第14話 地球の記憶を食む獣(4)
夕が閉じ込められた場所は、天然の洞窟を利用した牢だった。洞窟の入り口に錆びた鉄格子の扉があり、そこからさらに奥、太い角材で作られた格子が設置されていた。牢は、その木の格子と洞窟の突当たりの狭間に二畳ほどの広さしかなかった。畳が牢の床に敷き詰められ、折り畳んだ布団が奥に置かれたままになっていた。
洞窟に育花が入った次の瞬間、冷気が育花の踝を撫でた。浴衣姿の育花は反射的に身を縮める。牢には、暖房器具はもちろんのこと、雨風を防ぐ間仕切りもない。山特有の夜気が洞窟の足元を這って牢の奥まで届いている。
「寒いのなら、無理しない方がいいよ」夕の声が洞窟に反響する。
夏間近、昼は汗ばむほどなのに、満月の白い光も差し込まない牢屋の前へ立った育花はつい、手で二の腕を浴衣の袖の上から忙しく擦っていた。そんな過酷な場所で、夕は布団を被らず、洞窟の岩肌に背を預け、沈み込んだ畳の上に足を投げ出していた。
「君こそ、つらく……ない?」
育花は夕へ声をかけながら、格子を握る。しかし次の瞬間に、その手を離してしまう。冷たすぎる。昼間に蓄えただろう木の温もりはとっくに消えていた。そういえば、沙汰の下った一時間後から日没まで大粒の雨が降り続いていた。
木の冷たさが、育花の無神経な言動を窘める。つらさを堪えている人に向かって、つらいか、と聞いてしまう。育花はそんな考えなしの自分の言葉に嫌悪して、俯いてしまった。
育花は夜半近くまで、暖かい屋敷の中で仮眠を取っていた。誰にも気づかれたいように夕と会うためには、その時間まで待つしかなかったからだ。一方、夕はきっと寒くて眠れなかったのだろう。強がっている夕の目の下が腫れていた。牢をうっすらと橙色に照らす蝋燭の傍から、夕は離れようとしない。
「全然」青い顔の夕が目を細める。蝋燭が揺らめき、夕の影が躍る。「小さい頃、よく祖父に逆らったりすると、家の蔵に一晩中閉じ込められたり、雪の積もった庭に放り出されたり、こんなの慣れっこだよ」
「……そんなに乱暴ものなんですか?」そう言って、育花は懸命に頬を吊り上げる。
育花も夕に応えて、冗談を返した。
人それぞれの考え方だけれど、目の前の人が強がっているなら、育花はそれに合わせてあげたかった。気づかないふりも優しさだ。十三年間多くの人に傅かれて生きてきた育花は、自然とそう学習してきた。
「驚いた。次期様も冗談を返すんだ」夕は目を丸くした。驚きの顔に赤みが帯びると、腹を抱えて笑いだした。大きな笑い声が洞窟に抜け出して、山へ溢れだす。
「恥ずかしいから、笑わないで」
育花の顔が熱くなる。あんなに冷たかった格子を両手で掴んで、夕へ訴えかけた。気が遠くなりそうなほど、大声を出す。元々、声の小さい育花だけれど、夕の笑い声であっさりと育花の訴えは掻き消されていた。
「わざわざ、僕を笑わせるために、ここへ来たの? ここは結構、怖がられている場所なんだろ? 夕方に飯を持ってきてくれただけで、見張りさえ誰も立ってないから」夕は格子近くに置いてあった膳を指差した。空の器の数から、育花の夕食と変わらないようだ。
「ここに閉じ込められて死んだ人も……何代も前の当主のときは、飢餓刑……死刑に利用していたらしいから」
「えっ、どういう意味」
さすがの夕の声も、少し高くなった。足を引っ込めて、膝を抱える。
「ごめんなさい。怖がらせるつもりなないの」しまった。育花はよけいなことを言ったと、親指を唇で食んだ。
しばらく黙りこんでしまった育花へ、夕は堪え切れなくなったらしく、先に声をかけた。
「黙られる方がよけいに怖いんだけど? 無知ほど怖いものはないって……知っているだろ。次期様」
「そんないやみを口に出さないで」
夕の言葉は刺々しかった。育花にからかわれたと思ったらしい。
「……例えば、食事も与えずここに閉じ込めて餓死させたり、凍死させたり」
「餓死はあれだけど……凍死も大丈夫。夏で良かったよ」
