第10話 君死にたまふことなかれ

 高速のパーキングエリアのレストランで、優雨は早めの夕食を取りながら、里からの迎えを待っていた。優雨の目の前、丸いテーブルには、ワニ肉を使ったカツ定食が置かれていた。その横に、マリモのような毛むくじゃらのシャオウがお皿をじっと見つめていた。

 動かないシャオウはまるでぬいぐるみのようだ。

「しかたないよね。動かないように我慢しててね」

 優雨が小さな声でシャオウに言った。

 レストランの入り口のところに、ペット持ち込み禁止の看板が立て掛けられていた。シャオウのどこをどう見ても、盲導犬とか介護用の動物とは見えない。

 優雨はくすりと笑いながら、珍しいワニ肉のカツの一切れを箸でつまんだ。ワニ肉の味は淡白な鶏肉とそっくりだ。里で食べる猪肉のような歯ごたえもあった。定食としてサラダとご飯、味噌汁がついてきたけれど、これで千二百円は高いかもしれない。

「けど、珍しいからね」

 優雨は厨房の人や、片付けをしている店員の目を盗んでシャオウの前にカツを置く。シャオウはぴくりとも動かない。

「残念ね。やっぱり、普通の食べ物は食べられないんだ」

 シャオウがクルルと小さく鳴いた。知っているだろう? そう言っているようだ。「わたしは食べられるのに、ね」

 優雨は人間らしく、食事をして、動いて、笑って――このレストランで食事をしている人、店員、小さな子どもたちと何も変わらない。

「……らしく、ね」

 優雨が力なく笑う。シャオウが人形の真似も忘れ、優雨の腕に寄り添った。長くて柔らかい体毛に擽られて、優雨の顔に、少しだけ生気が戻ってくる。

「ありがとう」優雨は箸を置いて立ち上がる。「ちょっとトイレに行ってくるね」

 シャオウがクルルと鳴く。

「だめよ。大人しく待ってなさい」

 優雨は人差し指をシャオウの前へ立てて注意する。

「あのお姉ちゃんはお人形さんとおしゃべりしてるよ」

 ふいに耳に入った女の子の声に、優雨の耳が熱くなる。優雨は大慌てでトイレへと逃げた。




『そうか、あなた……ただの記憶、人間でなくて、記憶ってことね』トンネルで出会った外道の記憶喰いの女の声が、鏡を睨みつける優雨の頭に蘇る。

 手洗いが終わっても、優雨はシャオウの待つテーブルに戻れずにいた。

「わかっている。わたしはシャオウのために作られたモノだって……」

 トイレの手洗い場に設置された鏡に映る優雨は、自分自身が発した言葉を、繰り返す。

 優雨にだって記憶はある。けれどそれは日記に似ている。何月何日に何があったか、昨日のことや数秒前のことも、優雨の脳裏に箇条書きで浮かぶ。さっき食べた肉の味、香ばしい匂い、きつね色の衣の色、噛んだときの音、優雨は五感で覚えていない。言葉の羅列として記録していくだけだ。

「日記、ね……」

 優雨の日記の最初のページ――最古の記憶は、シャオウを愛していたことが刻まれている。シャオウのために、優雨は人間ではなく、記憶の塊になることをを望んだと――「シャオウのこと嫌いじゃないのに」

