第8話 年に一度だけ、喰われる

 私は、記憶障害か、何らかの精神的な病気を患っているのかもしれない。

「どうして毎年、この日のことを忘れていて、そして突然、ここへ来たくなるのだろう」

 私は、年に一度、墓参りに出かけている……らしい。墓へ入っている女の人――彼女が亡くなってから、たぶん十年経つ……のだろう。

「らしい? だろう?」私は、鼻で笑う。

 寺からのハガキを受け取り、大慌てで去年の日記や、システム手帳を読み返した。聞くと、彼女のお母さんもとっくに亡くなっているそうだ。彼女と血のつながった人は、ここから遠い東京で住む叔母だけになっていた。

 水苔がお墓にこびり付き、周囲の雑草は放置されている。お墓の世話をしているのは、私だけなのだろう。

 去年結婚した妻に、ここへ来ることを伝えていない。福岡の営業所へ出張していることになっていた。

 事実は違う。私の生まれた町の、小高い丘にある墓地に、私は立っている。丘からは、すでに空き家となった私の実家や、通った小学校が見える。一昨年、改築されたらしい幼稚園もその向こうで屋根だけ見えた。

 どうしてだろう。妻が恋人だった頃から、私は妻に嘘をついてお墓参りに来ていた……らしい。

「……らしいって言うのもおかしな話だけれど」

 妻が見るかもしれない仕事用のシステム手帳には、毎年、この日付に丸をつけ、日本中のあちこちへ出張していることになっていた。もちろん、会社のどこにも、出張届は保存されていない。

 毎年、この日に提出するのは休暇だけだ。

 妻とは職場結婚だったから、一緒に勤務していた頃、どう誤魔化していたのか。嘘みたいだけれど、そんなことさえすっかり忘れていた。でも――「彼女のことほとんど忘れているのに、彼女が私の運命の人だった。それは自信を持って言える」

 だから妻に内緒で、お墓参りに来てしまったのだろう。「相手は死んでいるのに。こうしてお墓の前へ立つと、妻への不貞を働いているかのようで後ろめたい気持ちになる」去年までの私の気持ちは、どこにも記録されていない。でもきっと今の私と同じ気持ちだったから、去年までの私も妻へ嘘をついたのだろう。

 私は自嘲しながら、お墓の周りを水洗いし、雑草を抜いて、線香と少量のお米を備えた。

「どんな人だったのだろう?」運命の人といった口で、そんな一人言を言う。

 線香の匂いに身を任せながら、そっと手を合わせて、彼女のことを一つでも思い出そうとした。

 ……何も思い出せない。それでも、目の前にあるお墓に、私の大切な彼女の魂が間違いなく眠っている。




 謎の彼女の正体を少しでも知っておきたくて、お墓参りの前に実家を訪れた。空き家にも関わらず、私物は私の部屋の押し入れに、きちんと保管されていた。埃も家具に比べたら、ほとんど積もっていない。これも彼女のこと同じく覚えていないけれど、毎年、私が片づけにきているのかもしれない。

「同じというか、これも彼女のことだから、忘れていたのかもしれない」押し入れの奥に、幼いころの文集や、卒業アルバムなどが残っていた。私はその中から、少し手垢の残った白い日記帳を取り出した。破らないように、一枚ずつページを優しく開いていく。

 彼女と私の出会いは、中学一年生のときだったらしい。同じクラスだったけれど、違う小学校の出身だったらしく、当初、ほとんど話していなかったらしい。私の日記に、ミミズの這ったような汚い字で、そう記していた。遠くから眺めるだけの存在だった彼女。しかし担任の先生が、文化祭の実行委員に私と彼女を選んでくれたらしい。たぶん、先生がいなかったら、彼女のことを、日記に残せなかったと思う。




「文化祭の仕事は、朝は五時登校、夜は八時まで学校に居残り。へとへとになりながら、文化祭の準備や、踊り、歌の、劇の練習を繰り返した。もう、僕がロミオなのか、エグザイルなのか、源氏なのか、わけがわからない状況だったけれど、いつも隣に彼女の笑顔があった。光源氏の衣装を準備してくれたり、振り付けの練習につきあってくれたり……」

