第7話 悪意の原因

――しっかり、頑張って。

 それって、俺は全く頑張っていないって意味?


――貴方なら、きっとできる。信じているから。

 お前になら、きっと簡単にできることだろうともさ。信じているなんて、簡単な言葉だな。


――つらくなったら、いつでも相談してね。何があっても、絶対に、あたしは貴方の味方だから。

 そうやって俺には嘘をついて……あいつと寝るんだろ?


 人の善意が……きっと俺が何をしでかしても、最後まで味方になってくれるはずの、彼女の言葉が全て、悪意にしか聞こえなかった。




 仕事からの帰り、途中で高い酒を飲んで夜の蝶と戯れたって、やっぱり今日も心は荒んだままだった。仕事は何一つ上手く回らない。上司からは能力を疑われ、同僚からは同情され、たった二人しかいない部下からは、冷ややかな目を向けられている。

 それでも、プライベートが充実していたら、きっと気持ちも持ち直せるのだろう。しかしそこでも、最悪の状態だ。

 心躍らせながら、一つずつ、確実に準備してきた彼女との結婚は、あっさりと延期された。

 ――周りに迷惑をかけるから、今は結婚できない。

 彼女の仕事が順調で、それを理由にされたのだ。翻って俺は、仕事もプライベートも何も充実していない。何とかしようと、毎日、遅くまで残業を続けても空回り。どれだけ状況を変えようと、考えて、考えて、実行しても、好転しない。

「俺はもうダメだ」

 そして今日も、部屋で待っている彼女と喧嘩するのだろう。些細な彼女の、例えば彼女の口角が僅かに上がったのに気づいただけでも、俺は彼女への怒りを抑えられなくなる。充実している人間は、こんなにも幸せなのかと思うだけで、殴らずにいられない。それでも彼女は、そんな俺から離れなかった。俺だって、毎朝、彼女の腕や脚の青痣を見つけるたびに、後悔する。そんな俺へ、彼女は何もなかったようにおはようと声をかけてくれていた。


 しかし今夜は違っていた。

 

 いつもなら、キッチンで夕食を作っている彼女の鼻歌が、マンションの外まで聞こえてくる。

「どこかに出かけているのか? それともまだ仕事か?」俺の舌打ちが大きくなった。

 俺は苛立ちながら玄関を開けた。真っ暗な部屋の奥から、お帰りと、彼女の明るい声も聞こえて来ない。

「いいさ、いないなら、喧嘩しなくてすむ」

 俺は暗いままの廊下を進んで、手さぐりにキッチンの電気を点けた。

 眩しさに瞼を細めた目で、最初に見つけたのは、さよならと書かれた紙片と、その重しとばかりに置かれたマンションの合い鍵。

「やっぱりかっ。そんなに昔の男の方がいいのかっ!」

 俺は鍵を掴むと隣のリビングへ向かって鍵を投げつけた。

 大きくて短い、破砕音。二人でお金を出し合って買った大型のテレビの画面に穴が開いた。それぐらいで俺の怒りは鎮まらない。キッチンの椅子を掴むと、テレビに向かって投げた。椅子はテレビに直撃しなかった。しかし脚の部分がテレビ台の端を引っ掛け、テレビはゆっくり前後へ揺れたあと、床に倒れ込んだ。

 俺は奥歯を噛みしめながら、ゴミとなったテレビの背面を睨みつける。

 二人で頭を捻りながら繋いだ配線がテレビから抜けていた。

「これぐらいで許せるかっ!」

 俺はリビングへ移動した。床に寝転がったテレビを何度も踏みつける。焦げ臭い匂いが鼻腔を擽り、木の折れたような鈍い音が足の裏に伝わっても、俺は踏み続けた。何度、踏みつけようとも気が収まらない。

 どうしてだ? どうして。……どうして?

 あぁ、そうか。

 答えは簡単に出た。

 彼女が生きているからだ。

 仕事も順調で、俺よりもっとデキる男へ、股を軽々と開いているだろう。そんな何もかも上手く回っている彼女がいる限り、俺は苦しみ続けるんだ。充実している人間は、周囲へ無意識の悪意を撒き散らす。

 俺はテレビから抜け出ていたコードを根元から引きちぎった。とても丈夫でしなやかなコードは驚くほど手に馴染んで扱いやすかった。

「そうだ。いつも通り……いや、いつもよりちょっとばかし、力を入れればいいだけさ」

 俺はコードの両端を握り、何度も引っ張った後、リビングの隅にある観葉植物の枝に巻きつけた。コードは枝を締め上げる。

 予行演習――これなら充分だ。

 俺はコードを枝から取り外すと、丸めてポケットへ強引に詰め込んだ。

 彼女はきっと、あいつの家だろう。俺は奥歯を噛みしめながら、きっと前を睨みつけ、玄関へと向かう。

「それで、あなたは救われるの?」

 誰だ! 後方からの声に、俺は振り返った。直後、リビングの窓を開けて、外のベランダから高校生の制服を着た一人の女の子が入ってきた。

 俺は心臓をわし掴みされた。

 自分の悪意が、誰かに気づかれた。さっきまでの強気がすっと音もなく消え、俺は突然現れた子どもに怯えていた。

 女の子はきっと本物の女子高生だろう。夜に働く女の子にしては若く、何より素朴な雰囲気を醸し出していた。例えるなら、真夏の焦げる太陽の下、水田のあぜ道で、白いワンピース姿で佇む。そんなのが似合う女の子だ。染めてもいない真黒な髪は肩の辺りで切り揃えられていた。桃色の下唇はふっくらとして、リップグロスも塗っていない。笑顔が似合う田舎の女の子。……それなのに、その瞳だけは光を失い、何かを憂いているようだ。

