第9話 雪乃消滅

「雪乃の記憶を消して、僕を楽にして欲しい」

 平日の昼間のファミレスは、子ども連れのお母さんたちが多かった。

 四人掛けの席に座った春日井は、隣の女の子へ呟いた。

 たぶん、どこかの高校の制服を着た女の子は何も応えず、隣の席の背もたれにかけられた使い古しのジャンバーを見つめていた。

 女の子の担任と言っても通りそうなスーツ姿の春日井は、沈黙を守る女の子に返事を貰うのを早々に諦めた。テレビで知る女子高生はもっと姦しいものだ。テレビの中の女子高生が作りものなのか、それともこの女の子が特殊なのか。

 まぁ、いい。春日井は注文したコーヒーに口をつけた。

「……本当に記憶を消すなんてできるのか?」それが本当にできるなら、確かに特殊な女の子だろう。

 春日井は半ば、本気にしていなかった。大学のときの先輩の中で、政治家になった人がいた。偶然、二か月前に会社の新年会をした会場で春日井はその先輩と再会した。OBとの合同登山のときはバディを組ませてもらったこともあった。その繋がりの中で、自分の問題を相談したのだ。

 先輩からは任せておけと言われた。

 次のときは、同席させると。

 きっと弁護士か福祉関係の医者か心理士だろう。春日井はそう予想しながら、会社を抜け出して、このファミレスで先輩が紹介してくれた人物を待っていたのだが――まさか、女子高生を寄こすなんて。

 お世話になった、それも政治家の先輩だから、後日、文句の一つも言えないだろう。追い返すわけにもいかず、とにかく相手へ親戚の子だと嘘をついて、同席を認めさせた。

 まさかこの女の子が相手を籠絡でもして、問題を解決してくれるのか? 思わず先輩と絡み合う女の子の姿を想像してしまって、春日井の胃が重くなった。バカバカしい。春日井は名乗りもしない女子高生の横顔を眺めながら、ため息をついた。




「春日井くん、待たせて悪かってね」

 お手洗いから帰ってきた元義父は、濡れた手を振りながら席へついた。

 洗濯など一度もしたことのないようなワイシャツは、元の色が何色かわからないほど油と土に塗れていた。

 月々、渡している二十万円を義父さんは何に使っているんだ?

 春日井は臭ってくる体臭に、軽く咳き込んだ。

 隣の女の子は表情を変えない。

「おじょうちゃん? その肩にいるのはネズミ?」

 義父さんの声につれれるように、春日井も女の子の肩へ目を向けてしまった。

 肩に毛むくじゃらの何かが、確かに乗っていた。サイズはまさにネズミかリスだ。その外見はまるでマリモかモップのお化けだった。生物なのか、それとも趣味の悪い人形なのか。確認しようにも、女の子は義父さんの質問に答えない。そのモップのお化けも微塵も動かない。義父は執拗に声をかけていた。

 春日井も、そのモップのお化けに興味ないと言えば、嘘になる。しかし、そんなものにいつまでも構っていられない。今日は覚悟を持って、この場に出たのだ。

「義父さん。もうこんなことは止めてください」

「止めてください?」

 女の子から顔を上げた義父さんが、緩んでいた顔を醜く歪めた。黒く汚れた肌に、不揃いの口髭が醜い。春日井は、黒いコーヒーへ視線を落として、義父さんを正視しなかった。

「一人娘の命を奪っておいて。どの口か言うんだf」

 義父さんは震えた手を机へ乗せた。たぶん怒りより、アルコールのせいだろう。吐瀉物のすえた臭いが、義父さんから漂ってくる。

「確かに、雪乃の……妻の登山に同伴を許したのは僕です。けれど準備からしっかり協力して万全でした。

 不慮の事故まで、僕にはどうすることもできません」

「なら、こういうことか? 死んだ雪乃が悪いと?」

「そうは言っていません!」

 春日井が机を叩こうとした瞬間、視線に気づく。女の子が、何の感情も表さない目で、春日井を見上げていた。

 春日井は大きく息を吐き、ゆっくりと手を下ろす。

「雪乃の、唯一の血縁者である義父さんを、僕だって力の限り支援したいし、雪乃のことを償いたいと思って、慰謝料を渡してきました。けれどもう三年目です。お金を渡す頻度や金額も増えています。そして何より、義父さんの生活は乱れきっています。今日だって、またお酒を飲んでいますね……。人間らしい生活を取り戻してもらいたい。雪乃だって願っているはずです」

「私から、人生の意味を……雪乃を奪ったのは誰だ」

 春日井は唇を固く閉じた。

「雪乃を殺したのはお前だ。遭難した雪乃を放置した、お前だろう!」

「あれは……しかたないことなんです」

「しかたないで片付けるな!」

 怒声がレストランへ響いた。

 食後の雑談に花を咲かせていた客が肩を寄せ合い、逃げるように店を出ていく。

 店員が怯えて、春日井から遠巻きに集まっていた。その店員をかき分けて、初老の店員が現れた。店長だろうか?