 優雨は、シャオウへの思いが例え作られた記憶から生じていることだとしても、シャオウの何気ない優しさを嬉しいと感じていた。

「記憶があったときの、本物のわたしは、シャオウのことをどれぐらい愛していたのだろうね」そう優雨は微笑む。

 優雨は手洗いの蛇口を捻り、勢いよく流れだす冷たい水で手を洗う。

 今のわたしはシャオウをどれぐらい愛したらいいのだろう。そう自分に問いかける。

 勢いよく流れる水道水が洗面ボールに当たっている。跳ね返った水が数滴、優雨の頬を濡らす。

 どれだけ問いかけても答えは返ってこない。優雨は手洗い場の端を掴んだまま、流れ出る水をじっと見つめていた。

「優雨様。こんな山奥では、水は貴重ですよ」

 突然の女性の声に、優雨は蛇口を捻って水を止めた。

「びっくりさせないで」

 優雨は胸に手を当てて、はぁーと大きく息を吐き出す。

 スーツ姿の女性がトイレの出口で優雨を待っていた。

「お迎えご苦労様です」

 優雨が女性の方へ向き、軽く頭を下げる。

「それが私の仕事ですからお気になさらないでください。

 車はあちらに用意しています。里は優雨様の帰りを心待ちしていますよ」

「だといいけれど……」

「そうですよ」

 優雨は女性の軽快な返答がお世辞とわかっていても心地よかった。

「ところで、次期様は?」

 女性がトイレの中を覗き込む。

「シャオウはあれでも一応、姿は男の子だから。レストランで待っているわ」

「そうですか、でしたら早くレストランに戻って次期様をお迎えして車へ向いましょう。今でないと里に着く頃には日が暮れますから」

 女性に促されつつ優雨はトイレを出た。

 トイレを出てすぐの廊下の窓はいつの間にか夕焼けに赤く彩られていた。

「まだ四時なのに、やっぱり山は夜が早いね」

「先に、車へ戻りますか。次期様は私がお連れしても」

「いいえ、シャオウのパートナーはわたしだから、わたしが迎えに行くわ。ああ見えても、シャオウは寂しがり屋だからね」

 微笑んだ女性が肯いた。

 そうして優雨は女性と里の様子について尋ねながらレストランに戻る。あとはシャオウを連れて、車で一時間走れば里へ帰れる。いつもの里帰りだった。

「……次期様?」

「シャオウ?」

 優雨はレストランに飛び込んだ。入り口から座っていたテーブルを見ても、マリモのようなシャオウの姿はなかった。

「ここに次期様が?」

 テーブルに食べかけのワニ肉のカツが残っていた。シャオウをからかっておいた一切れのカツも残っている。

 どっか別のところに行ったのだろうか?

「もしかしたら店員に見つかったのかも」

 優雨は皿を運んでいた店員を掴む。

「お客様、やめてください」

 店員が持っている皿を落としそうになった。

 店員が困り顔で優雨に声を返す。おかまいなく優雨は捲し立てた。

「シャオウは! シャオウをどこにやったの!」

「しゃ……なんですか?」

「わたしのテーブルにいた、あなた知らないの?」

「あぁ、あの人形ですか」店員が皿を空いているテーブルへ置く。「あの人形でしたら、お子さんがさっき持って行って……」

 子ども?

 優雨はレストランを見渡す。作業服のお客、老夫婦、若者四人。子どもの姿はもうなかった。

「優雨様! あれを!」

 窓ガラス越しに、話題のエコカーに乗り組む親子三人連れが見えた。女の子の手の中で、シャオウが暴れている。

「シャオウ!」

 優雨はレストランを飛び出て外に出る。一足遅く、車はパーキングエリアを出ていくところだった。

「……優雨様。安心してください。我々で探し出します」

 女性は猛烈に携帯電話をかけていく。

 優雨は地面に腰をついて、茫然と目の前に広がる山を眺めていた。

 優雨とシャオウとが離れても、優雨の体は問題ない。

 しかし、シャオウ――記憶喰い――は記憶を食べないと外道に落ちる。

 三日間がシャオウが記憶を食べずに我慢できた最長の期間だ。

 それまでに誰かの記憶を食べれば、空腹はおさまる。しかし里の当主様によって許されていない記憶喰いを行えば、次期当主のシャオウでさえ、外道の記憶喰いとして討伐されるだろう。あのトンネルで出会った女性と同じく、罰せられる。

