第13話 地球の記憶を食む獣(3)

 両脇を抱えられた夕が、白い歯を育花に見せながら、外へと引きずり出された。

 そして大広間に集まっていた女の人たちもいつの間にか居なくなっていた。

 一人残った育花は、正座を崩すことなく、夕の座っていたあたりの床に手を当てた。

 育花はそっと瞼を閉じる。

 白詰草の冠を被り、青い空を背負った夕の笑顔を、育花は思い浮かべた。

 育花の心臓が高鳴り、胸を苦しめる。でも育花は不快を感じていない。むしろ胸いっぱいに広がる喜びと恥ずかしさに、顔を熱くする。

「そっか、そうなんだね」育花は頬を緩ませる。熱い息をゆっくりと吐く。

 あの男の子は、生まれて初めて出会った本物の男の子……。

 育花は、床を撫でていた手をそっと握り、自分の胸に当てた。言葉にしてしまうと、消えてしまいそうな夕への気持ちをじっくりと心へ刻んでいく。

「けれど……」しかし育花は、夕とのこれからに期待を膨らますと同時に、大きくなる心配事を持っていた。

「わたしの贄ってどういう意味なんだろう……」

 生贄の贄――誰が聞いても、嫌う言葉のはずだ。しかし育花の頭から、その言葉は離れてくれない。人は幸せなときほど、不安が膨らむ。読んだばかりの小説の、そんな文章がふと育花の頭をよぎる。

 だからだろうか。白詰草の原っぱで座り込む育花へ、夕は朗らかな顔をして、餌だと言い換えた。

 餌の方が、言葉として怖くない。けれど、言い換えられると……育花は、小説で読んだピエロ姿の殺人者を脳裏に浮かべてしまって、背中に寒気を感じていた。

「餌、贄……食べるってこと?」

 食べる。その言葉を口に出した途端、育花の心臓の鼓動が、再び、速くなる。けれどさっきとは正反対で、心地よくない。胃を鷲掴みされたような苦しみだけだった。育花はお腹を両手で押さえた。無意識に上半身を前に倒し、冷たい床へ額を押し当てる。苦しさを違う感覚でごまかそうとしていた。しかし冷たさだけでは足りず、額を何度も床へ叩きつけた。激痛が育花の小さな頭を貫く。それでもさらに苦しみが募る。

 何かを食べたいという空腹感――「なんなの、これ」育花は額を左右へ床に擦りつける。

 切なくて、狂おしいほど食を求める。これは飢餓だ。お腹が空いたなんてレベルじゃない。何かを食べないと死んでしまう。どんな罪を犯しても、この身を差し出してでも、残飯の一口でもいいから食べたい。

 食べたい……育花がそう囁いた瞬間、目の前に幻の夕の顔が現れる。

 夕を、食べたい。

「どうして!」

 育花は叫びながら、起き上がった。

 どうして、あの男の子の顔を思い浮かべるの? 育花は自分を罰するように腹へ手を押しこんだ。吐き気が込み上げても、食欲は衰えなかった。

 食欲と同時に思い浮かべた夕の顔。「僕は餌だよ」育花の頭の中に、夕の言葉が繰り返される。育花の腕に鳥肌がたち、育花の体が震えだす。

 恋をするとみんなこうなるの? 寝ても覚めても彼のことを考えてしまう。育花は知識として、知っていた。けれど育花が読んだどの物語でも、彼を食べたいと願うヒロインはいなかった。

 わたし、変? 一回も外の世界に出たことないから、変になっちゃったの? これじゃまるで、あの男の子の言った通りに、わたしは……。

「どうされました?」

 背中からの突然の声に、育花は驚き、立ちあがった。

「あ、あの……」気づかれたくない。咄嗟にそう思った育花は、言い訳を探そうと、目を泳がせてしまう。

「嬉しいことがありましたか?」

 ジーンズ姿の女の人は目を細めて、育花へ尋ねた。

「えっ?」育花は顔を何度も手で触る。

「だって、ずっと微笑んでいらっしゃるから。まるで餌を前にした子犬みたいで……いえ、失礼なことを言いました。お許しください。次期様」

 女の人は深々と腰から体を曲げて謝罪した。長い髪が肩から流れて、床へ届きそうになる。

「いえ、気にしないでください」

 微笑みなんて、ありえない。育花は、女の人の視線が途切れたときを見逃さず、指摘された笑顔を消そうと、頬を抓った。

「申し訳ありませんでした」

 女の人は、顔を上げて、もう一度育花へ謝罪を述べた。

「……ここで笑っていたことは内緒にしておいてください」

「どうしてです?」

「いえ、あの……」

 夕を食べ尽くしたい。これだと、本当に獣だわ。育花は笑顔を保ちながら、右手の親指をぎゅっと左手で握りしめていた。こんな変な気持ちになったなんて、誰にだって知られたくなかった。

 心の病に冒されたのかもと、育花は不安になる。しかし相談できない。子どもを生める体になった朝、唐突に肉体から溢れた血と痛みに驚いた。布団に包まって半日泣き続けたあのときの畏怖に、今の気持ちは勝るとも劣らない。

「どうしました? 体調でも……」

「いいえ。あの、本当に黙っておいてください。できたら、当主様にも……」

 言いかけて育花は手で口を押さえた。当主へ報告しないのは、当主に逆らうのと同義だ。

 当主に逆らえば、目の前の女の人の末路は決まってしまう。育花は下唇を噛んで床へ視線を落とした。

 しかし意外にも、「それは無理です」という答えではなく、小さな笑い声が聞こえてきた。

「大丈夫! だってわたしは、この家の人間じゃないから。ほらっ」

 育花が驚いて顔を上げると同時に、女の人がくるりとその場で回って見せた。長い髪がつむじ風のように円を描いて流れる。その身を包んでいるのはジーンズとプリントTシャツだった。和服を常に着ている屋敷の女の人たちではなく、家庭教師の先生と同じように、洋服を着ていた。

