第6話 狂気を生む記憶

 丸太小屋の天井にうつる影が揺らいだ。

「お願いします」

 女性は椅子から腰を上げて、優雨に頭を下げた。

 優雨は、シャオウの長い毛を撫でながら依頼主の言葉を聞いていた。

「頭を上げてください」

 女性は、優雨へ肯いた。再び椅子へ腰を下ろしかけたとき、もう一度立ち上がると、女性と優雨の間にある低いテーブルの上に置いてあった空のコーヒーカップ二つをシンクへ片した。

 湯気の上るコーヒーカップが一つだけ、テーブルの端に残っている。

「ごめんなさい。父は製作に忙しくて」女性はそう言いながら、一口も飲まれていないコーヒーカップもシンクへと置きに戻った。

 ようやく女性は落ち着いて、優雨の正面にある椅子に座った。

 女性がテーブルに置いてあった封筒を取ると、ペーパーナイフで封を切った。封筒は優雨が持ってきたものだった。

「ありがとうございます。すぐにでも父の記憶……悲しい記憶を消してあげてください」当主から女性へ、二つの依頼を受ける旨が、封筒から取り出した手紙に記されていたのだろう。

 優雨は、依頼主の女性が自分のより十歳年上と当主から聞かされていた。「聞かされていたけれど……」優雨の口からつい零れる。

 女性のぼさぼさの髪には白いものが目立ち、目の下の辺りが青黒くなっている。

 そんな女性の年老いてしまった姿に、優雨は気まずさを覚えて、女性から視線を外した。すると目の端に、丸太小屋の黒い窓の女性の背中を見つける。

 夜のせいもあるのだろうけれど、黒い窓には女性の背中、部屋の様子しか映っていない。微かに深い森が窓越しに垣間見えるも、他の民家の明かりはない。

「クルル」シャオウが優雨の頬へ、小さな体を擦り寄せる。

 見えなくて当然だった。ここに来るまで、別の家はなかった。麓から、車で半時間ほど山道を登ったところに、この別荘はあった。

 どうしてこんな山奥に別荘を建てるのか。

 仕事のために、静かで集中できる環境が欲しかったから。優雨もその程度は想像できた。しかし食料品どころか水もままならないのに……芸術と縁遠い優雨は理解に苦しむ。

「父はずっと、あの調子で……」

 その声に合わせたように、黒い窓の右の端に線香花火のような光が宿った。

 黒の中に浮かんでいる一点の光は、人魂のようだ。

 外に設置されていた窯からこぼれた明かりなのだろう。

「クゥ」シャオウが短く鳴いた。そうだね。そう優雨は応え、シャオウの毛を指で梳いた。

「父は、昼夜を問わず作品作りに没頭していて……。このままだと死んでしまう」

 女性は両目を手のひらで押さえた。嗚咽に気づいて優雨は体を女性へと向き直した。

 丸太小屋の壁には、夥しいビスクドールが並べられていた。全てはきちんと並べられ、みな違った子ども服を着ていた。

 その細やかな配慮のために、夜の暗さと相まって、人形に命が灯っているように見えてしまう。

 悪寒が優雨の背中を走った。「……全部、同じ顔」ビスクドールの顔はすべて小さな男の子の顔をしていた。

「父は、孫が死んでからおかしくなって……。孫を守れなかったと。……父を恨んでなんかいないんです。父は飲酒運転していた車を回避しようとして、ハンドル操作を誤っただけで。父だって、死んでいたかもしれないんです。夫とあの子を失って間もないのに、父まで失ったら……」