「シャオウが外道に落ちる……、そんなこと」させない。

 優雨の握りこぶしが震える。

「きっと、大丈夫ですから」

 女性に限らず、里のものなら優雨とシャオウのことと、記憶喰いの掟を知っている。女性は、懸命に笑顔を保ち、電話の合間に優雨を励ましていた。しかし、声は荒かった。




「ケムケム。お父さんとお母さんがあっちでお話しているから、わたしたちはここにいましょうね。大丈夫。この部屋にいれば何の心配もないんだよ」

 百花ももかは部屋の中央で、座り込んでいた。深い絨毯に小さな足が半分ほど埋まっている。その幼い腕の中で、シャオウは抱きかかえられていた。

 逃げようと思えば逃げられたのかもしれない。しかしシャオウはクルルと鳴いて、長い毛足で百花の細くて白い腕を撫でていた。

 パーキングエリアの百花の家族は仲睦ましかった。

 今は、百花の部屋のドア越しに、父親が母親へ浴びせる罵倒が聞こえてくる。早朝にも関わらず、それはもう小一時間ほど続いていた。

 百花は小学校へ行く準備をしたまま、部屋から出られず、立ったまま動かなかった。

「百花」父親に名前を呼ばれて、百花の体がぴくんと跳ねる。

 百花の父親は、娘に許しを請うことなく、部屋のドアを開けて、百花の目の前で膝をついた。スーツ姿の父親の膝が、絨毯に座っている百花の膝と膝の間へ割って入る。

「パパはもう行くからな。元気に学校へ行くんだよ」

 目を細めた父親はシャオウに目もくれず、百花の頭を撫でた。

 百花が目を閉じて、父親に身を任す。

「ママはちょっと疲れているだけだから」

 父親はそう言うと立ち上がり、部屋を出ていこうとする。しかし、そこで立ち止まって振り返る。

「そんな汚い動物は早く捨てなさい」

 百花は父親から隠すようにシャオウを小さな胸へ強く押し当てた。

「いいね。捨てるんだよ」

 言葉は優しいけれど、命令だった。百花は肯くことも、頭を横に振ることもできず、シャオウの長い体毛に顔を押し付けた。

 父親は少し乱暴に扉を閉めると、母親のいる台所へと向かっていく。

「お前がしっかりしないから!」

 ドアや壁を震わせる父親の罵声と、何かを叩く音に、百花は耳を閉じ、目を閉じ、心を止める。

「ケムケム、大丈夫だから、いい子で待っていたら、すぐに大丈夫だから」

 百花は何度も呟く。涙は出ないのに、声は震える。シャオウがこの家に来てから、何度も繰り返された朝の光景だった。

 しばらく待っていると、父親が玄関の扉を閉める重たい金属音が聞こえてきた。その次の瞬間、廊下を走る音が百花の部屋にまで響いてくる。そしてその音は瞬く間に大きくなる。

「百花!」また扉が乱暴に開かれる。

 母親の憎しみに満ちた瞳が百花を見下ろしていた。

「そんな汚い動物は早く捨てなさいって言ったでしょう!」

 母親がシャオウの体毛を鷲掴みして、百花から引き離そうとした。

「いや、離して!」

「あなたがそんな風だから、わたしがパパに叱られるのよ!」

 母親の目の周りは青かった。切れた唇から流れた赤黒い血の跡が、顎から首筋にかけて残っていた。

「いや、だめ!」

 百花は母親の股の間を這い出て、部屋から抜け出すと、トイレに走った。

 トイレだけは施錠できる。鍵を壊せば外から開けることもできるけれど、母親はそうしない。父親が買った家を壊せば、きっと母親は父親から怒られてしまうからだ。

「開けなさい! 百花! どうしてママのいうことが訊けないの!」

 ママじゃない。ママじゃない。ママじゃない。ママじゃない。ママじゃない。ママじゃ……。 百花は洋式トイレの上で膝を抱えて体を丸めていた。シャオウに向かって、呪文の如くその言葉を繰り返した。

 シャオウは体をゆっくり揺さぶって、百花の手を撫でた。

「大丈夫だよ。だってあれはママじゃないもの。あれはママと入れ替わった宇宙人なんだよ。本当のママは宇宙人に誘拐されているの。だからパパも宇宙人の命令に従っているだけなんだよ」

