わない猟犬もいるのよ」

 不審者は刃物の切っ先を朝へ向って突き出した。

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