「どうなると思います?」

 優雨は無神経だと自覚して声に出した。

 女性の涙が一瞬で消えた。首を傾げ、眉をしかめる。少し、怒っているようにも見えた。

 けれども、これは言わなくてはいけないことだ。

「何をおっしゃっているの?」

 女性の声は鋭利だった。

「狂気から、狂気の原因を奪ったとき、どうなると思います?」

「……狂気? 父が狂っているとでも言うつもり!」女性がテーブルを叩く。

 壁の人形が数体、横に倒れ、陶器の音がした。

 女性は、優雨へ荒い言葉をぶつける。

 小娘に父親を貶されたと怒ったのだろう。

 疲れ切った人間の理性の箍は簡単に外れやすい。逆上されたら命の危険だってある。

 優雨の肩の上のシャオウが、低い鳴き声で唸る。「心配しないで」そう優雨は囁いてシャオウの毛を撫でる。

「聞いているの!」

 無視された女性が再び声を荒げた。

 女性は優雨を睨みつける。それでも優雨は、女性を救うために、同じ言葉を繰り返した。

「奪ったあと……。狂気を失った人は、どうなると思いますか?」

「どうなろうと関係ないわ! 父が、元の父に戻ってくれればいいの!」

 優雨がゆっくりと首を横へ振った。シャオウが同意するかのように小さく唸る。

「子どもを失う前の……元に戻れますか?」

「ふざけないで!」

「人は悲しみの重さに、非常識な行動をしてしまうかもしれません。一時、狂気に身を委ねることもあるでしょう。でもそれは悲しみを忘れているわけじゃなくて、悲しみを乗り越える準備をしているだけです」

「そんなこと、父は肉親なのよっ。他人のあなたに言われなくても、父の気持ちはわかります。でもこのままだと心と体が……」

「悲しみだって生きていくために必要なんです。悲しみは失くしていいなんてない。悲しみだって持っているから、人は人でいられるんです」

「いい加減にして! 夜も眠らず孫の姿をした人形を作り続けるのを止めてあげたいだけなの! 人形師だからって、やつれてまで同じ人形を作る方がよっぽど人らしい生活じゃないわっ」

 優雨はそこでシャオウを両手でそっと抱える。「悲しみだって、失ったら人でいられないんです」

 悲しみと向き合える。悲しみを乗り越える。悲しみを抱えて生きていく。それだって人の生きていく強さだから。優雨は小さな声だけれど、気迫を込めて、女性へ訴える。

「ふざけないで! あなたは言われた通りのことをすればいいのよっ」

 しかし、女性は優雨の言葉を聞き入れようとしない。女性が依頼を撤回しない限り、当主の命令に逆らえない優雨はシャオウに記憶を食べさせなければならない。

 もしかしたら、この女性は、強い人かもしれない。優雨と、きっとシャオウも、その一縷の望みに賭けることにした。

「わかりました。でも、後悔しないでくださいね」

 優雨はシャオウと一緒に外に出て、窯へと近づいた。

 シャオウと優雨の周りが青く染まる。女性の死んだ息子と自分の父親の姿が壁一面に映し出されていた。




 翌日――優雨は、女性の首つり死体と向かいあっていた。

 警察にはもう連絡してある。そろそろこちらへ到着するだろう。

 

 女性の頼みで翌日に延期したもう一つの依頼は、結局、果たせなくなった。

 

 人形を作り続けていた女性の父親は、その傍らで、涎を垂らしながら青く澄み渡る空をずっと見上げている。

 女性の父親にとって、人形――孫の姿を現にもう一度戻すことだけが生きていく唯一の理由だったのだろう。その孫の記憶を喰われたのだ。父親にはもう何の記憶も残っていない。

 父親は生まれたばかりの赤ん坊のような澄んだ目をして……自分の娘の遺体にまったく興味を示していなかった。

「こうなることは、わかっていたはずなのに……」

 肩に乗ったシャオウは鳴かない。優雨はシャオウの長い毛を撫でない。ただじっと黙って、優雨とシャオウは女性の死体を見つめていた。

 悲しんでばかりではいられない。そう頑張れるのも、悲しみがあればこそだ。

 だったら――、

 記憶を喰われた父が悲しむ理由を失ったことで、女性はもう生きている必要がなくなったのだろうか。

 だからもう安心して、後顧の憂いなく、子どものいる場所へ旅立ったのだろうか。

 ――違う。

 女性は、悲しみから解放された父親を見て、同じくこのまま息子を忘れて生きていく自分の未来予想を恐れたのだ。ならばいっそ、と。

「悲しい記憶だって、大切なもの……」優雨は弱弱しく笑う。

 優雨はシャオウを抱えて、人形師の丸太小屋を、後にした。

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