 聞いているシャオウはただクルルと鳴くだけだった。

 そのとき突然、トイレの扉を叩く音が止んだ。そしてしばらくすると、母親の叫び声と同時に、大きな足音がいくつもトイレへ近付いてきた。

「ケムケム!」

 百花はシャオウを胸に押し付ける。

「ここに監禁されているのか?」

 知らない声がトイレの扉を強引に開ける。次の瞬間、見たことのない人がトイレへどっと飛び込んでくる。

「百花ちゃん。もう大丈夫だから。さぁおばさんと一緒に行きましょうね」

 黒い服を来た人たちの中をかき分けて、眼鏡のおばさんが百花を抱きかかえた。

「ママのところへ行くの?」

「もう大丈夫。痛くないところへ行きましょう」

「そこは本当のママのいるところ?」

「百花ちゃんといじめる人がいないところよ」

「ケムケムも連れて行っていい?」

「百花ちゃんのお友達? いいわよ。一緒にね」

 百花へ久しぶりの優しさを与えたのは、全然知らない女の人だった。




「パパ? どうして家に帰るの? ここで待っていれば、本当のママが帰ってくるんでしょう?」

 女の人が連れてきてくれた場所は天国だった。周りは優しい笑顔ばかりで、お菓子も食べ放題だった。テレビは何でも見ていい。……ママはいない。

 しばらくそこでいた百花を、父親が迎えに来た。

 百花が窓から外を見ると、お菓子をくれたおばさんやおじさんが心配そうな顔で百花を見返していた。

「ママは?」

 百花が一緒にタクシーに乗った父親に恐る恐る尋ねる。

「ママはちょっと疲れているだけだ。すぐに優しかったママに戻るよ」

「家にいるママは宇宙人だよ。本物のママを助けに行こうよ!」

「百花!」

 父親の腕を掴んで揺さぶっていた百花の体が、石化の魔法でもかけられたように固まる。

 固まった百花の頬を父親は冷たい手で撫でた。

「パパがママに百花に優しくしなさいってきちんと言うから、もう心配ないよ。今後は絶対に、こんな風に知らない人についていっちゃだめだよ」

 父親の声は優しかったけれど、その瞳は黒く燃えているようだった。

「痛っ!」

 父親の手が百花から離れる。痛めた手を空中で振ると、肌に突き刺さっていた長い体毛がぱらりと抜けた。

「この小汚い動物を早く捨てなさい!」

「だめ。だめ。だめなの」

 百花がシャオウを背中へ回して隠した。

 父親は絶叫する百花の背中に手を回し、シャオウを鷲掴みする。

「だめ。だめ!」

 父親は百花のお願いを無視して、タクシーの窓を開けたが早いか、シャオウを走る車から外へ投げ捨てた。

「ケムケム! パパ! ケムケム!」

「うるさい。黙りなさい!」

「ケムケム! ケムケム!」

 泣き喚く百花はタクシーの窓から身を乗り出そうとした。父親は百花の服を掴み、引き戻すと、後部座席に百花を叩きつける。

「パパに逆らう悪い子になるなんて、お前はやっぱりママの子だな」

 父親が手を振り被った瞬間、タクシーのクラクションが鳴った。

「お客さん。道はこっちでいいですか?」

 一本道なのに、タクシーの運転手が父親へ尋ねた。

「あぁ、こっちでいい」

「私もね」

「なんだ!」

 話しかけてきたタクシーの運転手へ父親は乱暴に答えた。

「かわいい息子が二人いましてね。親っていうやつは大変ですよね」

 そう言うと、父親はむすっと腕を組んで、座席に深く座り直した。

「ケムケム……」百花は涙もぬぐいもせず、泣き続けた。




「母親のくせに、子育て一つ満足にできないのか!」

 百花が見ている前で、父親はとうとう母親を殴った。

 母親の体が吹っ飛び、百花の横を掠めて、食器棚に背中から打ちつけられた。

 ケムケムを失って放心している百花は、悲鳴一つも上げずに、物のように扱われる母親を眺めていた。

「省に連絡があったんだぞ! 俺は恥さらしだ。出世にだって響く。今回のこともみ消すのにどれだけの人間に頭を下げたと思うんだ! これで出世レースからも脱落だ。全部、お前のせいだ。お前なんて妻失格だ!」

 父親は倒れた妻の腹をきっちり二回だけ踏みつけ、唾を吐きかけた。そのあとは、まるで何事もなかったかのように、台所の椅子の背凭れに掛けてあったコートを手に取ると、台所のドアノブに手を載せる。

 そのとき、見上げる百花と父親の視線があった。

 お父さんも悪い宇宙人と入れ替わったの? 目の前にいるお父さんは悪い宇宙人のへんそう? 百花が首を竦める。

「お前も悪い子だ。この女の娘だな。お前なんて本当はいらなかったんだ」

「あなた!」

 父親は舌打ちして振り返った。

 母親が膝を震わせながら立っていた。その腰には光る刃があった。

「……落ち着け! 話し合おう。そんなことしたら、お前は一生刑務所だぞ。……娘。そうだ娘はどうするつもりだ。俺が死んで、お前が刑務所に行けば、百花の将来が台無しだぞ」