 私は読むのを止めて、実家から持ち出した日記を閉じた。

「私は……僕は彼女と付き合っていたのだろうか?」

 彼女の叔母は、彼女の写真さえ残していなかった。

 実家の卒業アルバムの彼女の顔も、切り取られていた。

 悪質……と言えない。きっと泣き暮らしていた私のために、誰かがしてくれたのかもしれない。

「だったら、やっぱり彼女とつきあっていたのだろうか?」

 確かめようにも、彼女はお墓の中で眠っている。

「それほど大切な人なら、どうして私はいつも、彼女のことを忘れているのだろう……」

 それはきっと、悲しみを乗り越えられるぐらい、今の妻との暮らしが幸せだから……それは、いいことなのかもしれない。

「だったらどうして、涙があふれるのだろう」

 だから私は、お墓参りをしたかった。きっと去年までの私も、私と同じ気持ちになったのだろう。

 きっとそうだ。




「お墓参りですか?」

 私が涙を親指ですくってから振り返ると、肩にモップか、マリモのお化けのような小動物を乗せた女の子が立っていた。

「あぁ、この子、シャオウって言います」

 女の子が、私の視線に気づいたらしく、そのシャオウと呼んだ小動物の毛を撫でながら、嬉しそうに答えてくれた。

「君も、お墓参りですか?」

「そうですね。毎年……お墓参りみたいなものかもしれません」

 変わった言い方をする子だな。私はそう思いながら、女の子の両手を眺めた。どちらの手にも、水を汲んだ桶も、線香なんかのお墓参りの道具も持っていなかった。

「ご家族とお墓参り?」

 きっと先に、お墓参りの道具を持った保護者が、お墓へ向かっているのだろう。そう思って私は周囲を見渡すけれど、誰もいなかった。

「わたしのお墓参りじゃないんです……」

 女の子がそういうと、私の体が固まった。同時に、映画のフィルムのようなものが私の周囲を覆った。

 それには、青くなりつつある『赤紫色』の彼女が映っていた。

「人の思いって凄いね。失った記憶を、作り出せるんだから。赤がもう、青くなろうとしている」

 これなら、なんとか食べられる? 真っ赤な嘘は、毒だから、食べないでね。女の子は、意味不明な言葉を、肩の上に乗る小動物へ尋ねた。小動物は、クルルと一声鳴いて、毛むくじゃらの体を、女の子の頬へ摺り寄せた。

「君はいったい……」

 あまりにも現実離れした状況に、私はそれだけしか声に出せなかった。

 映像の彼女は、みんな私……あの頃の僕を見てくれていた。

「……今年も、ごめんなさい。依頼は、絶対だから」

 女の子がシャオウと呼ぶ小動物が、体を真二つに分けたかのような大きな口を開けたかと思った次の瞬間、フィルムの彼女を貪り始めた。




「毎年、言っていますけれど、全部は消せないんです。思い出は作れるんです。物に残る記録で」

 シャオウは記憶を食べる。けれど記録はありとあらゆる場所に残されている。

「それでも、いいのよ。この人が、またこの一年、忘れてくれるなら」

「まだ、来年も続けるんですか? 依頼だから……でも、かわいそうです。もう解放してあげてください」

 今年も、男性は、日記などの記録から『作り出した』彼女の記憶すべてを、シャオウに喰い尽くされた。男性の人格形成は、彼女という背骨でできている。つまり彼女の記憶を失うことは、自分を失うことに等しい。男性はきっと何も考えず、ただ幽霊のように規則的な生活を繰り返す。

 放心している男性を抱きしめる女性へ、優雨は尋ねた。

 お墓を見つめる女性の瞳は、憎しみに燃えたり、悲しみに濡れたり、忙しかった。

「あなたは生き残って、この人を手に入れた。お墓の人は、もう、思い出なんですよ? こんなこと続けたって、その人は、あなたに微笑んでくれませんよ」

「きっとあなたにはわからないわね」

 女性は優雨を諭すように言った。

「死んだ人間は、生きている人間より強いのよ」

 女性はそう言って、お墓をもう一度見上げる。

「きっと記憶を奪わなければ、彼はわたしを捨てて、毎日、お墓参りを続けるわ」

「まさか、そんなこと」

「死んだ人間は、美しいまま年を取らない。叔母のわたしは絶対に勝てないのよ」

 女性は結婚指輪をはめた手を、男性の唇へ何度も押し付けていた。

「だったら……あなたも死にますか?」

「そんなことできないわ。私は、姪のことも愛している。生き残った人間は、死んだ人間の分まで生きる義務があるの」

「だったら、生きている人は、死んだ人に勝てない」

「だから、戦って、戦って、彼を奪い返すのよ。それも生きるってこと」

 女性は巻き込んだ唇を強く噛んだ。

 その結果得られるのは、人形のような夫でも、女性は戦うのだろうか。

「死んだ人間と戦い続ける……わたしはどうだろう。ねぇ、わたしは死んでいる方? 生きている方? ねぇ、シャオウ、どっちかしら、わたしはどっちと戦えばいいの?」

 優雨は、クルルと低く鳴くシャオウの毛をゆっくりと撫でた。

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