第12話 地球の記憶を食む獣(2)

「夕様の沙汰を下します」

 澄んだその声に、育花はきつく結んでいた唇を、思わず解いてしまう。夕が『様』付で呼ばれたことに、少なからず驚いた。

 二十畳ほどの板の間の大広間、その一段高い上座へ、当主が坐していた。一人娘の育花さえ、もう一年近く姿を見ていない。育花たちの下座と上座は御簾で遮られ、薄らと当主の輪郭がわかる程度だった。当主の声も育花に届かない。当主を一番近くで世話をしている女の人が、御簾の端から顔を入れて、当主と言葉を交わしていた。育花の姉と言っても通りそうな若くて美しい女の人が、そうして当主の言葉を預かり、皆へ告げる。

「あの人が当主の『贄』……」

 育花は、小さな声を聞いて、視線を当主の坐す上座から斜め後ろへ移した。背筋を伸ばして正座する夕が、育花の視線に気づくと、白い歯を見せて笑顔を作った。広げた手のひらを、育花へ向かって振る。

 笑顔ばかり……少しは怯えたり、緊張したりしないのかしら。そう独り言を囁いた直後、誰かが一つ咳払いする。笑いそうになっていた育花は、慌てて視線を前に戻した。一緒にふざけているなんて思われたくない。そう奥歯を噛みしめようとしても、上手くできなかった。口元がむずむずと動いてしまう。

 初めて出会った男の子はとても面白い子だった。

 育花は軽く目を閉じ、瞼の裏に焼きついた夕の笑顔を見つめていた。

「継承の儀まで伏せられるべきことを、次期様に伝えたことは重く、因って夕様を牢へ幽閉します」

 その声に、大広間の女の人たちは、目を一瞬大きくしたあと、平伏した。

「いつまで、なのでしょう。まさか三日三晩なんて重い沙汰……」

 告げた女の人が、一度だけ首を横へ振る。

「ご当主がお許しになられるまで、たとえ一月、一年でも」

「そ、そんな! ま、待ってください!」

 育花は声を荒げて当主の沙汰に逆らった。その途端、大広間がどよめいた。すぐに当主の言葉を伝えていた女の人が咳払いした。すると大広間は一転、静まった。

 屋敷で働く女の人は全員、当主に傅く。女の人たちの視線が、下座の二人へ向けられた。首を竦めている人や、手で目を覆う人、ヒっと息を吸いながらも、自分まで当主からの不興を買わないように平然を装う人。当主に逆らうとは、つまりそういうことだった。夕は、当主へ一切反論しなかった。顔は笑顔のままだけれど、白い歯はきつく閉じた唇で隠れていた。

「それはむちゃです」育花は口を閉ざしたりしない。

 天然の洞窟を利用した牢の恐ろしさ。育花は腕を回して自分自身を抱きしめた。幼い頃、悪戯の罰として半時ほど牢に閉じ込められたときの冷たくて恐ろしい記憶が、育花の背中に悪寒となって現れた。閉じ込められた人は、陽光の届かない牢の中で寒さに震え、蝋燭の灯りで岩肌に写る鬼か幽霊の姿に怯える。一昼夜も閉じ込められれば、人格まで一変してしまうだろう。

 そんなところに、いつ終わるかはっきりせずに、閉じ込めるなんて……。育花はまっすぐ前を見つめた。

「次期様……」当主の言葉を伝えていた女の人が、おろおろと視線を泳がせた。予想外の育花の行動に、当主の判断を仰ぐべきかどうか悩んでいた。

 周りの動揺が、空気や床を揺らし、育花の肌にまで伝わってくる。動揺なんて当たり前だった。育花自身、どうして当主に逆らったのか、信じられない。

 育花は今まで、色んな沙汰を見てきた。育花に学校の存在を教えてくれた女の人が罰せられたときでさえ、育花は黙って見ていた。もっとつらい処分を親しい人が受けたときも、育花はかわいそうと涙したり、悔しいと何もできない自分を恨んだりしたことがあった。それでも当主の言葉は絶対だ。次期様として、育花こそ厳格に当主の言葉を受け入れなければならない。そうでなければ、次に自分が当主となったとき、「あなたも逆らっていたでしょうに」と誰も育花の言葉に従わなくなる。そう教わってきた。

 それなのに黙って守り続けてきた義務を忘れて、育花は今日出会ったばかりの夕を、助けようとしている。自分まで恐ろしい牢へ閉じ込められるかもしれないのに。この気持ち、どうしてだろう。どれだけ考えたって理由なんて、よくわからない。でも夕とこのまま離れたくない気持ちは確かにあって、育花の体の中で益々と膨らんでいく。

 あの牢に閉じ込められたら、夕は死ぬかもしれない。死ななくても、あんな怖い場所で眠れない一夜を過ごしたら、二度と夕の笑顔が見られなくなるかもしれない。

 あの笑顔が見られなくなるなんて……「嫌だ」育花はぎゅっと閉じた手を、左胸に押し付ける。早鐘のような心臓の鼓動が手に響いた。育花は、夕を思ってただ熱くなる心と体の勢いに任せ、逆らったことのない当主の影を御簾越しに睨み続ける。

 そのとき、御簾が揺れた。

 女の人が、慌てて当主の言葉を聞き入る。その人の顔や指先が見る間に震えだすのを、見逃さなかった。育花は息を呑む。一瞬、そのみっともない溜飲の音を後ろの夕に聞かれたかもしれないと、後ろの夕へ気を配った。しかし夕は優しそうな瞳で、御簾をまっすぐ見ていた。

「夕様は、育花様の……『贄』です。したがって追放致しません。この沙汰は軽いとお知りおきください」

 またニエ……だ。育花は女の人へ視線を向けた。女の人はわざとらしく視線を外す。

 周囲の女の人たちも、当主の前にも関わらず、ざわめき始めた。騒然として声の中にも、ときどき『ニエ』の言葉が混じっていた。

「ニエ……とは?」

 育花は女の人へ尋ねた。

 ニエ――当主としてのお役目に属した言葉であることを、育花は薄々気づいていた。にえってやっぱり生贄のこと? それぐらいしか想像できない。それはいい。しかし、どうして出会ったばかりの男の子が、育花の生贄と呼ばれるのか。育花は全く理解できない。

「次期様。すべては『継承の儀』にわかります。それまではお許しください」

 それで話は終わった。シュッと畳と衣が擦れる音のあと、御簾越しに見えていた当主の影が小さくなる。周りの人たちが一斉に頭を下げたのに合わせて、育花も頭を下げた。ちらりと横を見ると、夕は頭を下げず、しっかりと胸を張って前を向いたままだった。その様子に、育花はあきれて嘆息した。こんなときでさえ、夕は白い歯を見せながら、小さい子みたいに笑っていた。

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