「うるさい!」

 母親は髪を振り乱して、父親へ叫んだ。百花は耳と目を塞ぎたかった。けれど、両の手も動かず、瞼さえ動かせない。

「いつもいつもわたしたちを苦しめる。お前がいなければ、わたしも百花も苦しまないのよ!」

「やめろ!」

 母親はまっすぐ父親に飛び込んだ。

「くそっ!」父親はコートを横へ薙いで、母親の突進を止めようと試みる。

 母親はバランスを崩しながらも、父親の背広を掴んで床へと倒れ込んだ。母親の体重は軽くても、勢いと崩れたバランスで父親も上から覆いかぶさるように倒れ込む。

「死んで、死んでよ!」

 母親が床へ額を擦りつけながらも、手を後ろへ回して包丁を振りかざす。

「しつこいぞ!」

 父親が包丁を奪おうとする。母親が抵抗する。

 乱れ飛ぶ罵声に、百花が泣きだそうになった次の瞬間、台所に沈黙が訪れた。

「正当防衛だ。俺は悪くない。これは正当防衛だ」

 父親の真っ赤な手に、真っ赤な包丁があった。

 母親の背中から噴き出していた鮮血は、冬の噴水のように勢いを失っていき、やがて止まる。フローリングにできた血だまりから、鮮血は床板の隙間に沿って流れ出し、百花の靴下を赤く染めた。

「お母さん。……死んだお爺ちゃんと同じになっちゃた」

 コン。

 百花は甲高い木の音に驚き、百花は腰を浮かした。百花の周辺の床が濡れる。

「怒らないで」恐る恐る音のする方へ百花が目を凝らすと、父親の手から滑り落ちた包丁が床へと突き刺さっていた。さらに視線を上へ向けると、父親は意味不明な言葉を発しながら、茫然と天井を見ていた。

「宇宙人の言葉だ……」

 百花は包丁のところまで床を這った。

 悪い宇宙人を倒さないと、本物のお父さんは帰ってこない。

「悪い宇宙人は倒さなくちゃいけない」

 百花が包丁の柄に片手を添えた。血のために手が滑り、何度試しても百花は床に刺さった包丁を抜けなかった。

「シャオッ!」そのとき、動物の大きな鳴き声が百花の耳に届く。

「ケムケム……」

 全身の体毛を逆立てたマリモのようなシャオウが、台所の扉の隙間から顔を出していた。

 シャオウはすべてを見続けていた。

「またお前か! おいっ、百花に捨てさせろと言ったはずだぞ! どうして俺の言うことが聞けないんだ! お前は母親だろう」

 父親が人間の言葉を取り戻した。しかし父親は人間を失っていた。死んでいる母親を何度もけり上げ、死んだ人間に罵声を浴びせ続けた。

「ケムケムをいじめないで!」百花は自分で名付けたシャオウの名前を叫ぶ。

「本当にお前は悪い子だ。悪い子には罰が必要だ」

 父親はシャオウの体毛を掴み、天井へ向って高々と持ち上げた。そのままにたりと百花へ笑う。

「だめ!」

 父親が腕を振り落とすより早く、百花は両手で包丁の柄を握った。さっきはあれだけ拒んだ包丁が、まるで主として認めたかのように、容易に床から抜けて、百花の手に身を任せる。

「ぐお!」

 父親の太ももに刺さった包丁は浅かった。しかし父親の顔から血の気がどんどんと薄れていった。包丁は父親の大きな動脈を割いていた。




「ねぇ、これで本物のパパとママは宇宙から帰ってくるよね」

 シャオウがクルルと小さく鳴いた。

 父親は母親と寄り添うように床へ倒れていた。

 百花がどれだけその体たちを揺さぶっても、動くことはない。

「ねぇ、帰ってくるよね」

 シャオウは何も言わず、百花の体を駆け上がると、肩に乗って、その長い体毛で百花の頬を撫でた。

「それとも悪いわたしがいるからパパとママは宇宙から帰ってこないのかな? わたしがいなくなれば、帰ってきてくれるかな」

 百花の手の包丁が、小刻みに震えだした。

 シャオウがどれだけ鳴いても、百花の手にある包丁の切っ先がゆっくりと百花の顔へ近付いていく。

 その直後、シャオウの体が二つに分かれる。何もかも飲み込むようなほど開いた口に、百花の包丁も一瞬止まった。すると、台所の壁、天井、床、全体が青く染まる。その中に、百花の記憶が映し出される。喜びの記憶、悲しみの記憶。楽しさ、苦しさ、どの記憶にも百花の両隣に百花の両親がいる。