 前触れもなく崩れた物言いにも育花は納得した。屋敷の女の人と違い、目の前の女の人……女の子は、育花よりちょっと年上に見える、初めて会ったお姉さんだった。

 世話してくれる女の人じゃないなんて、見た瞬間に、わかるはずなのに……。そんなことに気づけないぐらい、おぞましい欲求を芽生えさせた己の心に、動揺していたのだろう。育花は首を傾げて、女の子のつま先から頭までゆっくりと視線を移動させていく。

 そっか、わかった。「似ているんだ」

 女の人は、育花の良く知っている人に、とてもよく似ていた。纏めていた髪を下ろせばきっと、目の前の女の人にそっくりだろう。年齢からくる肌の渇きや目元の皺を差し引かなくても似すぎていた。

 何でも相談できて、この屋敷の中で最も信頼していた、そのためにこの屋敷から消された大切な人。だから育花は、目の前の全く知らない女の人に、その人を重ねていたらしい。

「そんなに似ているかしら?」

 女の人が自分の体を眺める。

「もしかして……」もしそうなら謝らなくちゃ。「私は、あやまら……」

「そんなに夕に似ている?」

「夕?」

 育花は意外な答えに思わず、おうむ返しをしてしまう。

「初めまして次期様。わたしは夕の姉のともです。姉が朝で、弟が夕なんて酷いでしょう? 妹か弟ができたら夜って名前にするつもりだったのかしら? それとも昼かもしれないわね」

 朝と名乗った女の人は、白い歯を少し見せて笑った。

「あの、もしかしたら、お母様がここで働いていませんでしたか?」育花は声を震わせる。

「ここって住み込みでしょ? お母さんがここで働いていたら、夕は産まれていないんじゃないかな? あっ、意味わかる? 次期様」

「わ、わかります!」

「またまたぁ。知ったかぶりしちゃう年頃だもんね」朝は、次期当主である育花の肩をバシバシと叩いた。

「あの、その……」あの男の子のお姉さん。育花はどう接していいかわからない。二人とも顔は全く似ていない。けれど軽い振る舞いや物言いはとても似ている。

 さっきあなたの弟を食糧扱いしていました。その告解のような言葉が、育花は唇を閉じて、勝手に口から出ようとするのを食い止める。朝への罪悪感と、自分の心に説明をつけられないための気持ちの痛痒。わたしどうしちゃったんだろう。もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。

「悩みごとがあるなら、義理のお姉ちゃんに言ってみなさい」

 朝は鼻をつんと上に上げて胸を張った。

「いえ、あの、……」

「心配しないで。誰にも言わないよ。お姉さんに全て任しなさい。……って、わたしもただの女子高生なんだけどね」

 朝の笑顔につられて、育花もぷっと吹き出してしまう。

「やっと笑ってくれた。未来の妹が、ずっと眉間に皺を寄せているなんて嫌だもの」

「……未来の妹?」

「あれ、聞いてないの次期様?」

 だってわたしは次期様なのに、誰も、何も教えてくれないから……育花は何も知らない自分を失笑する。

「夕は次期様の許嫁になったんだよ? わたしは夕の姉だから、つまり次期様のお姉ちゃん。それとも夕が嫌い?」

「き、嫌いだなんて! 今日、会ったばかりですよ! 好きも嫌いもありません」

 育花は両手を大ぶりした。

「顔を真っ赤にしちゃって……額に汗をかいているよ?」

「えっ、あっ」育花は服の袖をひっぱりだして、大慌てで額の汗を拭っていく。

「夕のこと、よろしくね」

「こ、こちらこそ」

 差し出された朝の手を、育花は握り返した。

 そのとき、大広間に庭からの風が流れ込んできた。白詰草の匂いがする。さっきまでの空腹感がすっかり消え、幸せな気持ちと一緒に、夕の笑顔が育花の心に戻ってくる。

「汗、びっしょりだね。初恋だものね。わたしも初恋のときは、もう心臓バクバクで、頭の中があの人のことでいっぱいで、何度も柱に頭をぶつけたよ。姿を見ただけで息ができなくなるし……もう大変だった」

 初恋ってそうなの? 初めて出会った男の子に一目ぼれするなんて、夢にも思ったことなかったから、頭と体が混乱したのかもしれない。初めての恋だから、夕を食べたいって、感情を取り違えただけだったんだ。育花はそう納得したいと強く願った。

「……もっと聞きたいことあるんです」

 育花が身を縮めながら、懸命にその言葉を心から絞り出す。

 朝はにやりと笑って、胸の前で腕を組んだ。

「わかった。夕のプライベートなことを知りたいのね。そうよね、好きな男の子のこと何でも知りたいよね。夕もやるわね。許嫁を一目ぼれさせるなんて」朝はお見通しとばかりにそう言うと、育花の鼻先を人差し指で押した。

「まずはお互いをよく知ることから始めましょう。心配しないで。全部、お姉ちゃんに任せておきなさい。二人っきりになれるようにしてあげる。初恋が成就するなんて、女の子の夢だものね」

 朝はぽんと胸を叩いた。

 育花は朝の言葉に、とても安心感を得た。やっぱり良く似ている。育花は、自分に分校のことを教えてくれた女の人の笑顔を思い出した。

「今日まで知りませんでした」

「何を?」

 朝への安心感に、育花の舌が滑らかになる。

「許嫁のことを贄って言うんですね」

 朝は育花の前で腹を抱えて笑いだした。育花も倣って笑う。

 けれど朝は、決して笑い顔を育花に見せなかった。

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