第11話 地球の記憶を食む獣(1)

「僕は君のエサだね」白詰草に埋もれた育花いくかに、男の子が微笑んだ。

     




 育花は昼食後、散歩へ行くからと身の回りの世話をしてくれる人たちへ告げ、丘の上にある屋敷から石段を下りて、いつもの野原へやってきていた。初夏の日差しは厳しい。けれど心地よい風は汗ばむ育花の体を冷やしてくれる。

 育花は夢中になって作った草花の王冠を傍らに優しく置くと、緑と白のモザイク模様の野原に勢いよく寝ころんだ。

 白は、白詰草の花。緑はその葉。探せば四つ葉もあるだろう。

 視界に収まりきらない青空と張り合うように、育花は両手両足を限界まで伸ばしきる。久しぶりに着たスカートの裾が翻り、そこから伸びた足が草の中に沈む。草花から伝わる冷たさと、さわさわとした肌触りを精一杯楽しむべく、育花は重くなった瞼を素直に閉じた。

 育花は敷地の外へ出ることを許されない。この白詰草の野原だけが育花にとって自由な場所だった。

「……いいえ、完全な自由なんてない」

 育花は奥歯を噛みしめた。きっと屋敷から、それともすぐ近くの立木の影に潜んでいるだろう誰かが、今も育花を見守っているだろう。育花はわざわざ瞼を開けて、それを確認しなかった。四六時中、見守られる息苦しさに慣れてしまっていたからだ。だからといって気持ちいいものでもない。

 育花は次期様として、生まれたときから重い責任を負わされていた。しかしそれがどんな責任か、誰も教えてくれない。それでも、育花の親である当主に傅く人たちの、育花とまともに目を合わせない様子を毎朝毎夕と見せつけられて、まだ成人の儀を迎えていない子どもの育花でも、責任の重さを窺い知れた。

 責任の重さの分だけ、育花は贅沢な生活を約束されていた。屋敷の中で育花を世話してくれる人はすべて、宝物のように育花を育ててくれている。

 例えば――普段の育花の装いは、他の人と同じく着物だった。けれど今日のように育花が望めば、育花の世話をしてくれる人たちは育花のための洋服を半時ほどで準備してくれた。育花の部屋の畳の上に着物を包むための和紙を二畳分ほど敷き、その上に数十着の流行りの服を並べる。さらに服に合わせて育花の髪を整えるために、美容師さんを呼んでもくれる。もちろん育花もテレビや雑誌を通して、一応の流行りを知っていた。

 不自由どころか、恵まれている環境だと、育花も自覚していた。けれどこの生活を心から嫌っている。

 何故なら、十三歳の育花は、同い年の友達を作れなかった。

 育花は敷地の外へ出ることを一歩として叶えられない。子どもなら誰だって体験できるはずの中学生の生活は、メディアの中の出来事だった。

 しばらく前に、育花の身の回りを最も世話してくれた女の人が育花に、屋敷の近くにも中学校――分校があるとそっと教えてくれた。育花は必然、学校へ通いたいとせがんだ。しかしやはり叶わない。

 「それはなりません。あなたは次期様ですから」と育花が誰に頼んでも謝られるばかりだった。もちろん当主は、育花の願いを聞くことさえない。そして学校のことを教えてくれた女の人の姿はいつの間にか、育花の視界の中から消えていた。心を許せる話し相手をまた一人失って、育花はあらためて、屋敷の外へ出たいと口に出さないよう、自分へ言い聞かせた。




「ここは、いいところだよ」突然現れた男の子は、横へ向いて鼻先を指の爪で掻いていた。

 ほんのりと赤くなっている男の子の頬に気づいてようやく、育花は慌てて起き上がった。両手でスカートの裾を引っ張る。下唇を噛んで、男の子を見上げた。男の子も育花へ顔を戻す。

 恥ずかしいのはこっちのはずなのに……。男の子のはにかむ顔のおかげで、育花の恥ずかしさが頭からそっと消えていく。

 男の子の短い髪に、絡みついていた青い葉がこぼれ落ちた。何気なく育花はそれを手で受け止めようとしたけれど、草はさらりとその手から逃れて、同じ草の生える大地へと戻っていった。葉を受けそこなった手を、育花はちょっとだけ見つめた。

「それ、貰っていい? 僕も真似て作ろうとしたんだけれど、上手くいかなくて」

 男の子が育花の横にあった王冠を指差した。

 この場所は、育花だけの場所だった。この野原に誰も入らないように屋敷の人全員に頼んである。そのお願いを無視できるのは、当主しかいないはずだ。

 この男の子は、娘の私さえ滅多に話せない当主から、許可を得たのだろうか? 「……誰?」

「ゆう」

 男の子はそれだけしか言わなかった。それって名前? 育花は男の子へ隠すことなく、首を大きく捻った。

 おそらく男の子の年は育花とそれほど変わらないだろう。屋敷の外へ出たことはないけれど、この世に女と男がいることぐらい、育花は当然知っていた。ただし育花は手の届くほどの距離で、生身の男の子を初めて見た。

 男の子って……そのあと、何と言葉を繋げていいのか、育花もわからない。育花の心臓は高鳴り、堅そうな首筋や、袖から伸びた腕の筋肉を何度も見てしまう。

「次期様って言っても、女の子なんだなぁ~」

 男の子は軽い口調で言うと、育花へ向かって手を伸ばした。育花は反射的に肩を竦めて、体を固めてしまう。

「あっ、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの」

 苦笑いした男の子へ、育花はあたふたと手を動かしながら、言い訳を繰り返す。

「気にしないでいいよ。初めてあったばかりならしかたない」

 男の子は育花に指一本触れず、王冠を拾い上げると、頭へ載せる。「似合う?」

 白い歯を見せる男の子の笑顔に、育花はつられて笑ってしまった。

「獣でも、やっぱり女の子だね。笑うとかわいいんだ」

「けもの?」

 笑っていた育花は、獣、の一言に一転して、男の子を睨みつけた。

「笑ったり、怒ったり。忙しい女の子だ」

「そんなのいいから、教えて。どういう意味で言ったの?」

「意味? ……言葉通りだけれど」男の子の顔は笑顔を保っていた。

「女の子に向かって、けもの、なんて失礼でしょう?」

「そうくるか……」男の子はやれやれと呟いて頭をかいた。

「それよりあなたは誰よ? どうしてこの屋敷に入ってこられたの?」

 育花の誰何の声が厳しくなる。

 男の子は首を竦めて、長く息を吐いた。片手で頭の王冠を取ると、空いている手を育花の目の前へ突き出した。

「初めまして。僕のことは『ゆう』って呼んで」

「ゆう?」

 育花は男の子から差し出された手を怖がって、軽く指を握りこんだ。

「怖いのは僕も同じだ。僕は君の『贄』だからね」男の子は人差し指で自分の額を突く。

「ニエ?」

 男の子は、意味のわからない言葉をまた、言いだした。

「しくった? 儀式前だから知らされていないのかなぁ~。でも、まっ、いいっしょ? これからずっと一緒だから」男の子は強引に育花と握手した。

 あっ、と育花の声が漏れる。とっさに手を口元まで引っ込めた。手の熱さが唇に伝わる。

「つまり……僕は君の『エサ』だね。次期様」

 男の子はそういうと、自分の指で育花の手のひらを撫でる。

「朝夕の夕?」

「大正解!」男の子――夕は王冠を空へ向かって投げた。

 思わず育花は空を舞う王冠を目で追いかけた。王冠から剥がれた白い花が、ライスシャワーのように育花と夕の頭上へ降り注いだ。

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