「クルル……」シャオウは百花から離れる。

 青い記憶が飢えたシャオウの前に差し出される。

 シャオウを躾ける優雨はどこにもいない。

 シャオウは、台所へ映し出された両親の姿だけを残して、喰いつくした。




「ごめんください」

 優雨が呼び鈴を鳴らす。玄関ドアの向こうから、廊下の床が軋む音が聞こえた。

 足音は二つ。

 数が合わない。里のものが調べた情報との食い違いに、優雨は首を捻った。

「どなたでしょうか?」

 玄関を開けると、仲睦まじそうな夫婦が現れた。夫は出勤前だったのかもしれない。スーツ姿に手にコートを抱えていた。妻は靴べらを胸で抱きしめていた。

 くすりと微笑みたくなるような、絵にかいたような夫婦だ。優雨はほっと胸を撫で下ろした。この夫婦と一緒なら、きっとシャオウは大事にされただろう。

「すみません。わたしのペットを探しているんです」

「ペットって?」

 妻が夫と目を合わせる。

「マリモのような、モップの先のような、毛むくじゃらの小動物なんですけれど……」

「あぁ、その子ならうちで預かっていますよ。君のペットだったんだね。申し訳ない。パーキングエリアで、店員に外へ捨てられようとしたから、思わず貰い受けてしまったんだよ」

「ありがとうございます」

 優雨は一礼した。……したが、違和感を覚えた。里のものの集めた情報はいつも完璧だ。それなのにシャオウを連れ去った経緯がどうも食い違っていた。

 夫が妻へ目配せする。

「百花ちゃんをすぐに連れてきますから、ちょっと待ってくださいね」

 妻が家の奥へと走っていく。

「百花ちゃん?」

「あぁ、すまないね。あのペットに勝手に名前をつけてしまって」

「百花繚乱。いい名前ですね」

「そうだね。妻と二人で、いつか娘が生まれたら名づけようと決めている名前なんだ」

 夫の幸せそうな笑顔があまりにも眩しくて、優雨は少なからず嫉妬しながら、顔を少し背けた。

 そのとき、意外なものを見つける。暗い廊下の先に、転々と女の子の服が落ちていた。どこかの学校の制服だろうか。黒いワンピース。下着だって落ちている。

「娘さんはもういるんですね」

「いや。残念だけれど」

 夫は真顔で答える。

「だって、あの洗濯物って……」

「はい、百花ちゃん。あなたの本当のママが来てくれましたよ」

 優雨の夫への質問を遮るように、妻がシャオウを抱えて現れた。

 優雨は下唇を噛みしめた。危険な三日に達していないのに、シャオウは衰弱しきっていたからだ。

「残念ね。わたしたちに子どもはいないから、この子をわが子のように育てようって、話し合ったばかりだったのよ」

 妻は力なく笑う。夫はそんな妻を慰めるように妻の肩を抱いた。

「さぁ、百花を連れて行ってあげてください。わたしたちより、あなたといる方がきっと幸せでしょう」

「……ありがとうございます」

 優雨は夫からシャオウを受け取った。シャオウはヨークシャンテリアのように体毛をすべて下へと垂れさせ、衰弱していた。

「こんなこと……女の子に罪を負わせないためだからって、わたしのようなモノを二体も作るから」

「何ですか?」

「いいえ。ありがとうございました。失礼します」

 優雨は一礼してから踵を返した。背中から扉の閉まる音を聞く。




「次期様。女の子は里で育てることになりました。」

 道に止められていた車から、パーキングエリアからずっと一緒の女性が出てきた。

 優雨に抱きしめられたシャオウは鳴き声一つ上げなかった。

「このようなことせずとも、あの女の子は、もう両親の記憶の一欠片すら持っていないですのに」

 優雨もその言葉を無視して、車に乗り込んだ。

 女性がふっと苦笑すると、それに合わせたかのように、車のフロントガラスに雨が落ちる。

「雨ですね」

 助手席に乗り込んだ女性は、優雨へ振り返ろうとしなかった。

「雨ね」

 優雨は当主様から聞いた話を思い出す。

 社翁雨が本物の『夕』のすべての記憶を奪って、優雨を作った日、同じように雨が降っていたらしい。それは優雨の最古の記憶にも刻まれていなかった。

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