「お客様、他のお客様のご迷惑……」

 そう下手な作り笑いで声をかけてきた店員の肩へ、毛むくじゃらの小動物が飛び乗った。

「な、なんだこれ!」

 店員が驚いて振り払おうとする。

 小動物はその手を巧みに避けると、店員の手を噛んだ。

 傷みに喚く! 春日井は悲鳴を予想して片目を閉じた。しかし店員は声の一つも上げない。予想に反して、店員はとろりとさせた目を春日井と合わせた。

「どうぞ、ごゆっくり」

 店員は席を離れ、ざわめく他の店員を全部奥へ押し込めた。

 本来ならお客がいっぱいになる時間なのに、広い店内に春日井を含めた三人……と一匹しかいなくなる。

「なんだ……これは……」

 義父さんが目を大きくさせた。春日井も驚き、声を出せない。

「誰の記憶を奪えばいいんですか?」

 女の子が声を開く。

「本当にできるなら、義父さんの中の雪乃の記憶だ。雪乃の記憶がある限り、義父さんは救われない」

「あなたは救われるんですか?」

 女の子が腕を前へ伸ばすと、小動物は女の子体を伝って、手の甲へ乗った。

「記憶を食べちゃえば、雪乃さんはもう消えてしまうんですよ」

「どうやって記憶を消すかなんてわからないけれど……雪乃の記憶が義父を苦しめているのなら……」

「そうすれば、もう、雪乃さんを殺したことを、誰にも気づかれないんですね」

「何を?」

「だって、雪乃さんを殺しましたよね?」

「なっ、何を証拠に!」

「証拠なんてありません」

 女の子がきっぱりと答えた。

 春日井はネクタイを緩める。

 あのとき、山にいたのは二人だけだ。あのときの真実なんて誰も知らない。

「それなら、さっさとしろ! 催眠でも、薬でも何でもいいから、義父さんから雪乃の記憶を消して、二度と僕を強請らないようにしろ!」

「……わかりました」

 そう女の子が答えた次の瞬間、帯? フィルム? とにかく、義父さんの後ろに雪乃の様々な姿が映し出された。

「もうだいぶ、赤化している……」

 春日井は女の子の言葉の意味を理解できなかった。

 女の子は赤紫色で映し出された雪乃の姿を寂そうに俯き加減に見ていた。

「失った人の記憶は、やがて優しく薄れていく。良い思い出だけがそっと心に残る。でも、悲しみが深いと、記憶の中の雪乃さんも嘘になっていく」

 女の子が真っ赤に染まった雪乃を指差した。

 雪乃は般若のような顔で怒り、さいの河原でのたうっている姿が映し出されていた。

「嘘の記憶は、その人の心を蝕んでいく。悲しい限り……シャオウ」

 女の子は毛むくじゃらの生物へ叫んだ。

「ごめん、きっと毒が……でもお願い、食べてあげて。雪乃さんを解放してあげて」

 小さな動物が口をゆっくりとあげていく。まるで体全体が口になったと勘違いしてしまうほど、大きく開いた。

「……喰っている」

 春日井が思わず目を逸らした。

 生物は、映像の雪乃を喰っていく。そうとしか表現できない。映像のはずなのに、食べられる雪乃は悲鳴を上げ、赤紫色の血のようなものが周囲に撒き散らされた。

 春日井は手で口を抑え、吐き気を懸命に堪えた。




「終わったのか?」

 義父さんは、さっきの店員のように、とろりとした目で、虚空を見ていた。

 義父さんの後ろにあった雪乃の映像は全て喰い尽くされた。

「代金……」

 女の子がぽつりと言った。

「あぁ、先輩から聞いている。お金をどこへ払えば」

「お金はいらないわ」

 女の子は手の中でぐったりとしている生物の毛繕いを続けていた。

「お金、以外? まさか命を差し出せなんて言わないよな」

 女の子は、口元を痙攣させて笑う春日井へ向けて、首を横へ振った。

「赤化した記憶は、毒なの。だからもっと青い記憶を食べないと元気になれない」

「記憶?」

「そう。その記憶の善悪とか美醜なんてどうでもいい。ただ青い、真実の記憶だけがシャオウのお腹を満たしてくれる」

「……ちょっ、ちょっと止めろ!」

 春日井の背後に、雪乃の記憶が広がる。

 二人で罵り合う姿。そして落石を引き起こし、雪乃を殺した春日井の姿。

「安心していいわよ。暴露するのがわたしたちの目的じゃない」

「なら、どうするつもりだ!」

「言ったでしょう? 食べさせてあげたいだけ」

 シャオウは口を開き、春日井の記憶を貪った。




「あなたは誰ですか?」

 春日井が前の席で座っている浮浪者っぽい男性へ尋ねた。いつの間に合い席をしていたのだろう。全く記憶にない。営業相手とも思えない。雪焼けのような黒い顔を見て、登山仲間の一人かもしれないと考えたが、やはり一緒に登山した覚えはない。

「君こそ……どうして合い席なんだ?」

 男性も首を傾げながら春日井へ尋ねた。

 ファミレスは繁盛しているものの、席はまだ空いている。

「失礼します」

「こちらこそ」

 二人とも席を立った。

 春日井はレジへ向かい、男性はトイレへと向かった。

 外が騒がしくなった。窓から外の様子を窺うと、パトカーが数台、会社のある方向へサイレンを鳴らして走って行った。

「うるさいね。何かの事件かな?」

 春日井がそう言いながらレシートを渡した。

 何でしょうね。店員が話を合わせながら、レジを打ち始めた。

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