夕はわざとらしく胸を撫で下ろした。
「蔵に入れられたって言っていたけれど、そのときはごはん抜きとかじゃなかったの?」
育花は自分の幼い頃を思い出しながら、夕に問いかけた。悪いことをした幼い育花がこの牢に閉じ込められたのはせいぜい数時間だ。それでも食事もおやつも与えられず、お腹を鳴らしながら泣き続けたことを、成人の儀を間もなく迎える育花は、昨日のことのように思い出せた。
「蔵に窓があってさ……その隙間から、お姉ちゃんが煎餅を入れてくれたり、棒のようなおにぎりをくれたり。だからてっきり次期様も食糧を差し入れに来てくれたのかなって」
「うちのお夕飯はおいしかったでしょっ!」育花は、軽く舌を出した。
「……ねぇ、お姉ちゃんって、朝さんのこと?」
「あれ、何で?」
「あのあと、朝さんと話をしたから。君のことを心配していたよ」
「やっぱり来たのか……」
「別に恥ずかしがらなくてもいいじゃない。心配だからついてきてくれたのでしょ?」
すぐに冗談で返すと、育花は思っていた。しかし夕は真顔になってしばらく口を閉ざしていた。
「どうしたの?」
育花が心配になって尋ねる。
「ちょっと、お姉ちゃんとの関係が恥ずかしいって言うか、上手くいかなくて」
「なんで? 二人の話を合わせたら、今も昔も優しいお姉ちゃんって気がするけれど?」
「……次期様の贄となるための修行に、五年ほど別れて住んでいたから。昨日、久々に会うと、身長も違うし、綺麗になっているし、胸も……」夕が突然、咳払いする。「お姉ちゃんが美人になると、気後れしちゃうだろ? そんな気持ち」
「そんなものなの? わたしは一人だから」
「……悪い」夕が素直に謝る。「でも、これからはずっと一緒に居るから」
育花は目を瞬かせる。夕の言葉に深い意味はない。そうわかっているつもりでも、育花は動悸を抑えられない。変な沈黙が訪れた。
贄となるために五年間修業したってことは、つまり五年間も花婿修行をしたってこと? 空気を変えようと、そんな軽口を思いつく。けれど育花はそれを口から出せない。むしろ花婿って言葉に、顔が熱くなってしまう。墓穴? 自業自得? 自爆? ますます唇が重たくなる。
誰か助けて。育花が目を閉じて祈ると、神様はあっさりと願いを聞き届けてくれた。この山の社翁(神様)は女の子に対して、とびきり優しいらしい。
「こんなところで、愛を語らうなんて、無粋ね」
「朝さん」「お姉ちゃん?」
育花と夕の声が重なった。
蝋燭の灯りでぼんやりと照らされた顔は、朝のものだった。
「障害があるほど、恋は盛り上がるって言うけれど、せっかく満月の綺麗な夜なんだから、蝋燭の灯りを頼りに格子越しの話なんて止めて、外を散歩してきたら?」
「外って……無茶言うなよ」
育花も首を縦に振って夕に同意する。
「お姉ちゃんに任せなさいって言ったでしょう?」
朝が手を振った。朝が指で摘まんでいるものは、育花は暗くてよく見えない。しかし、育花の耳にカチンと心地よい金属音が響いてきた。
「もしかして……ここのカギ?」
育花の声が震える。当主の沙汰に、逆らうなんて、次期様の育花でさえ恐怖せずにいられない。
「いいの、いいの。どうせ誰も見張りに来ないんでしょう? 朝食を持ってくるまでに返せば、大丈夫よ」
朝は、固まってしまった育花と夕を無視すると、さっさと開錠して、勝手に茶室の出入り口のような狭い牢の扉を開けた。
「ただし! 二人とも儀式の前なんだから、清らかな関係でいること! 婚前なんてお姉ちゃんは許しませんからね!」
「そんなのしません!」
「よろしい。……って声が揃うなんて、もぅ二人は相思相愛なのね」
朝が親指を突き出すと、空気が揺れて、蝋燭の灯りが大きく揺れた。照らし出された朝の笑顔が、悪魔のように思ったのは、育花に限らないだろう。育花が困って夕へ視線を向けると、夕は頭を抱えていた。
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