 まるであいつと瓜二つだ。

 その女の子の目がとても気になった。あいつと同じ目で俺を憐れんでいるように見える。

「まぁいいさ。女の子一人ぐらい、どうとでもなる。いまさら、一人も二人も同じだ。

 それに、この女の子は不法侵入者だ。俺が殺したところで、正当防衛で罪は問われない」

 蘇った悪意が、冷静さを奪い、冷酷さを増大させる。

 どうでもいい。いまさら、俺はもうどうにもならない。

 この気持ちが内に向かい、他人に迷惑をかけたくない優しい奴が自殺を選択するのだろう。しかし俺は善人でも、優しい人間でもない。

「わたしを殺せば、人生が好転するの?」

 女の子の声のあとに、しゃぁっと猫が威嚇するような声が続く。女の子の肩に、モップのお化けみたいな毛むくじゃらの小動物がのっていた。

 好転?

 あぁ、そうともさ。俺を苦しめるもの全てをこの世から消し去れば、きっと世の中は楽しいさ。

 君も俺の邪魔をするなら、殺すよ? いや、もう殺すことは決めている。

「まるで通り魔ね。覚悟も、決意もない。最低の殺人者」

 殺人なら、どれでも同じ人殺しだ。

「そうね、その通り。だったら、わたしも同じかもしれない」

 俺は身構えた。

 これはいい。本当に正当防衛が成立しそうだ。

 この女の子が、どんな殺人者であろうと、相手は女子高生だ。つまり子どもで、俺は男で大人だ。

 俺はコードを取り出すと、それぞれの手でコード両端を握りこんだ。

「……でもね、わたしと貴方は決定的に違う部分がある」

「ふっ、いまさら殺し合いを怖がるのか?」やはりな。大人と子ども、男と女は差がありすぎる。俺は圧倒的な優位さに、笑いを堪え切れない。

 しかし女の子は、気に食わないほど哀れそうな顔で俺を見つめていた。

「わたしが殺すのは、命じゃない」

 命……じゃない?

 そう俺が呟いた瞬間、俺の目の前が藍色に包まれた。映画のフィルムのようなものが縦横無尽に俺の目の前に走った。

 俺か?

 そのフィルムの中に映るのは、笑っている俺だった。

 彼女と同棲を始めた頃の俺。

 彼女の落とした定期を、拾ったときの俺。

 彼女と初めてデートした湾岸のレストラン。照れながら、面白くて楽しい仕事の話ばかりをしていた俺。

「……依頼をした彼女からの伝言。『あたしが貴方を苦しめているから、あたしは貴方から、一片も残さず、消えます。』……シャオウ!」

 女の子の最後の言葉の意味はわからなかった。ただし、その意味不明の言葉のあと、女の子の肩にのっていた小動物が動き始めた。体の全てが口かと思うほどの大きな口腔を明らかにすると、俺が写った青い映像を喰らい始めた。

「きっと彼女の言葉を貴方は覚えてられないと思うけれど……」

 思うけれど? その続きを聞きたかったが、俺の意識はそこで途切れた。




「あれ? 何でリビングの床で寝てるんだ?」

 俺はスーツを着たまま、リビングの床で寝ていた。

 相当、酔っぱらって帰ったらしい。

「……嘘だろ? まだ支払いが残っているのに」

 初めてのボーナスで買ったテレビが床に倒れていた。一人暮らしには大きすぎるマンションの家賃だって苦しいのに。しばらく、テレビは諦めるしかない。

 けどなぁ、彼女もいないのに、何でこんな大きな部屋を、高い家賃を払って、借りてしまったのか「あぁ、早く、彼女でもできないかな……」

 でも仕事が忙しくて、彼女を作る時間もない。

「もてない言い訳だな……あっ、いけね」

 携帯のアラームがなる。もう出社時間だった。

 取りあえず、よれよれのスーツを脱いで、クリーニングから返ってきたままのスーツを取り出す。「あれっ? 俺っていつクリーニングに出したっけ?」

 俺は、誰もいない部屋の中で、訊いた。もちろん、答えなんて返って来ない。

 俺は苦笑した。

「あれ? なんだこれ?」

 そんなことを考えながらズボンを脱いでいると、そのポケットから、何かのコードが出てきた。

「やべぇ。ちょっとお酒を控えないとヤバいかも」

 俺は、コードをくずかごへ捨てた。

 その瞬間、何故だか、ちょっと、ほっとしたような気持ちになったあと、とても寂しい気持ちに襲われた。

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